Apple of My Eyeact 003

 横浜を出発してから数時間が経った。

 太陽は完全に中天に上り、殺人的な光線が彼らを照りつけていた。彼らが進んでいるのは傾斜がきつい山道で、足を一歩動かすたび額からこぼれた汗が服に染みをつくっていった。菊はできるだけ直射日光を避けようと街道沿いに植えてあるトチノキの影を進んでいた。

 そのとき、アーサーが露骨に舌うちした。彼は不快そうに褌ひとつで菊たちとは反対方面に走っていく飛脚を見つめていた。

「彼らは私たちが想像もできない距離を走って、荷物を運ぶのですよ。暑さに対して的確な対処です」
「走って!?」

 アーサーは信じられないというように菊の言葉を繰り返した。

「ずいぶんと前時代的だな」

 この暑さのなか、いくら菊が進めても彼は第一ボタンひとつ外そうとしなかった。菊はそれがどうしてなのか推測できた。つまり、彼は『ずいぶんと前時代的』な未開人の前で少しでもリラックスした態度を見せることを屈辱だと考えているのだ。

――なんとばかばかしい……。

 菊はため息をついて、愛馬の手綱を引いた。そしてなにげなくトチノキの境から下に広がる丘を見下ろし、息をのんだ。

 そこには声も出せないほどに美しい白百合畑が広がっていたのだ。街道の高台から下の田んぼにかけての斜面に白いラッパに似た形の百合が群生していた。

 そこだけ一面真白い雪景色のようで、菊は一瞬いまが夏であることすら忘れていた。百合畑の向こうは青々とした稲が望める。まるで白と緑のじゅうたんのようだった。

 菊が足を止めそれらを眺めていると、百合畑から子どもの甲高い歌声が聞こえてくるのに気づいた。彼らは輪になってかごめかごめをして遊んでいた。
 その苦しみもなにも知らない無邪気な姿に菊の胸がちくりと痛んだが、それもすぐどこかに消えた。

 菊は子どもを見たらたいていの人がそうするだろう表情を浮かべ、彼らを見つめていた。

 そのとき、輪になっていた子どもの中心がふいに顔をあげ、菊たちを見た。頭を芥子坊主に結って、きらきらした瞳のひどくかわいらしい子どもだった。彼はなにか気づいたように菊たちを指差すと一直線にこちらめがけて走ってきた。

 とたんに、菊はいやな予感がした。子どもは本当にかわいらしいが、彼らはときどき菊が考えもつかないようなことを軽々とやってのけるからだ。そして、今回彼の予感は的中した。

「まいりましょうか」

 菊が苦笑いをしてアーサーを振り返ったとたん、そのわきを弾丸のようなものが通り過ぎて行った。そして、菊が見ている目の前で彼はアーサーに抱きついたのだ。

 しかも子どもの手は泥まみれで、抱きつかれたアーサーの腰は見事にその手がたがべったりくっついていた。
 それを見たとたん、菊は内心快哉をあげた。できるなら、子どもに駆け寄ってその頭をよくやったと撫でてやりたいくらいだった。

 けれど、その衝動は起こったのと同じくらい急速にしぼんだ。
 なぜなら、少年が茶目っ気のある粗相をやらかしたのは、よりにもよってアーサー・カークランドなのだ。

 もし彼がフランシスだったら、菊はこれほど慌てなかっただろう。しかし、どれほど念じてもアーサーはフランシスに変身しなかったし、同様に少年の手形も消えることはなかった。つまり、彼は本当に『菊が考えもつかないようなこと』を軽々とやってのけてしまった。

「カークランドさん、子どものいたずらですから……」
「おい」

 アーサーは菊が止めるのも無視して、少年の前をじっと見下ろした。菊が思わず子どもを庇おうとしたとき、もうひとつの影が二人の間に割り込んだ。

「やめろ唐人!」
「兄ちゃん!」

 割り込んだ子どもは芥子坊主の少年を守るように背後に隠し叫んだ。

「こいつをいじめるなら、ぶっ殺してやる!」

 その様子は、子猫が獅子相手に全身の毛を逆立てているようなものだった。
 しかし、それは決して愚かさから出た行動ではない。少年はアーサーを本当に『ぶっ殺せる』とは思ってはいないのだ。ただ、彼はとっさにそうしてしまった。何もかも、弟を守るために。

