Apple of My Eyeact 004

 アーサーは勢いよく起き上がった。そして、辺りを見回してそこがみすぼらしい旅館であることを確認すると、深いため息を漏らした。彼は両足を抱え込んで、ひざの上に頭をのせうずくまった。ここが、アメリカではなく極東の島国でよかったと初めて思った。

 彼の手には、いまだ弟がすり抜けて行った感触が残っている。そして、それはアーサーが義弟を失ったという意味では現実のものだった。もちろん、彼が義弟を呪ったことも、現在義弟に危機が迫っていることも。

 アーサーは深く後悔していた。彼は義弟を失うことを何より恐れていた。

 いまの彼にとって、この世でそれ以上恐ろしいものはなかった。

 しばらく同じ態勢でうずくまっていると、アーサーはざわめきがいつまで経っても途切れないことに気づいた。

 はじめ、夢の残滓から逃れられない幻聴だと思っていたのだが、調子外れの歌まで聞こえてきたときに彼は確信した。この付近の部屋で宴会かなにかが開かれている。

 アーサーは険しい顔で立ちあがり、正面の襖の穴からびっちり黒い目がのぞいているのに気づき絶叫した。

 そのときまた襖から黄色い指が飛び出してきて穴を開けると、興味深そうな黒い瞳が彼の部屋を見回して、小さくまばたきした。

 彼の耳がようやく正常に機能し始めた。障子からのぞく大量の目は彼を覗いてあれやこれや好き勝手言い合っている。加えて廊下の奥から響く、聞くに堪えないひどい歌声や女の嬌声。ロンドンの雑踏だってこれほどうるさくはない。

 アーサーは思わず彼らを怒鳴りつけそうになって、それを取りやめた。

――こんな動物のような連中に怒鳴ってなにになる? 英国紳士が恥をかくだけだ。

 彼は大きく深呼吸すると、軍服とシャツを身につけ廊下に出て行った。気が鎮まるまで、外の散歩をするつもりだった。もちろん、邪魔なお伴もつけず一人で。しかし、彼は宿を出てすぐ絹を裂くような悲鳴をあげることになるのだった。


 菊が自室でのんびりお茶を楽しんでいると、ふいに廊下から荒々しい足音が近づいてきて、勢いよく襖が開けられた。菊はなにげなくそれを見つめ、ぎょっとしたように瞳を見開いた。

 アーサーの顔は茹でダコのように真っ赤で、いまにも湯気を吹きそうだった。彼は興奮したように口をぱくぱく動かしていたが、あまりの感情の高ぶりになにも言葉が出ないようだった。

「カークランドさん、なにか問題でも?」
「問題でも? だって……!?」

 アーサーはかすれた声でその言葉を繰り返した。

「落ちついてください。なにがあったのですか?」

 菊の冷静な声に、彼は少し我を取り戻したようだった。そして、深く深呼吸すると、いくぶん落ちついた声で答えた。

「部屋のなかでは動物園みたいにじろじろ見られるし、ここは耳がおかしくなるほどうるさいし、外に出たら――」 

 アーサーはなにか思い出したように顔を赤くした。

「す、すっ裸の女が軒下のドラム缶に入っていたんだぞ!? それも一人じゃない。あちこちで! あいつらには慎みがないのか!?」
「なにをそんなに驚くことがあるのでしょう? 彼女たちはお風呂に入っているだけですよ」
「フロ!? あのドラム缶が!?」
「寡聞にして、どらむかんがなにかは存じませんが、鉄砲風呂のことをおっしゃっているなら答えは『はい』です」

 アーサーは思わずうめき声をあげた。

「いますぐアレをどうにかしろ……!」
「何故です?」
「何故なら、おれが気に食わないからだ。みっともない!」

 菊が不快そうに眉をひそめた。彼は湯のみをそばの盆に置くと、険しい顔でアーサーを見上げた。

「私ははじめに申し上げたはずです。ここは貴方のお家と違うと。貴方はそれを了承なさったからここまできたのでしょう?」
「つまり、なにが言いたい?」
「つまり、ここに住む私たちからしたら貴方のほうが闖入者だということですよ。……それに」

