アーサー・カークランドは書斎の窓際に腰かけ、赤茶けた表紙の本を読んでいた。彼の書斎はオーク材でできた背の高い本棚が両側の壁にそびえ立ち、なかにいるものを押しつぶそうとしているようだった。
部屋の最奥にある文机のうえには未処理の書類が山となって積み重なり、書斎の主人が直前までサインしていたと思われる羊皮紙には青いインクがむちゃくちゃに書きなぐられている。
書斎はほこりっぽく、薄暗かった。彼の読書を助けるのは、窓の外から差し込む陽光だけで、それさえもじゅうぶんとは言い切れなかった。
アーサーは本に視線を落としたまま、堪え切れないように吹き出した。そして、引きつれた頬の痛みに顔をしかめると、右の顔半分を覆うガーゼをさすった。
彼は満身創痍だった。額から頭にかけては包帯を巻き、左目には白い眼帯、そして三角巾で左腕を吊っていた。それでも、彼はその本――日記帳を読むのをやめられなかった。
『彼』の日記はまるで運命のようにアーサーのもとに引き寄せられていた。
最近、高位の日本兵から押収した物品は恐れ多くもイギリスの化身、アーサー宛ての荷物だと彼は主張していた。自分はそれを届ける任務を負っていたと。
アーサーの秘書は一笑にふしたい気持ちに駆られつつ、主人の名前が出たため捨て置くことはできなかったらしい。さらに、その荷物を受け取った翌日、件の日本兵は役目を果たしたとばかりに自刃してしまったのだ。
さすがに後味が悪く、彼はその本を危険物ではないか確認したあとアーサーに渡した。
彼はあきれたように首を振って言った。
「たぶん、頭のおかしな男の戯言でしょう。なんで日本兵なんかがうちに……」
その赤茶けた表紙を見たとたん、アーサーはその本を奪い取った。頭のなかで奇妙な声が彼に囁き始めていた。
――まさかあいつが? そんなはずない。これが『そう』であるはずがない……。
だが、『そう』だった。彼は震える手で、長い年月を経てぼろぼろになった表紙を開けた。そこには、彼が見なれた、ずっと前に見なれていたはずの文字が並んでいた。
アーサーはその場に崩れ落ちそうになった。よろめいた彼を秘書が心配する声が響いていたが、アーサーはその声を無視した。いまはただ、その日記帳を読むことしか考えられなかった。そして、それをわざわざアーサーに届けさせた主人の真意について。
アーサーはなにがあっても書斎にだれも近づけるなと凄みのある声で言うと、夢遊病者のような足取りで書斎に向かったのだった。
再びガーゼをひっかいて、アーサーは日記帳のなかの世界に没入した。そこには彼の大切な時が刻まれていた。いままで彼が何度もそこに還りたいと望み、決してそうできなかった愛おしい時が。
彼はまた、その日記のなかに懐かしい名前を見つけていた。
――ヴァージニア
アーサーの美しく白いひん馬。『彼』と一緒にサフォークのヒースの丘を駆けていった。
だが、彼女はもういない。
数年前、足を折った彼女を周囲の反対を押し切りアーサー自身が撃ち殺したからだ。
彼のヴァージニアはもういない。二人とも。
いまのアーサーの手にはなにも残っていなかった。美しい愛馬も彼を慈しんでくれる優しい友だちも。ここにあるのは残酷な硝煙のにおいと死を象徴するクラーレの甘ったるさだけ。
アーサーの友だちは、遠い異郷の地で銃撃や疫病、飢えに苦しんでいるかもしれない。そして、彼をそうしているのはアーサーの愛する義弟であり、アーサー自身でもあった。
いっときの燃えるような激情は過ぎ去り、彼の胸は失ったものへの苦しみと辛さに満ちていた。アーサーは長い間、『彼』の苦しみを見ていなかったと気づいた。いや、それは真実ではない。アーサーは気づいていた。けれど、ずっと見て見ぬふりをし続けていただけなのだ。
なぜなら、その状態はアーサーを幸せにしていたから。アルフレッドがいて、『彼』がいて、腹だたしいことにフランシスがいる光景を見ると、彼は居心地のいい私室にいるのと同じ気持ちになった。
――だが、『彼』はどうだっただろう?
アーサーはいままでそのことについて考えたことがなかった。考えたくもなかった。彼はふいによぎった恐ろしい考えを振り払い、ぼろぼろになった古い日記帳をめくった。
そのなかには彼が失った過去、一番輝いていた時間が記されている。
空襲警報が鳴り、ロンドン市街をV−1が爆撃する破裂音がけたたましく響いた。アーサーの横顔が映る強化ガラスの向こうには、この世の終わりのような光景が広がっていた。
仕事に疲れたとき、紅茶を飲みながら見下ろした整然とした街並みは焦土と化し、倒壊した建物の残骸がそこかしこに散らばっている。ゴシック風建築の尖塔は真っ二つに折れ、土台の鉄骨を晒し、ロンドンいち立派だと言われていた銀行は上半分をディッシャーでくり抜いたようにぽっかりと口を開けていた。
それでも、アーサーは荒廃した街から目をそらし、記録のなかの優しい世界に身をゆだねていた。このときの彼は過去のぬるま湯のような夢に浸り、周りのことに目をやることができなかった。あと少し運が悪かったら、彼自身『なにか恐ろしい目』にあっていたかもしれない。
けれど、もしかしたらそうなってもいいとどこかで思っていたのかもしれなかった。
アーサーは、その不在に半狂乱になった秘書が書斎で彼を見つけるまで、ずっと窓辺に座って赤茶の日記帳を読みふけっていた。もう一人のApple of My Eyeが生きていた、その記録を。
prev | index | next