もの‐の‐まぎれ【物の紛れ】
1 物事の忙しさなどにとりまぎれること。「――につい忘れてしまった」
2 人目に隠れてひそかに事を行うこと。特に、男女の密会をそれとなくいう。
(デジタル大辞泉より)
扉を開けると、ちょうど三日月が鶴丸と木刀で打ち合っているところだった。
鶴丸の軽やかな太刀筋を三日月が舞うように躱していく。肩慣らしの最中らしく、二人の顔にはうっすらと微笑さえ浮かんでいた。
少女は邪魔しないよう、できるだけ静かに稽古場に入ったのだが、案の定彼らはすぐ気づいて、打ち合いをやめてしまった。
「小さいの、どうした」
三日月が目を輝かせた。
「もうお八つになったか?」
「きみはついさっき、”ぴいなっつ・ばたあさんど”を山ほど食べただろう……」
「ごめんね。ひとを探してるんだ」
そう言ったとたん、鶴丸が眉間のしわをもんだ。
「おいおい、またかよ――明石!」
「なんでっしゃろ」
細いメガネの青年が稽古場のすみで寝転がっていた。顔のうえに載せていた本をよけ、まぶしそうに目をつむった。
「明るすぎますわ。そこの覆い、閉めてくれまへんか」
「今日遠征なんだよ。明石さん!」
「あらら、ばれてしもた」
彼は鬱陶しげな顔で起き上がると足を崩して座りなおした。
「あいさつのときも言いましたけど、自分なんにもやる気せーへんので。それにこの本丸、蛍丸どころか愛染すらいないやないですか」
「だから、二人を鍛刀するためにも資源を取って来てほしいの。大和守くんたちも明石さんのことを探してるよ」
「そう言われましてもなあ……」
「お願い!」
審神者が両手を合わせて頼んだ。
「今度のお夕飯、明石さんの好物つくるから。鱧の湯引きとか豆腐田楽とか。デザートには中村軒の麦代餅もつけちゃうよ!」
「主さん。自分のこと、食べものでつられる子どもと勘違いしてません?」
「明石よ。うなずいておけ。小さいのの飯は旨いが、たいてい茶色いのだ」
三日月がしたり顔でうなずいた。審神者が横目で彼をにらむ。
「三日月さん。お口にチャック! 明日、ピーバタ抜きだからね」
そのとたん、三日月の口が縫いつけられたようになってしまった。
無理に話そうとしてもファスナーがしまったみたいに息が漏れるだけだ。明石は興味深げにその様子を見つめていた。
「何度見ても驚きますなあ。“審神者のものを奪えば罰があたる”でしたっけ。三日月さんは、主さんのなにを奪ったんですのん?」
しかし、その問いにはだれもこたえなかった。審神者が顔を真っ赤にしてうつむき、鶴丸は不満そうに唇を曲げた。
明石は、審神者が自分以外の刀剣を先代から引継いだと知っている。そして、彼らの間に奇妙な絆があることも。
明石とて、一応ひと並みの好奇心は持ち合わせている。いつか、彼らの秘密を暴くつもりだった。
「そもそも皆さんお強いわりに、主さんは二週間前に審神者になったばかりのお人や言うし、前任さんがよほど有能だったんかな。主さんがそれくらいになったら、従ってもええよ」
「……そんな日、来るのかなあ」
審神者はつかの間うつむいたが、すぐ明るい笑みを浮かべて明石を見た。
「でも、あの人みたいになったら、明石さんなんてひとひねりだよ」
「おお、こわっ」
「そういうこと。大和守くんたちが迎えに来るまで、逃げちゃダメだからね!」
彼女はため息を吐くと手合わせの邪魔をしたことを謝り、稽古場を出て行った。すかさず鶴丸が三日月に視線を投げ、そのあとをついていく。
稽古場から屋敷に下るスロープで、ようやく審神者立ち止まった。
植えこみには鮮やかな紫陽花が咲き、その葉から前日の雨の名残が滴り落ちていた。
「主、あいつは“彼女”を知らないからな。悪気があって言ってるわけじゃない。ただの軽口だぜ」
「ありがとう」
少女は照れくさそうに振り返った。
「でも、まだまだ半人前なのは本当だもん。明石さんにも三日月さんにも早く認めてもらえるように頑張らなくちゃ」
「三日月?」
鶴丸はけげんな声でたずねた。
「明石はともかく、なんであいつが出てくる? とっくにきみを認めているだろう」
「だって三日月さんはわたしをぜったい主と呼ばないもん。それはお姉ちゃんへの呼び方だから気にしないけど、さすがに“小さいの”は恰好つかないよ」
「……まあ、現にチビだからな」
「鶴丸さん!」
彼は少女が肩をたたいて来るのを笑いながらいなした。
