世界が終わる前にThe world end

 菊は窓際の小卓で、赤茶の分厚いノートに日誌をつけていた。
 とはいえ、それほど真剣になっていたわけでもなく、彼の興味は常に小雨が降る通りの石畳に向いていた。窓の外でなにか動くたび羽ペンを休め、珍しい生き物を見つけるようにそこを凝視していた。

 まるで、世界に彼以外が存在するのを確かめるように。

 菊が三十五回目の観察を中断したのは、乱暴なノックと同時に部屋のドアが開け放たれたからだった。

「おい、ジジイ! 晩酌だ! 晩酌につきあいやがれ!」
「師匠。ノックと同時に扉を開けるのはやめて下さい、と何度も申し上げたと思いますが」
「だなー! 耳が腐るほど聞いたぜ! だが弟子とは常に師に逆らえないもんなんだよ。知らなかったか?」
「よっく存じておりますとも」

 菊は彼のために席をたったが、ギルベルトはそれを無視し小卓の後ろのベッドに胡坐をかいた。押しつけられたワインボトルとグラスにため息をつき、菊はおとなしく栓抜きを握った。

  彼はなぜギルベルトが来たのか理解できなかった。ごく少数になった「身内」の晩餐会で今後についてはさんざん語り合ったし、彼は菊と違いしめっぽい別れは好まない。

 おそらく明日そっけないキスを交わし、気のない激励の言葉をかけあうのが今生の別れになると考えていた。菊は来訪の真意が気になったが、直截それを尋ねるほどあけっぴろげな性格ではなかった。

「お前、ヤッたことあるか?」街の悪ガキのように瞳を光らせ、ギルベルトが笑った。
「……はい?」気まずい沈黙。菊は眉間のしわをもみながら、自分が突発性難聴になったことを願った。
「心の底から聞き間違いであることを願いますが、貴方は女性との性行為の有無について尋ねてらっしゃる?」
「ったりめーだろ! お前男とヤッたことあんの?」
「ないですよ! そしてこれからもそんな予定ありません!」
「なら問題ねーな」

 ギルベルトはあっさり言うと、起き上がり小卓の上に備え付けてある電話をとった。

「景気づけに女を呼んでやるぜ。お前、金髪と茶髪と黒髪どれがいい? あー、やっぱ黒髪か?」
「ちょ、ちょっと待ってください! 冗談じゃないですよ!」 菊はあわてて電話を奪い取った。
「んだよー! お前だって童貞のまま死ぬのはごめんだろーが!」
「人を勝手に童貞扱いしないでください!」
「そうに決まってるだろ。お前いかにも干からびた修道士みたいじゃねーか」
「経験くらいあります! 私のこと何歳だと思ってるんですか!?」

 そう叫んだとたん、菊はギルベルトがにやにやした笑みで彼を見下ろしているのに気づいた。菊はせきばらいをして、栓を抜いたワインをグラスにつぎ彼に渡そうとした。しかし、ギルベルトは再びそれを無視した。

「いつだよ?」
「……いつって?」
「けがらわしいことなんて何も知りませんって顔でなー、いったいいつの間に童貞捨てやがった? イギリスの野郎がきいたら発狂するぜ。相手の女を呪いかねねー」

 菊は赤い革表紙の本を置いた小卓にギルベルトのグラスを置くと、自分のぶんを一気に飲み干した。過去のことを思い出そうとすると、胸がしめつけられるような気持ちになった。

「無理ですよ。お相手はとっくに亡くなってますから。千年ほど前のことです」
「千年!」

 ギルベルトは忌々しそうに舌打ちした。

「ときどき実感するぜー。お前が本当に爺だってことをな」
「千年だろうが、五百年だろうが、人の軛を外れているという点ではたいした違いはないでしょう」
「……かもな」
「あのころ、私はひどく傲慢でした。この世のすべてが私のもののような気分だった。すべてのルールを私が作り、ルールが私でした。怖いものはなにもありません。ただ私が恐れるのは唯一、『死』だけでした」

 菊は憂鬱そうに空のグラスを見下ろした。

「けれど、それは違ったのですね。私はいま私の愛する人たちを失うほうがよほど恐ろしい。愛する人が銃に撃たれ、冷たい躯になることが避けられるなら死など少しも恐ろしくない。愛は私のうえに君臨し、彼は愛によって私を支配しているからです。一時期はそれから逃れたくてたまりませんでしたが、いまではなにをそんなに嫌がったのかわかりません」

