ちょうどそのころ、フランシス・ボヌフォワはフランス領事館の書斎でいくつかの書類にサインをしたり、眉をひそめてゴミ箱に放り投げたりしていた。
二十二枚目はゴミ箱行きだった。そして、二十三枚目に目を通すと彼はにっこり微笑み、そこに美しいサインをすることに決めた。しかし、とつぜん吹いた突風がペンのインクを跳ねさせ、書類に小さな染みができてしまった。
フランシスはそれが気に入らなかった。そして、その書類がちょうどイギリスに関するものだと気づき、『彼』のことを思い出した。
日本の化身の青年はかわいそうだが、きっと今頃アーサーは彼をいじめ抜いているだろう。そもそも彼の義弟の関心を買ったのが運のつきなのだ。
フランシスは形ばかり菊に同情しようと努めたが、それはあまりうまくいかなかった。口元には楽しげな笑みが浮かび、早くも『万一のこと』が起きた場合のことを想像した。
どこをもらおうか。たいして資源のない国ではあるが、どんな国にだって探せばうま味はいくらでも見つかる。そして、フランシスはうま味を見つけることに関してはプロ級だった。
彼はアーサーを応援するのは不本意だったが、少なくともぽっと出の菊より長い付き合いのアーサーのほうに情はある。
それに今回、二人は利を共有しているのだ。フランシスはアーサーが菊に心動かされる可能性を微塵も想像していなかった。そんなことはありえなかった。
そのとき、開けていた窓からひときわ強く風が吹き込み、彼の美しい巻き毛を揺らした。フランシスはペンを置いて窓辺にいくと、そこから顔を出し急速に流れていく雲を見つめた。
「こりゃあ降るぞ」
それもひどい嵐になりそうだった。たくさんのものを吹き飛ばし、見知らぬ場所から新しいなにか――変化を運んでくる大嵐に。
とつぜん、フランシスは奇妙な胸騒ぎを感じた。しかし、無理やりそれを気のせいだと思いこむと、激しい音を立てて雨戸を閉めた。
次の日の朝、菊たちは宿を出発して近場の茶店で朝食をとっていた。街道沿いにある赤い大傘の下で、彼らは道を急ぐ人々を見つめていた。かろうじて雨こそ降っていないが、風が強く雲の動きが早かった。菊は目的地の鎌倉を目の前に、嵐が近づいてくるのを感じていた。
「カークランドさん、嵐が来そうですよ」
アーサーは食後のだんごを咥えたまま菊を見た。そして肩をすくめると何事もなかったかのように、菊から目をそらした。
けれど、菊は怒りを感じなかった。昨晩、彼の話しを聞いたときから菊の胸には不思議な考えが生まれていた。
もしかしたら、二人は友だちになれるかもしれないという考えが。
しかし、そう考えることは兄に対する重大な裏切りだった。
菊はその考えが頭をよぎるたび、ずっと前に船上で見た怪物のような瞳を思い出そうとした。彼は菊たちアジア人を蔑んでおり、菊たちを虐げることに関してなんの罪悪感も持っていないと考えようとした。
彼らは菊たちとはまったく同じところを持たないのだ。
しかし、それはあまりうまくいかなかった。彼はまるで菊の心をそのまま形にしたようなことを言ったのだ。つまり、それは彼が菊と同じことを感じていた証拠だった。この世に一人ぼっちだと感じているのは、菊だけではなかった。
彼の胸は兄への思慕と新たな人物への期待で引き裂かれそうになっていた。
そのとき、茶店の若い女中がアーサーの容姿に怯えつつお茶のお代わりを持ってきてくれていた。菊は彼女が背中に小さな赤ん坊を背負っているのに気づき、子どもに向って少し微笑んだ。
アーサーの連れの菊にも怖気づいていたその女性は、彼が子どもに笑みを浮かべる類の男性だと気づくと安心したように会釈をして奥に消えて行った。その途中、背中の赤子をあやすように子守歌を歌っていた。彼女の声からは愛情が満ち溢れていた。
「目の中にいれても痛くないという感じですね」
「どういう意味だ?」
思わず漏らした言葉を聞きとがめて、アーサーが尋ねた。
「目の中に入れても痛くないと思うほど、愛おしく思っているということですよ。もちろん、比喩ですが」
「なるほど」
「そちらでは、同じような言い回しがありますか?」
肩をすくめた。
菊は答えが返ってくるのを辛抱強く待ったが、結局さきほどと変わらない沈黙が落ちただけだった。菊は少しがっかりした。けれど、気を取り直したように彼から目をそらすと一気にお茶をあおった。
そのとき、茶店の奥から甲高い子どもの泣き声が響きはじめた。表には菊たちの他に隣の大傘に座る立派なまげの男がいたが、彼は不愉快そうな顔で金を置くと女中に声も掛けず立ち去ってしまった。
奥から女中を叱りつけるような声が響き、彼女が泣きそうな顔で菊たちの大傘の近くまで駆け出してきた。彼女の背負った赤ん坊はいくらあやしても泣きやむことはなかった。
彼女は赤ん坊と同じか、それ以上に悲壮な顔で、子どもをどうにか静かにさせようと努力していた。
菊の心に彼女を助けたいという思いが芽生えた。しかし、菊は火のついたように泣く赤ん坊の有効な対処法なんて知る由もない。
“Sorry?”
