沈黙。
やがて、彼はため息をついて白いほっかむりを外した。その顔を見てアーサーは衝撃を受けた。低い鼻に真っ黒で細い目。唇だけが少女のようにぬらぬらと赤く光っている。
とてもじゃないが、イギリス人が世界一美しい考えるアーサーの美的感覚には叶わなかった。もっと率直にいうと、アーサーは彼を醜いと感じた。
しかし、最悪なことにアーサーは彼に見覚えがあったのだ。
「お前、日本の……」
「お久しぶりです。フランシスさん、カークランドさん。だまし討ちのようなことをしてしまい申し訳ありません。ほんの冗談のつもりだったんです。まさか」
菊がわざとらしく驚きの表情を浮かべた。
「最後までお気づきにならないとは思わなかったので」
「ごめんねえ、こいつ鈍くって。でも、坊ちゃんがアジア人の顔を覚えていただけでも奇跡だから。見逃してやってよ」
「……光栄です」
菊は一瞬唇を強く噛んだが、それはすぐ巧妙な笑顔にとって代わった。
再び、気づまりな沈黙。お互い、相手が話しはじめるのを――悪意の針でちくりとやる瞬間を手ぐすね引いて待っていた。
「話しは終わりか? おい、雇用の話に移るが構わないな」
「ちょっと坊ちゃん!」
フランシスが驚いた顔で振り返ったが、アーサーはそれをきれいに無視した。彼の緑の瞳はいまや屈辱の炎に燃えていた。
――アジア人の分際でおれをこけにしやがった……! このおれをこけに!!
「ええ。契約もそちらで決めて下さって構いませんよ。もちろん、私は貴方に良心があると信じていますから」
「炊事洗濯雑用こみで十二ドル。じゅうぶんだろ?」
「すばらしい待遇ですね」
「アタンデ、シルヴプレ!(ちょっと待って!)」
領事の机を隔ててにらみ合っていた二人をフランシスが制した。彼は髪をかきあげ、半眼でアーサーをたしなめた。フランシスはアーサーの怒りに気づいていた。そして彼が我を失っていることも。
「二人とも落ち着いて。やけになっても碌なことないだろ」
「……すみません」
「出てけ」
菊はアーサーの無礼な言葉に眉をひそめた。しかし、当のフランシスはアーサーの暴言をまったく気にしなかった。彼はアーサー・カークランドを(残念ながら)よく理解していたからだ。
アーサーが愛しんで育てた義弟とちがい、彼は人から愛される方法をまったく理解していなかった。彼は愛をもっとも必要とする子どものうちから、世間の裂け目を見てきたのだ。緑色の瞳にはつねに疑心の暗闇が沈んでいる。
しかしフランシスには彼が辛抱強くだれか(自分を裏切らず忠実に愛を捧げてくれる人物?)を待ち望んでいると知っていた。
だから、フランシスは辛抱強くきき返した。
「わーかったよ。でも、お前がまだいてほしいって頼むならお兄さんもう少しここにいることもできるけど?」
「失せろ」
フランシスは肩をすくめた。
「はいはい。……意地っ張り」
彼はわざとゆっくり執務室を出て行った。すれちがいざま、アーサーに喧嘩を売った人物をぞんぶんに盗み見た。菊は奇妙な表情を浮かべてアーサーを見つめていた。
それは不作法ものに対するいら立ちではなかった。もっと単純で、ヒトが持つ根源的な感情――ねたましさ。
フランシスは廊下に出てしばらく歩くと、思慮深い顔でガラス窓に写るブロンドの男を見つめた。生成りのシャツにライラック色の袖なしベスト、胸元のタイに少女の横顔をあしらったカメオを身につけている、セクシーでどこか謎めいた男性。
さんさんと太陽が降り注ぐ領事館の裏庭で、未来のレディが無邪気に白い犬と戯れていた。彼女は窓の向こうにフランシスを見つけると、勢いよく手を振った。
フランシスは投げキスを返し、その無垢を祝福してやった。彼女はどこか、昔彼が愛を自覚する前に失った永遠の少女に似ていた。
フランシスの胸には美しいカメオが光っている。そこには彼の苦い思い出と戒めが詰まっていた。けれどフランシスは決して十字架を背負っているのが、自分だけではないと気づいていた。『国』はだれしも同じような十字架を背負っている。もちろん、アーサーでさえ。
だから、フランシスはいつまで経っても彼を見捨てることはできないのだ。
一瞬、脳裏に黒髪で小柄な東洋人の姿がよぎった。
――もしかしたら、ホンダキクもなにかを抱えているのだろうか?