 菊は自分がセンチメンタルな気分になっているのを自覚していた。外の静かな雨音が室内に優しく響いていた。

 ギルベルトは厳しい目で菊を見つめていたが、やがてポケットから煙草を取り出し口にくわえた。

「師匠、煙草は死を近づけるらしいですよ」
「へえ、死に方としちゃ最高だな」

 ギルベルトが茶化した笑いを浮かべたのを見て、菊は露骨に顔をしかめた。菊はそんなんふうに死を茶化してほしくなかった。彼は菊が心から愛する人間の一人だった。

 そこで菊は席を立つと、ベッドのうえに片足をかけ、「失礼」ギルベルトから無理やり煙草を奪った。

「これは私が吸わせていただきます。よろしいでしょうか?」
「お前が他人から煙草を奪うほどのニコチン中毒者とは知らなかったぜ」
「ふだんは吸いませんよ。ただ、師匠が緩慢な自殺に走るのを見ていられなかったので」

 そのとき、とつぜんギルベルトが耳障りな笑い声をあげた。そしてすさまじい力で菊の足をひっぱると、態勢を変え彼の上に馬乗りになった。

「油断してんじゃねーよ! たとえここがテメーの寝室だろうが、戦時中は気をゆるめるな! 教えたはずだ!」
「すみません……」
「ダメだ。お仕置きだぜー」

 ギルベルトは腰のポケットから黒光りする拳銃を取り出した。それはドイツ製ワルサーの最新式だった。言葉ののどかさには似つかわしくない武器の出現に反射的に菊は身体を固くしたが、すぐに緊張をほどいた。彼はギルベルトを信頼していた。

「こいつはちょっとお転婆でなあ、水に濡れたり強い衝撃を与えたりすると、すぐ暴発しやがる。で、軍部のやつらが廃棄したのをおれ様が特別に拾ってやったんだ。おれ様なら銃の暴発くらいどうってことないからな」

 彼は空でそれを説明したあと、菊を見下ろして残酷に唇を引き上げた。
 菊の唇に冷たく乾いた銃身があたった。

「舐めろ」

 ギルベルトの瞳が怒りで赤く光っていた。菊はようやく彼が怒り狂っていることに気づいた。その理由はわからなかったが、この部屋で彼を怒らせることができるのは菊くらいしかいなかった。

 やがて、少女のように赤い唇が銃口をくわえた。
 ギルベルトは目を丸め、それから不快そうに瞳をゆがめた。

 小さい舌がゆっくりと銃口をねぶったあと、口を開いて銃身をふくんだ。そして、菊はそれを音をたてて舐めしゃぶった。

 室内に、雨の音とは違う湿った水音が響いていた。部屋の中央にある大きなベッドで白人の男に馬乗りにされた青年が銃を一心不乱に舐めている。それはある種の卑猥な行為の象徴だった。

 ギルベルトはベッドにうえに滴っていく菊の唾液をすくい、その顔に塗りつけた。心なしか彼の息は荒く、それは恍惚の表情で銃をねぶる菊も同様だった。

「おれ様は怒ってる。どうしてだかわかるか?」

 ギルベルトは息を荒げながら尋ねた。彼は答えを求めていなかったので、菊の返答を待たずに続けた。

「お前はご大層に愛とやらを語ったようだが、それはお前だけの特権か? お前はおれ様が情のない人間だと思ってるらしいが、残念ながらそりゃ間違いだ。おれ様は鉄でできてるお人形じゃねーんだよぉ!」

 ギルベルトは赤い瞳を輝かせ、銃身を菊ののど奥深くまでつっこんだ。

「てめえは、かわいい弟子に死んでもいいと言われた師の気持ちを想像しやがれ!!」

 傷ついた獣のような慟哭に、菊は生理的な涙をながしながら銃口を受け入れた。彼はいま何をすべきかわかっていた。本当はギルベルトに頭を下げ謝罪したかったのだが、銃が口に入っているいま、そうすることはできなかった。代わりに彼は己のすべきことをした。

 菊はまるで銃を――彼そのものを愛撫するように丁寧にそれをしゃぶった。ギルベルトもそれにこたえるよう、菊に銃を深くさし込み彼がそうするのを助けた。

 激しくベッドが揺れたせいで、テーブルの上のグラスが落ち、音を立てて割れたが二人ともそんなことに気を遣っていられなかった。ゴブラン織りの見事な絨毯をじわじわと赤い色が侵していった。