――やっぱり……
菊の心がどこかで期待したことが起きていた。アーサーはぶっきらぼうな顔で女中に近づくと、怯える彼女の前でおそらく魔術のような手品を見せていた。じょじょに赤ん坊の泣き声はおさまり、やがてそれは小鳥のさえずりのような笑い声に変わっていた。
「ありがとうございます。お客さんにご迷惑おかけしちゃって」
彼女はアーサーに向かってそういうと、うかがうように菊を見た。
しかし、それをアーサーに通訳しても彼は肩をすくめただけだった。とたんに、菊は彼女に申し訳ない気持ちに襲われたが、彼女はまるでそれを気にしていないようだった。そして、菊はようやく彼女がひどく若いことに気づいたのだった。
「かわいらしいお子ですね。妹さんですか?」
「ありがとうございます」
彼女は愛おしそうに赤ん坊を揺らしていたが、やがて小さく首を振った。
「拾ったんです」
「すみません……?」
「私、火事で家族みんな亡くしちゃったんです。それで入水まで考えていたとき、この子を見つけました。周りの人は無茶だって言うけど、私はこの子を手放しませんでした。だって、神さまが一人ぼっちの私を憐れんでこの子を遣わしてくれたんですよ」
菊は痛ましそうに目を細めた。
「そうかもしれませんね。けれど、貴方はまだお若いでしょう? 色々とご苦労があるのではありませんか?」
「ぜんぜん! そりゃ大変なことなんて山ほどありますけどね、この子が来てから強くならなくちゃって思ったんです。私はまだ子どもだけど、それでもだれかを守ることはできるし、そっちのがよほど素敵でしょう? いままでは、だれかに守ってほしいってそればかり考えていました。私、我がままだったんですね」
菊は大きな衝撃を感じた。その波紋はみるみる内に大きくなり、彼の心に押し寄せてきた。それは、あまりに大きな波だったので彼は胸が苦しくなるのを感じていた。けれど、悪い気分ではなかった。
「とんでもない。貴女はとても……すばらしい」
菊がようやくそう言うと、彼女は目を丸くして照れたように笑った。
そのとき、再び茶店の奥からヒステリックな女性の声が響いた。彼女は慌てて返事をすると、菊の隣りに置いたお盆を持って立ちあがった。そして、素早く辺りを見回すと早口で菊に囁いた。
「お客さん、気をつけて。ここらへん最近物騒で、あまり遅くまでうろうろしてると危ないの。早く宿場に入ったほうがいいですよ。あと、役人には腹立たしくても心づけを渡しておいたほうがいいと思う」
「ええ。肝に命じます」
再び、女性の怒鳴り声。彼女は菊にいたずらっぽく微笑んだあと、アーサーに会釈をし店の奥に走っていった。
菊はその後ろ姿を魅入られたように眺めていた。彼女は家族を失い絶望しても、いたずらっぽく笑うことができる。そうすることができる人間は貴重だった。
菊は心のそこから彼女をすばらしいと感じていた。そして、同時に自分もそうありたいという温かな決意、強さが生まれ始めていた。
――私はもう彼に守られることはないけれど、代わりにだれかを守ることはできる。そしてだれかを新しく愛することも……。
菊は風が雲を押し流し、想像できないほど遠くに運んでいくのを見上げた。菊はなにかを予感していた。なにもかもがいっぺんに変わるような出来ごとを。
けれど、自分の袂に根付が入っているの意識したとたん、その新しい風は一瞬のうちに凪いでしまった。彼はそんなことを考えてはいけなかった。
“Aple of My Eye”
菊と同じように空を見上げていたアーサーがなにかを思い起こすようにつぶやいた。彼は目を丸くする菊に不貞腐れた口調で説明した。
「目のなかのりんご。瞳をりんごに見立てて、目に瞳はなくてはならないものって意味だ。転じて、かけがえのない人間をあらわす」
「……ありがとうございます」
菊はかすれた声で礼を言った。彼の手は必死に根付を掴んでいた。そうしなければ、いまにもそれを投げ出してしまいそうだったからだ。