 菊は口元を隠し、艶めかしく微笑んだ。

「女性の裸を見たくらいで、カークランドさんはずいぶんと初心でいらっしゃる」

 アーサーは後ろから殴りつけられたような衝撃を味わった。彼は、菊が不満を隠して微笑を浮かべると思っていた。菊がつい先ほどまでそうしてきたように、そして、いままで彼に従った多くの国がそうしてきたように。

 しかし、菊はいまや挑発するように彼を真っ向から見つめていた。アーサーはそれに激しい不快感を抱いた。

「ひとつ確認するが、お前はおれに喧嘩を売っているのか?」
「とんでもない。そう聞こえてしまったのなら謝罪します。ただ、イギリス紳士とはずいぶんと繊細な方なのですねえ」

 アーサーは菊を殴りつけ、その背中を踏みにじり懐の拳銃で彼を何度も打ちぬいた。辺りは硝煙と血の甘ったるいにおいに包まれ、アーサーは黙ってその場から立ち去った。

 心の底からそうしたかった。けれど、なぜかアーサーはそうしたらそれこそ菊の思うつぼだと感じた。不思議な直感だったが。

 だから、彼は代わりに大きく息を吐きだした。

「次そんなことを言ったら、その生意気な舌をお前の咥内から永遠に切り取ってやる」
「ええ。すみません」

 菊は心なしか残念そうに言うと、再びお茶をすすった。それで会話はおしまいだった。アーサーは鋭い音をたて襖をしめると、荒々しく自室に向かっていった。廊下で何人も日本人にすれ違い、そのたび指をさされたが彼はなんとか懐に手をつっこむ衝動をおさえていた。

 ここで彼らを撃ち殺しては菊が言うように自分が小物だと証明しているようなものだ。

 襖を開け、いくつもの瞳が自分を観察しているのにも気づいていたが、近くにあった衣文かけを引き寄せると、そこに布団をかけカーテンのようにして、襖の前に移動させた。彼はもう意地でもこの部屋から出るつもりはなかった。

 粗末な四畳半のなかで、孤独な戦いに燃える緑の瞳がいつまでも輝き続けていた。

 アーサーが鼻息荒く部屋を出て行ったのを見送り、菊はようやく深く息を吐き出すことができた。彼は静かに湯のみをお盆に戻すと、捨て鉢な表情で正面の襖を見つめた。

 そして根付を取り出し、苦しげな瞳でそれを眺めた。やはりそれは菊に優しい囁きを返してはくれなかった。菊は兄の声を思い出すのが難しくなっていた。

 襖の奥からにぎやかな声が聞こえてきた。楽しげな子どもの笑い声やそれを叱る母親の声。しかし、菊のそばにはだれもいなかった。菊は一人ぼっちだった。

 彼は衝動的に根付を投げつけようとして、結局それを両手で抱きしめて丸くなった。菊のそばにはだれもいなかったから、彼はそれに頼るしかない。そして、周りの喧騒から自分を守るようにきつくきつく瞳を閉じていた。


 衣文かけの簡易カーテンの前に座って、まんじりともしないでいると襖を控えめにノックする音が聞こえた。ここにノックという習慣を知っているのはおそらく一人しかいなかった。アーサーは思わずしかめ面をしたが、やがて入れと低い声で言った。

「失礼します」

 菊がアーサーと同じくらい不本意そうな顔で四角いお盆のようなものを持ってきていた。彼の後ろには宿の女中が同じ形のお盆を持って、隠しきれない好奇心に瞳を輝かせていた。

「何の用だ?」
「夕餉の時間です」菊はきっぱりと言い切った。「食べ終わったら、宿の方がお膳を引き取りにきてくださいます。なので、それまでは私がご一緒しますよ」
「必要ない」

 菊はため息をついて、アーサーの前に自分のお盆を置いた。

「もちろん、おっしゃる通りだと確信しております。では一応用心のためにカークランドさんが懐に持っている物騒なものをお預けいただけますか?」
「じょうだんだろ? なにか起きたときおれに丸腰で死ねっていうのか?」
「とんでもない。ただ、彼女たちも『なにか』を恐れていることをお察しいただきたいだけです」

 菊は言外にアーサーが彼らを傷つけないように見張ると言っていた。アーサーはあまりの馬鹿ばかしさに笑いたくなったが、面倒なことが起きたとき菊がいたほうが便利だと言い聞かせた。そして、黙って肩をすくめた。