 その瞬間がやってくるのを、菊は不思議な直感で理解した。

 そして、同時にギルベルトもそうであることを確信していた。彼らは結び付けられた一本の紐のようにお互いを理解することができた。菊は嬌声をあげて、白い前歯で銃身をいたずらに噛んだ。それと同時にギルベルトが菊の目を大きな手で覆った。

 菊は下着からどろりとするものが滴り落ちるのを感じていた。
 同時にギルベルトもそう感じているとわかった。大きな手がどかされると、どこか不貞腐れた彼の顔が近付いてきたので、菊は見えない糸に引き寄せられるようにあごをそらした。

 そのとき、彼らはそうするのが当然だった。
 これから感じる相手の咥内の温かさやねっとりした舌を実感するのになにも違和感を持っていなかった。

 彼らはその瞬間、愛とはなにかを実感していた。つまり、己より相手の幸せを祈ること。

 ギルベルトは、自分の身体で菊をすべての艱難から守るように覆った。そして、彼の愛する人間が恐ろしい死の冷たさにさらされないように心から神に祈った。

 彼らの唇がいまにも触れあいそうになったとき、寝室の扉が音を立てて開かれた。

「兄さん、ここにいたのか!?……お前たち、いったいなにをやってるんだ」

 ルートヴィッヒは床に転がるギルベルトとベッドのうえでうずくまる菊を見回してあきれた声を出した。そして、部屋に一歩入ると猟犬のように鼻をひくつかせた。

「本田、すまない。ここは換気がうまくいかなかったようだ。なにか青臭いにおいがする」

 それを聞いて菊が甲高い奇声をあげた。ベッドからのぞく彼の耳は真っ赤で、ルートヴィッヒはとたんに彼の体調が心配になった。

 彼は明日にはここに出発し、ルートヴィッヒたちの手が届かない地域で孤独な戦闘を余儀なくされるからだ。

 彼は菊を医師に見せようと考えたが、それを床で倒れていた兄が遮った。ギルベルトは妙に前かがみになり、ルートヴィッヒの背中を何度もたたいた。

「あいつは飲みすぎただけだ。窓開けて涼しい風にでも当たったらすぐ楽になると思うぜー。それよりおれ様たちがここにいるほうがメーワクだろ? な?」
「そうなのか? 本田?」

 テントウムシのようにうずくまった本田がうなずくのが見えてルートヴィッヒは心から安堵した。酒に酔うほどの心の余裕があるなら、なにも問題はなかった。

 彼はベッドわきのじゅうたんに赤い染みが広がっているのを見つけると、あとでメイドに片付けさせるからガラスは触らないよう注意して出て行った。

 部屋におそろしい沈黙が落ちていた。さきほどまでの奇妙な連帯感は消え失せ、彼らは独立した個だという完全な自覚があった。

 お互いがお互いを意識していることを確信した静けさのあと、ギルベルトがようやく口を開けた。

「じゃあ、おれ様は部屋にもどるぜー」
「は、はい。お、おやすみなさい」

 菊はうずくまったまま、彼が扉のほうに歩いて行くのを見守っていた。菊はできるだけ早く一人になってすべてを忘れ去りたいと感じていたが、それとは反対にギルベルトは立ち止った。

「おいジジイ」

 彼は振りかえらず妙な早口で言った。

「さっき、言ったのは嘘だ。お前に……アレさせた銃は超安全型の最新モデル。おれ様は手入れする銃に暴発なんて許さねー。それにおれ様を好きすぎる弟子にそんな危険なことさせるかよ。……Gute Nacht」

 ギルベルトは気まずそうにそう言い残すと丁寧にドアを閉めた。
 広い部屋に菊だけが残った。彼は言葉にできないほど、温かな気持ちを感じていた。彼はまさかこんな時代にこれほど満ち足りた気持ちになるなんて信じられなかった。しかし、同時に彼はとても名残惜しかった。
 
 この穏やかな気分はあと数時間で過ぎ去った過去のもの、忘れ去らないねばならないもに変わることを確信したからだった。

 しばらくして、部屋のなかに迷子の少女のようなすすり泣きが響きはじめた。

 それはだれにも聞かれるはずがない類の嘆きだったが、ただ扉の向こうにいた人物だけは例外だった。
 菊の部屋の扉に背を預けていたギルベルトはオレンジ色の照明を見上げ、自分の無力と時代を呪うようにシャイセ!と吐き捨てた。

 彼は菊が眠るまで、そして眠っても、ギラついた瞳でその眠りを脅かすものから菊を守り続けていた。

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