子どもの頃、彼がリンゴを剥いてくれたことがあった。腹が減ったと騒ぐぼくをテーブルに座らせると、彼はその前に座ってリンゴを剥いた。
意外と骨ばった白い手に、蛇のような赤い皮が絡みついていた。彼は鼻歌を歌いながらリンゴを器用に回して、悪戯っぽい視線を投げた。そうすると、ぼくはたまらなくて、彼と一緒に歌いだすのだった。
このもの寂しいキッチンに立つたび、そんなことばかり思い出す。
イギリスの冬は、なんと寒いのだろう。
乾いた風が葉を落としたオークを揺さぶり、女の悲鳴のような音が響く。雪は、たいてい柔らかくはない。肌のように硬く、踏みしめると踝まで雪に埋もれた。
キッチンの古い出窓からは、丸裸になったポプラが見える。静かに降り積もる雪も。こんな夜に、それもこんな辺鄙な田舎町に、好きこのんでやってくる人間はいないはずだった。
「よお、窓の外になにかあったか?」
「いいえ。ただひどい雪だなあと思って……」
「だよなあ。この分だと、今夜は帰れそうにねーわ。厄介になるぜ」
「構いませんよ。お客さんは珍しいですから、うれしいです」
「そりゃそうだろうな」
そう言うと、ギルベルトが呆れたように鼻を鳴らした。彼の高い鼻梁が、仄かに赤くなっていた。それは、彼が大量に持ち込んだアルコールだけのせいではないだろう。
「すみません。キッチンには暖炉しかなくて……。何度か、暖房を設置しようとかけあったのですが」
「べつに、構わねえよ。あの石頭のなかで、いまさら産業革命が起こるとは思えないしな」
ぼくは、苦笑しながらソファに投げ出された荷物を盗み見た。彼は、黒いボストン・バッグを持って、ここにやって来た。
もう七年目になれば、ぼくも慣れたもので、その訪問に腰を抜かすことはない。彼は、毎年この時期になるとドイツからイギリス、ケント州の田舎まで長い旅をしてくるのだった。
「来る途中で修道孤児院を見たぜ。あまりのボロに腹が立って、財布ごと募金箱につっこむハメになった」
「それは、いいことをしましたね。よい子たちには、ちゃんとサンタが来たわけだ」
「かもな」
「つまり今年も、あそこの教会に寄られたんですか?」
一瞬、ギルベルトが強烈な瞳でにらんだが、すぐ何ごともなかったようにそらした。
「貴方に懺悔する必要があるのですか? ぼくは、貴方に罪があるとは思えない」
「『貴方がたのなかで罪を犯したことがない者が、まず石を投げなさい』罪を犯さない人間なんて、いねーよ」
「ですが、『人を裁くな』貴方を裁く人もいません」
「その通りだ。だから、お前を裁く人間だっていない」
ギルベルトは、まっすぐぼくを見つめた。
「おい、マシュー。おれ様やあの馬鹿と違って、お前はガキだった。そんなお前に、なんの罪があるっていうんだ? いつまで、こんな空の巣箱を守るつもりなんだ?」
「ここは空じゃない! いつか、アーサーさんもキクさんも帰ってくる!」
「あの馬鹿は、帰らねーよ」
「帰ってきますよ……!」
「そうかもな。本田が帰れば、そうなるだろうぜ」
なんてひどいことを言うんだ! ぼくは憤ったが、ギルベルトの視線に皮肉はなかった。むしろ、年長者の労わりや憐れみを感じて、ひどく惨めになった。
「告白しろ。お前こそ、それが必要だ」
「告白することなんて、ありません」
「嘘つけ。告白とは、他者を通じて、より高いところに真実をさらけ出すことだ。お前は、おれ様じきじきに許してやる」
ギルベルトが、真摯にぼくを見つめていた。室内に、薪が崩れる音が響いた――実のところ、ぼくは彼の瞳が苦手だった。彼の目は曇りなく、陽の光だけが満ちているからだ。
「たぶん、ぼくが最後に、彼と話したんです」
彼らの輪が欠けた運命の日、ぼくはあの日を容易に思い出すことができる。朝方から続いた雨は、昼どきには雪に変わっていた。降誕祭が二日後に迫り、世間は活気に溢れている。けれど、ぼくの気分は憂鬱だった。
数ヶ月前、とある大会社に、アーサーとキクが開発した技術を二束三文で買い取られてしまった。直接、彼らに騙されたのはキクだ。その一件から、二人の関係は急速に悪化し、現在は軽い絶縁状態にあるらしかった。
毎年、カークランドの別荘でクリスマスパーティーをしている。けれど、今年はキクが来ないだろう。身内だけの小さなパーティーだから、癇癪持ちのアーサーが彼を呼ぶはずない。
――キクさんが来ないなんて、残念だなあ……
ぼくは、学校がクリスマス休暇に入ってすぐ、この別荘に来ていた。通いのメイドが身の回りの世話をしてくれるけれど、いつもはだれより早く来るキクがいないせいで、屋敷はどこか陰気で、もの悲しい。