「それはともかく、あいつなりにきみを可愛がっているんだぜ。三日月はああ見えて選り好みの激しいヤツだから、気に入っている証拠さ」
「たとえそうでも、それって犬猫を気に入るのと同じでしょ。普通、好きな人に“小さいの”って呼ばれて喜ぶ女の子はい・な・い・の!」
「へーえ。そうかい」
鶴丸の頬が引きつった。
実際、三日月は犬猫以上に彼女を可愛がっているはずだ。しかし、問題は三日月自身にその自覚があるかわからないところ。
鶴丸は少女の太平楽な顔を見ると無性にいらだって、ついその頬をつねってしまった。
「なにするの!?」
「八つ当たりだ」
彼はきっぱり言うと不機嫌そうにそっぽを向いた。
稽古場の縁側から、狂い咲きのサクラが舞いこんで来る。
明石は寝転がったまま、指でつまんで花びらを外に落とした。
足音もロクにさせずに、木刀を片づけた三日月がこちらにやって来る。彼は相変わらず憎めない無遠慮さで、明石をひょいと見下ろした。
「一人で花見も乙だが、心やすい友と見る花は一層美しいぞ」
「心やすい友って、だれのこと言ってはります?」
「さあ。ただ、小さいのはお前と打ち解けたそうだ。彼女を認めていないのか」
「そういうわけではないんよ」
明石は露悪的に笑った。
「ただ、あないに小さいお子に刀が扱えるとは思えん。ままごと遊びをしたいなら、よそでやれちゅー話しや」
「そうか……残念だ」
そのとき、明石は総毛立つような殺気を感じ、反射的に身体をひねった。
真横に冴え冴えとした刀が突き刺さる。すぐさま第二陣が始まり、明石は刀を抜く暇もなく、鞘でそれを受け止めた。
間近に迫る三日月の瞳が、底の見えない微笑を浮かべている。
「せっかく収集した太刀が折れたとあらば、あの娘はひどく悲しむだろう」
「あんさん、にこにこ笑ってえらい食わせもんですなあ!」
鞘で押し返し、素早く刀を抜く。
三日月はそれを鷹揚な笑みで許した。次の瞬間、おそるべき速さの剣戟が襲い掛かってくる。慌てていなしたとたん、またぶつかり合い。
鍔迫り合いの鋭い音が稽古場に響き渡る。
刀を介して、二人の顔がぎりぎりまで近づいたとき、三日月が艶やかに微笑んだ。長い足が容赦なく明石を蹴り倒す。そしてそのまま袈裟懸けに刀を振り下ろした。
「三日月さん。局中法度!」
大和守が飛び出し、寸でのところで彼の刃を受け止めた。
「刀剣男士の私闘は禁止! その物騒なものしまって」
「すまんなあ」
三日月は笑ったが、一向に刀をひく様子はない。
「だが、お前がどけば事は一瞬で済み、おれは即刻刀を戻そう」
「ダメッたらダメ。三日月さんってこんなに堪忍袋の緒が短かったっけ?」
「どうしてもか?」
「どうしても!」
三日月が深いため息を吐いた。
「残念だ。二本も折れたと知れば、主は泣いてしまうかもしれぬ」
大和守がショックを受けたように目を見開く。三日月が無表情で構えを変えたとき、三人の頭にイチゴ柄の飴がぶつけられた。
「三日月。悪質な冗談もほどほどにしろ。主が呼んでるぜ」
「冗談!?」
大和守がその場にへなへなと崩れ落ちた。三日月は朗らかに笑いながら、黄金色の鞘に刀をしまった。
「鶴丸、今夜の夕餉はなんだ」
「さあね。当て推量だが、カレイの煮つけじゃないか。チビは不機嫌になるとそればかりつくるからな」
「驚かせてしまった詫びだ。明石におれの一尾をやってくれ」
「……おおきに」
あまりに毒のない笑顔に、明石はつい礼を言ってしまう。通りすがり、鶴丸になにかささやき、彼は悠然と稽古場を出て行った。
扉が音もなくしまったとたん、鶴丸が柱にもたれかかった。
「主、いったいなんの用だったの?」
大和守がさっそく飴を口のなかに放りこみつつ尋ねた。
「手が足りないなら、遠征までの時間手伝うけど……」
「あれはウソだ。明石、ひとつ貸しだぜ」
「貸し?」
明石が額の汗をぬぐってふり返った。
「ああでも言わないと、三日月は刀を引かなかったぜ」
「――でも、冗談だったんだよね」
大和守の顔が青ざめた。鶴丸はそれに深いため息を吐く。
「いいかきみたち。三日月宗近って刀は、ウソを吐くが冗談は言わない」
「まさか……」
「まったく。おれも釘をさされたぞ」
「なんて言われたの?」
大和守が震える声でたずねた。
「つぎはないぞ」
三日月は軋む脚立を押さえ、珍しくとがった声で言った。
