朝日が差し込む窓辺の机に向かって、本田菊はいっしんに万年筆を動かしていた。彼の横顔は度重なる肉体的、精神的な疲労でやつれきっていた。
しかし、黒瑪瑙のような瞳はクリスマスプレゼントになにをもらえるか想像している子どものようにきらきらと輝いていた。彼の現状とは裏腹に。
菊の脳裏にさまざまな楽しい思い出が蘇っていた。開国してからの百年は必ずしも素晴らしい出来事ばかりではなかったが、自らの終わりを控えたいまとなっては辛い経験はこぼれおち、美しい記憶だけが手のひらに残っていた。
菊はこれがメランコリックな感傷だとじゅうぶん理解していた。
しかし、自分が歩んできた歴史を残す程度の感傷は許すつもりだった。そしてそれをだれに託すのかも。
どうせ戦場に持っていってもたき火にするくらいしか使い道がないなら、「彼」に捨てられたって悪くはない。
ただ、本心をいうと菊は「彼」がこれを捨てるなんてこれっぽっちも信じていなかった。
おそらく地球上にいる誰より、菊の生きた記録を大切にしてくれるだろう。おそらく、菊のいない世界で。
――菊は彼を信じていた。
菊が万年筆をとめ満足そうにのびをしたとき、扉がこわれそうな勢いでノックされた。菊はそれが誰なのかすぐわかった。この屋敷の二人の家主はノックの仕方まで性格があらわれている。
けれど、今朝のノックはいつものそれよりよほど乱暴だった。菊はその理由に気づいていた。昨晩の驚くべき出来事が彼にそうさせているのだ。菊は二度と彼に話しかけられることはないと思っていた。彼の自制心に感嘆した。
一方、菊のほうはそううまくいかなかった。顔を赤らめ、深呼吸を三回繰り返しようやく席を立つことができた。机のうえで、薄墨色のインクで書かれた菊の“記録”が広げられていた。
菊は振りかえらなかった。そこに置いておけば、いずれしかるべき人物のもとに届けられると確信していた。腰にさした刀を撫でる顔はもうクリスマスを待つ子どもではない。彼が強張った手でカギを開けると、その向こうでしびれを切らしていた人物に引きずり出された。
廊下から足音がじょじょに遠ざかっていき、辺りにはだれもいなくなった。窓辺の簡素なオーク材のテーブルの上で、薄茶に変色したページが音もなく風にめくられていった。
一八〇二年八月
菊は信じられない思いで大量のジャンク船がたった一隻の軍艦に沈められていくのを見つめていた。初めて見る無機質な戦艦はおぞましい煙を吐き出し、轟音とともに砲撃を繰り返していた。
無慈悲な攻撃の前で木造の帆船はおもちゃのように吹き飛び、沈む船から何人もの黒い人影が海に飛び込んでいた。
「もっと近くへ!」菊は小船から身を乗り出し叫んだ。
「無理です! これ以上近づいたら爆発に巻き込まれて海の藻屑ですよ! じゃなきゃ、砲弾の餌食だ!」
漕ぎ手が爆音に負けないような声で怒鳴り返した。菊は一瞬、彼の手からオールを奪いたい衝動にかられたが、無理やりその愚かな感情を押し殺した。
爆音とともにまた一隻、中国船が海に沈んだ。波が大きく荒れ、彼らが乗る小船が激しく揺れた。あわてて、船のへりを掴んで体制を整える。漕ぎ手たちが必死に船をあやつり、なんとか波に呑まれることはなかった。
「まるで悪夢だ」
ジャンク船からじゅうぶん距離をとると茫然とした漕ぎ手がそうつぶやいた。菊もまったく同じことを考えていた。そう、まるで悪夢のなかにいるようだ。
上海沖で海戦の話をきいたとき、菊はとるものもとりあえず外洋に出た。まさかという思いがあった。上海に海軍が侵入したということは北方諸島、もしくは南の要所がすべて陥落したということだ。
菊は兄を信じていた。彼は、越えられない壁として菊の前にそびえ立つのと同時に、自分を見守ってくれる。彼への感情は単純なものではなかった。けれど、少なくとも兄は誰より強く、菊を何人からも守ってくれる存在だった。そう信じていた。
だが、それは間違いだった。
兄のジャンク船は、西洋の蒸気砲艦の前ではまるで無力だった。次々に沈んでいく船を見て、菊は裏切られたような気持ちになった。
視界のはしにおぞましいイギリス砲艦が映った。どうやら波に流され、岸からだいぶ離れてしまったようだ。漕ぎ手たちはあわててオールを動かしたが、菊は魅入られたようにその戦艦を見上げていた。