 アーサーはため息をついて、軍服の金ボタンをむしり取った。そして、動物のように毛を逆立てる兄の前にしゃがみこむと、とつぜん胸元から白いハンカチを取り出した。

「アブラカダブラ」

 彼がそう唱えたとたん、ハンカチから魔法のように赤くて見たことないほど美しい花があらわれた。彼は、無言でその花を兄弟に差し出した。

 兄は未だ噛みつきそうな目でアーサーを睨んでいたが、弟はさっとその背から飛び出して赤い花を奪った。

 彼はほうっと宝ものに見とれていた。アーサーが手をあげ、二人の注意を自分に戻す。そして、にやりと笑うと金ボタンをつまんでみせ、二人に呪文をいうよう示した。

「あぶらかだぶら」

 兄が不承不承、弟が元気よく叫んだとたん、金ボタンはどこかに消えた。それは、アーサーが指差した、弟の袂のなかから出てきた。

「すごい……」 

 菊は思わず、相手がアーサーであることを忘れて話しかけた。

「どんな魔術を使ったのですか?」

 しかし、彼はその言葉が聞こえなかったかのように完ぺきに無視した。そこで、菊ははじめて彼の行動に傷つけられた。いままでどれだけ蔑まれても微塵も心を動かすことはなかったのに。

 兄は物欲しそうに弟がもらった金ボタンを見つめていた。

 彼は兄である以上、弟を守る責任があり、それを果たしたことを後悔はしていなかった。けれど、弟だけ素敵な贈りものをもらえることに子どもらしい嫉妬心を抱いたのだ。

 そのとき、アーサーが兄の前に屈みこんで、その場にいるだれもが想像しなかったことをした。つまり、彼は金ボタンよりはるかにいや、比べられないほど価値がある勲章を剥いでしまったのだ。
 ぶちぶちという、彼の軍服が引きつれて破れる音が響いた。

「やるよ」

 アーサーはそう言って、兄に向って不器用に微笑んだ。菊が思わず息をつめて見とれてしまうほど、優しい兄のような顔をしていた。


「子どもをあやすのがお上手ですね。慣れてらっしゃるのですか?」

 少年たちが何度もお辞儀をして去っていくのを見送ったあと、菊は上ずった声で尋ねた。

 沈黙。

 けれど、菊は答えが返るまでねばるつもりだった。菊が期待するアーサー・カークランドを取り戻すために。

「よろしかったんですか? 大切な勲章でしょう?」
「勲章なんてどうってことない」
「どうして」
「なぜなら、あの兄は自分のすべきことをやりとげたからだ。兄はなにがあっても弟を守ってやるべきだ。それがたとえ、絶望的に力の差がある相手でも」

 アーサーはここにはいないだれかに語りかけるような口調でいった。

「ぜったいにそうしなければいけない。だから、おれが清の船を何隻沈めたかっていう勲章なんてそれに比べればなんの価値もない」

 菊は一瞬、叫び出したい気分になった。心のなかがぐちゃぐちゃになってなにを言ったらいいかわからなくなった。
 しばらくして菊は疲れ切った声音でつぶやいた。

「そうですね。きっと貴方が正しいでしょう」


 アーサーは到着した宿の廊下で菊と別れると、一目散に示された自分の部屋に飛び込んだ。そして、すさまじいスピードで軍服とシャツを脱いで上半身裸になると畳のうえに寝転んだ。

 彼の軍服とシャツは汗をたっぷりと含み、通常の二倍は重くなっていた。アーサーは途中何度も飛脚のように下着一枚で走り回りたい衝動に駆られたが、傍らに菊がいる以上エベレストのように高いプライドがそれを許さなかったのだ。