ぼくはふてくされた気分で、出窓に腰かけ、本を読んでいた。そのとき、沈黙を切り裂くように電話がなった。大声で、メイドを呼んだけれど庭にいるのか返事はなかった。
「もしもし……?」
「もしもし、マシューくん。本田です」
「キクさん!」
キクの声は、背後の喧騒にまぎれて聞き取りにくかった。彼は、パーティーに来られないことを詫びると、本題に入った。
「しばらく旅に出ます。すみませんが、彼らをお願いできますか?」
「アーサーさんがひどいことを言ったんですか?」
「いいえ」かたい声。「私が彼を怒らせたのです」
「……お願いだから、あの人を嫌わないで」
「もちろん」
「あの人を許して」
「許すもなにも。あの人に罪はないですよ」
「貴方を傷つけ、貴方は去っていく」
電話口で、息をのむ音がきこえる。やがて、チョコレートのような声が言った。
「たとえ、つらい結末でも、幸せだった過去を否定する必要があるでしょうか? 過去において、私たちは間違いなく最良の友だった。それは、真実なのだから」
「ごめんなさい」
「謝るのは私です。貴方のような子どもに迷惑をかけた」
「十七歳は子どもじゃないですよ! それに、キクさんが帰ってくるまで辛抱だ」
沈黙。ぼくは急に不安になった。
「帰ってきますよね……?」
「マシューくん、よい祝日を」
「待って! ぼく、待ってますから。ここで、貴方が来るのを」
いつのまにか、キクの声は聞こえなくなっていた。重くなった子機を唇にあて、囁いた。
――いつまでも……
「そのあとは、ご存じでしょう。ぼくは、この別荘で一日じゅう待っていた。アーサーさんが来るのを、キクさんが来るのを。でも、彼らは来ないまま夜が明けた。代わりに、あの報が届いた」
ギルベルトは、ぼくが話すのを黙って見つめていた。その燃えるような瞳で……。
「電話のことは、いままで誰にも話してない。話したら、あの事件の責任がぜんぶ降りかかってくる気がした。だって、彼を止められたかもしれないのに。こわかった――ぼくは、罰されるべきだ」
「お前を許そう」
ギルベルトに肩をたたかれ、我にかえった。信じられない。だれにも話すつもりはなかったのに。
部屋に、薪のはぜる音が響いた。ギルベルトは億劫そうに立ち上がると、太い薪を入れた。彼の目が、炎を受け輝いている。
しかし、その瞳はどこか遠く――たとえば過去を見ているようだった。
「おれ様は、ホンダから相談を受けていた。あいつらの新しい融資先について。けれど、親身に話しをきく暇はなかった。だから、お前の思うようにやれと言い、結果、あいつはしくじった」
「悔やんでいるのですね」
「おれ様が後悔しないと思うか?」ギルベルトが皮肉っぽく言った。「ったくよお、これだから、本田――甘いやつは手がかかっていけねーよ」
「……そうか。貴方は毎年来て、それを懺悔していたのか」
ギルベルトは、振り返らなかった。
「そして、キクさんの罪のために祈っていた」
「あいつの罪だ?」
「自殺未遂」
壁が、激しい音を立てた。
「おれ様を怒らせたくなきゃな、マシュー」手の甲から流れる血を舐めとる。「その不愉快な言葉を二度と言うな」
「……すみません」
「まったくだ。お前じゃなければ、ぶん殴ってたぜ」
「はい」
「あれは、事故だ。おれ様は、あいつのことを知ってるが、自殺するようなタマじゃねーよ」
ギルベルトはふて腐れたように言うと、ぼくの横に座った。
再び、静寂。
火がはぜる音や、ギルベルトがビール缶をカウンターに置く音がやたら大きく響いた。
彼は、ああ言ったが、内心では悩むところもあるのだろう。
ギルベルトの信仰は篤い。もし、キクが本当にアレを実行していたら、彼の魂は永久に救われることはない。楽園(エリュシオン)に行くことはできず、地上で永劫苦しむことに――
だから、ギルベルトだけはそれを認めることができない。
「納得いかないことがある」
缶ビールを揺らしながら、ギルベルトが言った。
「なんですか?」
「ホンダが、旅に出ると言ったことだ。……アーサーから、逃げるように」
「それがどうかなさったんですか?」
「おれ様は、あいつを誰より理解してるつもりだ。本田は、逃げたりなんかしねーよ」
「旅に出ることと、逃げることは違いますよね」
「そうか? どっちにしろ、アーサーと決着もついてないのに、あいつがそんな無責任な真似するとは思えねーな」