金色の飾りボタンがたくさんついた紺色の上着に白いズボン、山のような形をした黒い帽子。ひと目で高位にいるとわかる青年が凍てついた瞳で菊を見下ろしていた。
中国船を燃やす炎を映した緑色の怪物じみた瞳。菊は吐き気と快感が入り混じる妙な気持ちになった。
どちらにしても引力のように彼に惹きつけられ、決して目を離すことはできない。永遠のような一瞬。
轟音とともに再び波が荒れ、小船も大きく揺れた。ようやく菊たちが態勢を整えるとイギリス砲艦からはおおいに離れていて、彼の姿はデッキから消えていた。
同時にあちこちに浮かんでいる死体が目に飛び込んできた。彼らは砲艦の爆撃を逃れられなかったか、間一髪で逃れても大量の出血が原因でそうなってしまったのだろう。
蝋のような顔色で祝いごとの前みたいに両手を上げ、ゆらゆら波間を漂っていた。
思わずうめき声をあげ、菊は海中に吐瀉した。
漕ぎ手は憐れみの視線を投げると、できるだけ早く岸につこうと努めてくれた。事実、小船はゆっくりと、だが確実に安全な陸地へと向かっていった。
船のへりにしがみつき、中国船を飲み込んでいく炎を映す海面を見つめた。嘔吐の原因は死体そのものではなかった。ただ彼らに説明する気は起きなかったので、菊は、巣から放り出された雛のように身体を丸めていた。
不安とどうしようもない孤独が彼に襲いかかってきた。
本田菊ははっと目を覚ました。
机のうえには書類が山と積んであり、彼のサインを待っていた。西欧風のガラス窓からさわやかな風が吹き込み、レースのカーテンをやわらかくふくらませている。
潮と火薬が入り混じったにおいは遠い過去、記憶のなかだけのものだった。とうぜん、あの怪物じみた緑の瞳も。菊は身震いをして、眉間のしわをもんだ。
「祖国、お体の調子でも……?」
「ご心配なく。少し疲れただけです」
菊は控えていた青年に無理やり微笑んでみせた。実際は少し疲れたどころではなかったが、それを表に出すのは躊躇われた。しかし、彼はなにか悟ったのか一礼して部屋を出ていくと、冷たい緑茶と茶菓子を持って戻ってきた。
「開国してよかったのは、良質の氷が手に入るようになったってことだけですよ」
彼は悪戯っぽく笑い、涼やかな装飾がされているコップを机に置いた。菊は彼の小さな思いやりに微笑んで(今度こそ、自然に笑うことができた)ペンを置いた。
「その後、お子さんの具合はどうですか?」
青年は年下の幼馴染と結婚し、数年前に息子が生まれていた。そして二週間前、まだ幼い子どもが流感にかかったとひどく心配していたのだ。菊はただちに高名な医者を紹介してやった。
「順調に回復しています。なにもかも祖国が取り計らって下さったおかげです」
「私はなにもしていませんよ」
「まさか! 祖国は私と私の家族を救ってくださいました。もし息子が二度と目を覚まさなかったら、私も妻も頭がへんになっていたでしょう。息子は、私たちの間で起きた一番尊い出来事なんです。息子がいれば、私はなにより強くたくましく生きられる。息子の寝顔を想像すれば、どんな労苦だって耐えることができます。子どものいないやつは私を息子にかまけるばかだと言いますが、連中にはわからないのです。家族がどれほど貴重で、どれほど素晴らしいものかということが」
彼は途中ではっとした顔で口を閉じ、勢いよく頭を下げた。
「祖国、失礼いたしました!」
「いいのですよ」
そういったものの、菊の顔は切なそうに歪んでいた。菊は実際、彼のいうことがもっともだと感じていた。「家族」はおそらく素晴らしいものだろうが、菊にはそれがどういうものか精確には理解できないのだ。
菊にいままで守ってくれる親も、守ろうと思う子どももいなかったから。むかし、菊を守ろうとした存在はあったが、彼はもっと強大なものにたたき潰されてしまった。
菊は家族というものを実感したかった。明け透けな言い方をするなら、彼は家族が欲しかった。家族を得ている青年を羨んでいた。
けれど菊は子どもっぽい羨望を笑顔の裏に隠すと、青年を安心させた。
残念なことに、笑顔はそれほど長く持たなかった。恐ろしい勢いで入室した下司官の報告を聞いて、彼は一気に顔色を失ったからだ。
アーサー・カークランドは世界一素晴らしいと自負する大英帝国の日本領事館で不快極まる午後を過ごしていた。彼は早くも「十九番」の審査にうんざりし、執務室の机のランプを眺めていた。