「ごめんね。手合わせが終わったばかりなのに、掃除なんか手伝わせちゃって……」
「そうではない。次はだれぞ声をかけてからにしろ。お前が床で目を回していたのを見たときは肝が冷えた」
「ありがとう」
少女は本を並び替える手を休め、三日月を見下ろした。
鶴丸と別れたあと、離れにある土蔵を掃除していた。
研修期間中は屋敷と庭くらいしか出入りしなかったが、姉の本丸にはまだ見てない場所が多くあったのだ。
なかでも、この蔵には審神者や刀剣たちに関する資料が揃っている。できるだけ早く使えるようにする必要があった。
三日月が脚立をなぞりながらつぶやいた。
「鶴丸や加州に頼めばいい。あれで几帳面なやつらだから、塵ひとつ残さない」
「出陣や遠征で疲れてるのに任せられないよ。それに、この高さなら落ちたってへっちゃら!」
「人の子は些細なことで死んでしまう――お前より、よく知っているよ」
「ごめんなさい」
審神者はあわてて謝った。彼が誰のことを考えているかすぐわかったからだ。三日月は憂鬱そうに鉄格子がはまった窓のほうを見つめている。少女は、そんな顔をしてほしくなかった。
「三日月さん。ありがとね」
「なんの礼だ?」
彼はこちらを見ないままこたえた。
「わたしの幸せについて考えてくれたこと。そして心配してくれたこと。審神者になれば、刀剣が増えるごとに消費する理力が増していく。限度を超えれば……寿命が縮まる。三日月さんは、それを知ってるから現世に戻してくれたんでしょ」
「どうだかな。もしかすると、お前を試したかっただけかもしれないぞ。記憶をなくして現世で幸せになるか、おれたちを選ぶか」
「そうは思えないけど……もしそうだとしても、いいよ」
三日月はきょとんとして、少女を見上げた。
「三日月さんが信じられるまで、いくらでも試してほしい」
「……本丸の皆を陥れるとしても?」
「そんなことしないよ。たとえそうでも、結局だれも傷つかないようにするんでしょ」
「参ったなあ」
あきれたような笑い声。
「無垢に信じられると悪事が働けぬ」
「悪事って……!」
身を乗り出したとたん、身体が空に投げ出されてしまった。鋭い音とともに脚立が倒れ、すかさず痛みに備えたが、かたい腕が強引に彼女を抱きよせた。
「そら、言った通りだ」
灰色の袴と審神者のワンピースが重なっている。すぐ目の前には三日月が入った美しい瞳。薄手の手袋がゆっくり少女の髪を梳いていった。
「だいぶ短くなってしまったなあ」
「……これから夏だし、ちょうどいいくらいだよ」
「ああ――それに、おれの好みだ」
三日月がひと房取って、戯れに口づけた。少女の鼓動がひときわ大きく鳴り、顔がどんどん火照っていく。
三日月は髪を弄び、頬をなで、最後に口に触れた。親指が赤い唇を何度もなぞった。
「まさか初めてだったとは」
「ごめんなさい」
少女が掠れた声で謝った。
「よいよい。誰かに縛られるのは新鮮だ。面白い。それにあのときの鶴丸の顔といったら! まさかああも初心とは思わなんだ。老獪な策士もお前の前ではまるで童だなあ」
「老獪って……まさか鶴丸さんのこと?」
「他に誰がいる?」
三日月が眉をつりあげた。
「よいか。あいつは確かにウソを吐かぬが、冗談は言うぞ」
「どういう意味?」
しかし、彼は意味深な笑みを浮かべるだけでこたえてくれない。聞き出そうとすると、すばやく親指が咥内に差しこまれた。
「鶴丸をそうしたように、お前がおれを惑わす日が来るのかな」
三日月は少女の舌をくすぐりながら、彼女の耳に口をよせた。
「それまでは、せいぜいおれのことだけで悩み、おれことだけで怒り、おれのことだけで泣くといい」
舌にピリッとした痛みが走り、審神者は目に涙を浮かべた。
三日月が桜貝のような爪を立ててきたのだ。彼は恍惚した笑みを浮かべるとなにもなかったように、再び歯列をなぞり始めた。
だれも気づかなかったが、例の呪は三日月の執着の証しだった。
記憶を取り戻したとき、すでに本丸がなくなっていたら、審神者は身も世もなく嘆くだろう。そして三日月は自身の死を持って、少女の心を永遠に手に入れるのだ。
しかし、いまの彼はまだ“神さま”らしい優しい初恋が、自分の唯一だと信じている。
閉ざされた室内で、窓から差しこむ日光が三日月の人間じみた笑みを照らし出していた。
prev | index | next