しかし、その考えはすぐに忘れ去られた。フランシスにとって菊はさほど興味をひく存在ではなかったし、たとえ彼が何がしか問題を抱えていても、それはフランシスの関知する問題ではなかった。……いまはまだ。
フランシスは視線をそらすと、彼を祝福するように日射しが差し込む廊下を優雅に歩いて行ったのだった。
「いいお友だちですね」
菊はフランシスが去っていった扉を見つめながらつぶやいた。その声音にはわずかにトゲが含まれていたが、アーサーは気づかなかった。
「お節介なだけさ。それに、お前には関係ない」
「おっしゃる通り」
菊は無意識に袂から根付を取り出し、手のひらで転がした。それは遠い昔、兄が菊にくれたものだった。兄はそれを菊に渡し、彼の両手を握りしめて言った。
『かわいい小菊。我はいつでもお前を守ってやるある。お前をいじめるやつは我がやっつけてやるあるよ』
けれど、それはウソだった。ここ数十年、彼に来てほしいと願ったことは何度もあったが、兄は決して菊を守ってはくれなかった。
いやそれは違う。
兄が菊を一人ぼっちにするはずがない。彼はきっと菊を助けてくれるはずだ。いつか、この傲慢で卑しい男をこの地から追い出してくれるだろう。そうに違いない。決まってる。
――でも、どうやって?
手の中で、根付の動きが止まった。
そして、たちまちのうちに菊を慣れ親しんだ孤独が襲ってきた。先ほどのアーサーとフランシスのやりとりが蘇った。フランシスは間違いなく、アーサーを案じていた。そこには物ごとの損得を超えた彼らの情がかいま見えた。
菊は、二人が親しい友人か家族のように見えた。よりにもよって、菊の兄を打倒した相手にも彼を思う相手は存在するのだ。
では、私には?
それについては、考えなくてもわかっていた。
『かわいい小菊……』
頭のなかの耀の声はますます掠れて、小さくなっていく。
兄は来ないかもしれない。
いや、きっと来るだろう。
来るはずだ。
もし、来てくれなかったら……。
「おい二十番」
アーサーが不愉快そうな目で菊を見ていた。
「なんでしょう」
菊はにっこり笑って、ある恐ろしい感情を穏やかな笑顔の下に押し込んだ。
ただ、その笑顔は疲れ切っていて、どこか捨て鉢だった。
次の週、菊は約束の時間より少し早くイギリス領事館についていた。彼はすばやく黒毛の愛馬を領事館の門柱に結び付けると、その外観を見上げた。
それは、白い漆喰の壁に青い窓枠が目立つ二階建ての建物だった。ひと一人が通れるほどの狭い階段が玄関につながっており、階段のわきに美しいペチュニアの鉢が一段ごとに置かれていた。
窓と同じように青く縁取りがされている屋根からは一本の大きな煙突がそびえ立ち、灰色の煙を噴出させている。菊はなかの職員たちが忙しく立ち回っているのを想像して、少し顔をほころばせた。
十五分後、約束の時間に遅れてアーサーが領事館から姿を現した。相変わらずの尊大な雰囲気で彼は遅れたことを菊にわびようともしなかった。けれど、菊はそれより彼の格好に目を奪われていた。
「おはようございます、カークランドさん。よい朝ですね。とても素敵なお召し物をですが、いったいどちらへ?」
アーサーは彼を馬鹿にしたように鼻で笑った。その仕草が気に障ったものの、菊はできるだけ冷静に話すことができるよう深呼吸を繰り返した。
「カークランドさん。率直に申し上げて、貴方の格好には二つ問題があります。まず、ご存じないかもしれませんが、いまこの国は外国の方に対してとてもぴりぴりしているのです。横浜ではとくに問題はありませんが、ここから外に出て、そんな立派な軍服を着ていては狙ってくださいと言っているようなものです。なにかあっては遅いのですよ」
「問題は起きない」
アーサーは断言した。
「ですから、そうは言えないので……」
なおも言い募ろうとした菊をアーサーが手をあげて遮った。彼は眉根をあげ、わざとらしい顔つきで菊を見下ろした。
「問題はぜったいに起きない。もちろん、おれは確信しているが、そんなことが起きれば、きっととても強いショックを受けるだろうな。混乱のあまり、おれは本国に少しばかり大げさな報告をしてしまうかもしれない。なんといっても強いショックを受けたのだから」
痛ましそうな口調とは裏腹に、彼の瞳はあからさまに菊を嘲笑していた。菊は一瞬、あらんかぎりの敵意をこめてその目をにらみつけたが、すぐに視線をそらした。そして手が白くなるまで根付を握りしめた。