 少年にあげたせいで第一ボタンが外れたことだけが唯一の救いだった。
 彼は深いため息をつくと、ようやく案内された部屋を見回した。

 三方が格子状の木に白い紙を張ったドアで囲まれている。壁側の一面だけが一段高くなり、そこにアーサーの読めない文字が書かれた巻きものが掛けられていた。床は黄色く変色した草のカーペットのようなものがしかれ、毛羽立ったそれがちくちくする以外概ね問題はなかった。

 ただ部屋の狭さと薄汚さはおおいに問題だったが。

 アーサーは寝返りをうち、井草が顔にささったのに小さな悲鳴を上げた。そして不貞腐れた顔で別の方向に顔を向けた。

 彼はしばらくの間、物思いにふけるように目を伏せていたが、やがてそのまぶたは完全に閉じられ室内に規則正しい寝息が響き始めた。


 いつのまにか、彼はイギリス、サフォークのムーアに立ちつくしていた。足元には赤紫のヒースの花が咲き乱れ、荒涼とした大地を唯一その花が彩っていた。

 その清涼剤を除けば、見渡す限り岩ばかりの荒れ地は、アーサーにつきまとっていた孤独を思い出させた。彼はかつてそれを完全に克服したが、残念ながらいまはそうではなかった。

 アーサーはムーアを見回し、自分以外に生きて動くものを探そうとした。そうしなければ気が狂ってしまいそうだった。

「アーサー」

 いつのまにか、彼の背後に小さな男の子が立っていた。

 見事なブロンドに空の色を映しこんだような見事なブルーの瞳、そして薔薇色の頬をした申し分のない子どもだった。彼はアーサーが求めていた子どもだった。アーサーは彼を目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。

「アル……」

 アーサーは愛する義弟を抱き寄せようと腕をのばした。とたん、アルフレッドの顔が憎悪に歪み、勢いよくアーサーを突き飛ばした。

 アルフレッドは彼にあらん限りの罵倒を浴びせ、彼の世界から永遠に去っていこうとしていた。アーサーはアルフレッドに必死に手を伸ばした。彼はもう孤独を味わいたくなかった。もう一人ぼっちになりたくなかった。

 しかし、ひびの入った堤防は必ず決壊する運命だった。アーサーはそれに気づき、絶望して叫んだ。

「呪われろ!」

 一瞬のうちに辺りが火の海になった。そこはもはやアーサーのいたサフォークの荒涼とした、しかし安全なムーアではなく、戦火が夜を不気味に照らすニューヨークだった。

 愛する義弟の都市はそこかしこで火の手があがり、あちこちの建物が倒壊して煙をあげていた。銃声と悲鳴がまじりあったまるで地獄のような場所だった。

 荒廃した都市に彼の義弟は満身創痍で立っていた。不細工な銃を持ち、もう一方の手で血を流す腕をおさえていた。

「うそだろ……」

 アーサーは絶望してつぶやいた。

――神様、誓っておれはこんなことを望んでいなかったんです。

 そのとき、アルフレッドがこちらを振り返った。彼は驚いたようにアーサーを見て何事か叫んだ。しかし、アーサーには彼がなんと叫んでいるのかわからなかった。

 アーサーもまたアルフレッドの背後を見てうなり声をあげていたからだ。敵兵がアルフレッドを銃で狙っていた。そしてその瞬間はあっという間に訪れた。

 アルフレッドはなにが起きたか分からないという顔をした。彼は緩慢な動作で撃ち抜かれ血を流す胸をおさえると、同時に唇からも血を吹き出し地面に崩れ落ちた。

 アーサーは自らも心臓がえぐりだされたような絶叫をあげ彼に駆け寄ろうとした。しかし、それはできなかった。

 血と硝煙に満ちた暗い世界は、鈍い轟音をあげながら崩れ始めていた。義弟のトレードマークの女神が台座から真っ二つに折れ、暗い奈落の底に落ちていった。義弟が大切にしていた列車や船、そのほか色々な建物が煙をあげて得体のしれない場所に落下していく。

 目の前で義弟の身体が彼の手をすり抜けたのを見て、アーサーは心の底から絶望を味わった。彼は兄であるのに弟を守ることができなかった。

 世界が崩壊する音はますます大きくなり、やがてそれは崩壊した都市でうずくまるアーサーさえ飲み込んだ。