傘と台をつなぐ柄に鷹らしき鳥が翼を広げて鎮座しているのだが、どう控えめに見ても求愛ポーズをとる間抜けなアホウドリそのものだった。
アーサーは午前中から溜りにたまったストレスをこのアホウドリ・ランプにぶつけることを決め、苦痛の時間が一刻も早く過ぎ去るのを祈った。
ようやく十九番のRとLがはっきりしない英語(らしきもの)スピーチが終わり、アーサーは左手を振って彼を追い返した。
最悪だった。なにもかも。
「いまの彼、なかなかよかったんじゃない?」
背後の出窓に寄りかかっていたフランシスが笑いをこらえながら言った。見事な巻き毛がまばゆく輝いている。
アーサーは彼がこのすばらしい効果を狙って窓辺にいるのに気づいていた。フランシス・ボヌフォワという男は、手がつけられないほどのうぬぼれ屋なのだ。
「最高。退屈で死にそうになったら、あの男はじゅうぶん楽しませてくれるだろうな。だがおれがほしいのは、通訳であってコメディアンじゃないんだよ!」
アーサーは怒りのままに領事が飼い犬と映っている写真を放り投げた。
「どいつもこいつも、役立たずばかりだ!」
「じゃ、取りやめたら? 非公式の日本旅行なんて」
「だれが」
「いつから坊ちゃんは一人で旅をしようってほど、日本に興味を持ったのかねえ。お兄さんに理由をきかせてくれない?」
「お前には関係ない」
「そう? まあ、だいたい想像はつくけど」
フランシスはため息をつくと、しなやかな猫のような仕草で写真立てを拾った。
「どうせ、難癖つけてアルフレッドを連れ戻そうと考えてるんだろ。非公式とはいえ、旅行中の『お前』に問題が起きたら、あいつの家もそうせざるを得ないからな。けど、そんなにうまく行くものかね」
「もちろん、問題は確実に起きる。……わかるだろ?」
フランシスの目に悪意が輝いた。彼は愉快そうに唇をあげると、注意深くつけ加えた。
「たしかにイギリスの化身が渡航先で負傷したら大変な外交問題になるかもしれないな。『親友』の負傷に激怒したおれは日本に無茶な要求を突き付けるかもしれない。もちろん、イギリスが良き隣人だった場合はね」
「……砲艦ネメシス」
「ウィ。おれたちはよき隣人を持って幸せだね」
彼らが共犯者の笑みを交わしたとき、騒々しいベルが鳴り響いた。アーサーはうんざりした顔で座りなおし、フランシスは謎めいた笑みを浮かべ光射し込む窓辺に寄りかかった。
「入れ」
「二十番」を見て、アーサーはあからさまにため息をついた。どう考えても彼はまともな英語を話すとは思えなかったのだ。
門外漢のアーサーでさえわかるほど二十番の着物は安っぽくて品がなく、くるぶしの下にのぞく草履は薄茶に変色していた。なにより顔をかくすようにかぶっているタオルは、彼を数倍貧相に見せていた。
アーサーは彼がものの数秒でここを出ていくだろうと予測した。そこで、投げやりな態度でどこから来たのかと尋ねた。
しかし、答えは返ってきた。
アーサーは眼を見開き、今度はなぜ来たのかを尋ねた。また、答えが返ってきた。彼は信じられない思いで、いままでまともな答えが返って来なかった質問、イギリスをどう考えているかと尋ねた。
二十番は完ぺきに答えた。アーサーは途中から身を乗り出し、彼に質問をし続けていた。
三十分後、身なりはともかくとして、アーサーは彼の有能さを認めないわけにはいかなかった。彼は一度もアーサーの意地悪な質問にひっかからず、すべてにほぼ完ぺきな回答を返したのだ。
“Good”
赤いベルベット張りの椅子に寄りかかり、アーサーはつぶやいた。それは彼がひんぱんに用いる皮肉のGoodではなく、あまりに感嘆したせいで出たものだった。
二十番は、いままでの十九人を思えば飛びぬけて優秀だった。……違和感を覚えるほど。
アーサーはそれを感じなかったが、フランシスは猫のような瞳をすがめてイギリス領事館にやってきた闖入者を眺めていた。
「決めたぞ。お前を採用する」
「……ちょっと待った。おれたちが彼にスタンディング・オーベーションを送る前にやることがあるんじゃない?」
フランシスは意味ありげな視線を青年に送った。
「なんだよヒゲ。文句あんのか?」
「ノンノン、お前じゃないよ。お間抜けさん」
彼は肩をすくめると、珍しく挑発する口調で続けた。
「久しぶりだね。ええと、ホンダちゃん?」