「では、その服装について二つ目の意見を述べさせていただきます。いまは夏ですよ、カークランドさん、ここは貴方がいた恵まれた島国とは違うのです。この国の暑さは湿っぽく、とくに昼間は服が肌にはりつく不快を感じるでしょう。それに、そんな格好ではすぐ熱中症を起こしてしまいます」
「だから、おれにまで動物みたいな格好をしろって?」
アーサーは太ももまで着物をあげ通りすぎる老爺を軽蔑の目でみた。
「日本人は動物ではありません」
「では訂正しよう。イギリス紳士は『日本人みたいに』みっともない格好をしない」
「……わかりました。ご自由にどうぞ」
菊はやっとのことでひきつった笑みを浮かべすと、準備してきた地図を彼に示した。
「先週おっしゃっていた、横浜から鎌倉村に向かう旅の行路です。この街道は急な勾配もないうえ、道もよく整備されています。おそらく最も安全な道程でしょう。よろしいですか?」
口調はといかけだったが、菊は反対が出るなんて微塵も考えていなかった。だから、ほとんど息もつかずに後を続けた。
「まず気をつけなければならないのは――」
しかし、そのとき予想外のことが起こった。几帳面に爪が切りそろえられた手がすっと上がり、彼を遮ったのだ。
菊は苛立ちを押し殺して丁寧に尋ねた。
「なんでしょう? カークランドさん」
「反対だ。おれは外国人が未だ知らない日本が見たい。そんなガイドブックの一ページ目に載っているような行路は却下だ」
「却下って……。では、どんなルートがお望みですか?」
「これだ」
アーサーの軍服のポケットから取り出された行路を見て、菊は思わずうめき声をあげた。
「冗談でしょう! ほとんど山道じゃないですか!?」
「なにか問題でも?」
「問題しかありませんよ! こんな道程、無茶苦茶です!」
「二十番」
彼は『う』の部分を異様に伸ばして発音した。アーサーは菊が口を閉ざしたのを確認すると、腕を組んで背後の樫の木によりかかった。
木陰の下、小動物をいた振ることを楽しむような瞳が爛々と光っていた。
「失礼。ひとつ確認をしておきたいんだが、おれはいったいだれだ?」
「……世界で最も反映なさっている大英帝国の化身の方です」
「おれを褒めたたえる形容が足りないが、まあいい。では、お前は?」
「私は日本の……」
「ちがうな」
アーサーはぴしゃりと言った。
「お前は十二ドルで雇われる契約に同意した。だから、いまのお前はただの雇用者だ。この国ではいっかいの使用人が主人に意見するのか?」
彼の声は相手を服従させるのに慣れきっている声だった。相手が自分に刃向かうことを許さず、そしてそんなことが起きるとは夢にも思っていない声音だ。
『小菊』
もし、兄がいまここにいたらと菊は想像した。そうしたら菊を軽んじるこの無礼な白人から菊を守ってくれるかもしれない。
しかし、ここに兄はいない。彼は一人で世界が手の内にあると信じ切っている相手と相対しなければならなかった。
お互いの感情がぶつかりあって破裂しそうな沈黙のあと、菊はようやく顔をあげ微笑んだ。
「申し訳ありません」
アーサーは当然のようにうなずいた。ただ、菊はここで引き下がるつもりはなかった。
「出発前に確認したいのですが、おそれながらカークランドさんは動物園の檻に入ったことはございますか?」
「なんだって?」
「動物園の檻です」
菊はあてこするように檻という言葉を強調した。
「カークランドさんがご提示されたルートでこの時期ですと、とてもじゃありませんが高級な宿屋に泊ることはできません。つまりカークランドさんはお望みの通り、外国の方がいままで通ったことのない道を通り、泊ったことがない類の宿に泊まることができるでしょう。ただし、その代償はなかなか高くつくと思いますよ。ここは貴方のお家ではないのですから」
アーサーは菊の忠告を鼻で笑った。彼はそれを悔し紛れの脅しだと考えていた。
菊は彼の侮りを察することができたが、今度はまったく構わないと考えていた。どうせ、夜には菊のほうが正しかったと実感することになるのだから。
菊は兄の船がイギリスの砲艦を沈没させるところを想像した。菊は船の舳先に立って、兄とそれを見下ろしている。波間でアーサーが惨めな顔で手を振ったが、菊と兄はそれを無視して笑うのだ。
菊の顔に意味ありげな笑みが浮かんだ。
「出発しましょうか」
彼は預かった荷物を愛馬にくくりつけ、手綱を引っ張っていった。