ぼくは新鮮な気持ちで、彫刻のような横顔を眺めた。紅玉のような瞳や、寒さでわずかに赤くなった鼻、意志の強そうな唇、シャープな輪郭。彼は、どこか清廉で強靭な雰囲気があった――そして、ときに強いものは弱いものを理解できないのだ。
「人は皆、いつも強いわけではありませんよ」
「なにが言いたい?」
「人の弱さを許せ、ということです。……たとえば、キクさんの弱さも」
「許すもんか。本田の弱さを許せば、あいつの“逃げ”を認めることになる。あいつは、逃げない。友人からも――辛い人生からもな」
ギルベルトのまっすぐな視線に、ぼくはたまらず目をそらした。
彼は、なんて強い人なのだろう。彼のようになりたい。けれど、そうなれないのは、よくわかっていた。ぼくは、弱い人間だから。
結局、彼はそれ以上なにも言わず、黙ってビールを飲んでいた。
薪は消えていないが、部屋には冷たい空気で満ちている。たまらずくしゃみをすると、目の前に缶ビールが現れた。
「飲めよ。クソったれな寒さが、マシになる」
「すみません。ビール、苦手なんです」
「正気か?! お前、人生損してるぜ」
「そうかなあ……。だって、キクさんもビール苦手だったじゃないですか」
「本田が?」
ギルベルトは、戸惑うように言った。
「たぶん。アーサーさんと飲むとき、ビールだけは絶対選ばなかったから」
「嘘だろ!」
急に破裂したように笑い出した。椅子を反らしすぎて床に倒れてしまっても、彼は肩を震わせていた。しばらくすると、彼はぽつりと言った。
「昔、さんざんあいつに飲ませたぜ。酔ってたから、気づかなかった」
「ギルベルトさん」
「……知らねーことがあったな」
そう言って、ギルベルトは静かになった。ぼくは、彼が絶望する姿を初めて見た。そして、思い出した。キクが「彼ら」と言っていたことを。
キクは、ギルベルトの弱さも知っていたのだろうか?
「すみません。率直に言うと、ぼくもキクさんが逃げたとは思ってないんです」
沈黙。
「あの人は、『守る』人です。自分が死んだら、アーサーさんやギルベルトさんが傷つくことも理解しています。だから、いくら辛くてもアレだけは選べない人だと思うんです」
「……それを、あの馬鹿に言ってやれ」
「ぼくの声なんか届きませんよ。罪悪感が大きすぎて、自分の罪を認められないんだ。だから、いっそのこと、過去をやり直そうとしている」
「馬鹿が。過去は、決してやり直せない」
「はい」
ギルベルトは、バネのように起き上がると、冷蔵庫から炭酸水を投げてきた。
「飲めよ」
「ありがとうございます」
彼は、出窓に座り外を見つめた。いつのまにか、雪は止んでいた。
「明日は、やはり病院へ?」
「ああ。目が覚めたとき、クリスマスに一人ぼっちなのは、かわいそーだろ」
「……貴方は強い人ですね」
「当たり前だ」ギルベルトは、あきれたように言った。「おれ様は、おれ様が強いと信じているからな」
「なら、本田さんは強いですか?」
「あいつは甘い」彼は、ぴしゃりと言った。しばらくして、付け加える。「しょうがねえやつだよ」
ギルベルトは、それきり口を開かなかった。窓辺に座ったまま、無言で大量のビールを開けていた。
ぼくも話す気になれず、キッチンでリンゴを剥いた。いつのまにか、彼の声を忘れかけているのに気づいて、泣きたくなった。
目が覚めると、ギルベルトはすでにロンドンへ発っていた。「世話になった」と書置きがあって、意外に流麗な字を書くなと思った。
いつか、キクが言ったことを思い出す。
「『甘い』というのは、ギルベルトくん最上級の褒め言葉なんですよ。彼は、甘い人がとても好きなんでしょうねえ」
キクは、微笑ましそうにギルベルトとその養父を見つめていた。
ギルベルトの言葉の真意と、あんなに真面目に向き合う人がいるだろうか? ギルベルトの弱さにあんなに聡い人はいるだろうか?
ぼくは、考えずにはいられない。キクは、ずっとエリュシオンの夢を見ているだろう。きっと楽園のなかにいる。
それでも、彼にまた会いたい。甘い彼のことだから、泣いて叫べば目を覚ましてくれるだろうか?
外は、一面の銀世界。
踝までが雪に埋もれ、ぼくの後ろには無粋な足跡が残っている。手に白い息を吹きかけながら、庭のオークにもたれかかる。格子窓から、キッチンのなかが見え、一瞬求めた姿を幻視した。
「キクさん……」
のどの奥から、熱いかたまりがせり上がってくるようだ。いつのまにか、根元にしゃがんで大声で泣いていた。声が枯れるほど名前を叫んだが、誰もこたえてくれなかった。
泣き疲れて目蓋が重くなったとき、だれかがぼくを呼んだ気がした。
薄暗いホール。
本田菊は、誰かに呼ばれた気がして振り返った。