 菊はそれが不本意なイエスと察したのか、小さくうなずくと女中に微笑みかけ襖を静かにしめた。

「まったくここは動物園みたいにすばらしい場所だな」

 アーサーはわざとらしく室内を見回し、襖の奥の目と視線があってしかめ面をした。部屋の外からはひっきりなしに子どもの泣き声や酔っ払いのうめき声が聞こえてくる。本当に『すばらしい』部屋だった。

「ええ。この危険なご時世に私たちの宿泊を許してくれるなんて、本当に素晴らしい宿ですね」

 菊はボール型の食器のフタをはずすと、お盆のわきに置いた。彼はアーサーの皮肉にまったく動じていないようだった。とたんにアーサーはその澄まし顔をゆがませてやりたい衝動に駆られた。

「おれをこんなにじろじろ見るのは、ここでは人間のほうが珍しいからか?」
「いいえ。ただ、貴方がたの国の宣教師を真似しているだけです」

 アーサーは鼻を鳴らして、彼の夕飯がのった盆を見下ろした。それは彼へのあてつけのように粗末なメニューだった。漆塗りがところどころはげた食器に盛られた白米、不気味な茶色いスープ。大根と人参のピクルスのようなもの(ただし、においは全然ちがう)そしてアーサーの中指ほどの長さしかない焼き魚。

――おれへの嫌がらせで、わざとこんなひどいものを食わせるつもりなのか?

 アーサーは疑り深い目で人参のピクルスを食べている菊を見つめた。彼は内心こんなものが食えるかと食器をひっくり返すアーサーに期待しているのだろう。しかし、自分はその手にはのらない。

 アーサーは炊きたてのご飯やしょう油の鼻をつまむようなにおいに耐えて、口を開けた。


 しばらくの間、食器を置いたりアーサーがときどき床に箸を落としたりする音だけが響いていた。もちろん、外のざわめきをのぞけば。

 アーサーは魚を直接食いちぎりたい気持ちをおさえ、たどたどしい手つきでその身をむしっていた。もう魚を食べているのか、無惨な形に解体しているのかわからなくなったとき、彼は菊が切なげな顔で廊下側の襖を眺めているのに気づいた。

 襖の破れ目から、五歳ほどの子どもが母親に抱きついてべそをかいているのが見えた。彼は悲しみに身体を震わせていたが、しばらく穏やかな手つきで頭を撫でられているとだんだんと安らかな顔つきになっていった。

 子どもは自分のすべてを親に預ける代わりに、愛情を惜しみなく与えられる。そして、彼は自分を愛されていることを絶対的に確信していた。

「あの子は、愛されて幸せですね」
「そんなことない」

 アーサーはとっさに反論していた。菊は視線を彼に移し、いぶかしげな目つきで問いかけた。

「どういう意味ですか?」
「愛を知った人間は不幸だ。何故なら人はもともと孤独な存在で、それが当たり前だからだ。愛を知ったあとそれを奪われたら、以前よりよほど狂ったようにそれを感じる。……孤独を。そして、再び愛を取り戻すためならなんだってするようになるだろう」

 アーサーはぐちゃぐちゃになった小魚を見下ろした。

「それはひどく惨めだ。無知は幸せだな」
「いいえ」

 強い口調が彼を否定した。いつのまにか、菊はアーサーを真正面から見つめており、その瞳は奇妙な輝きが宿っていた。それは、はじめてアーサーというヒトを発見したような目つきだった。

「わかります。わかりすぎて、貴方はどれほど私がそのことを理解しているか想像もつかないでしょう」

 アーサーはそれを鼻で笑った。未開の島国が彼を理解できるとは到底思えなかったし、そんな下らない相手に心の澱をのぞかせたことがおかしかった。

 しかし、菊は軽んじられたことに対して目くじらひとつ立てなかった。彼はアーサーを見つめていた。アーサーの心のうちを探り、そのなかに他にきらめくものが眠っていないか探しているようだった。

 やがて二人は夕食を再開したが、そこには数分前の乾いた無関心はなかった。なぜなら、菊のほうがアーサーを観察するようにじっと見つめていたからだ。