一時間後、菊は憂鬱そうな顔で馬を引きつつ、旅路を急いでいた。女中の言ったとおり、役場にいた役人はアーサーを見たとたん、それとなく賄賂をほのめかしてきた。
菊はそれがどれほど危ういことなのかよく理解している。中央にいた菊はいままでそれが起きていることを知っていたが、実感はできていなかったのだ。この国がいま嵐の前の小舟のようになすすべもなく押し流されかけているということが。
「雨だ……」
アーサーが空を見上げて舌打ちした。菊も立ち止り、思わず顔を蒼くした。役人に近道だと教えられた道の右に両手を広げたくらいの幅の小川が流れている。川は細い針葉樹に巧妙にまぎれ、菊はいままでそれに全く気づかなかった。そして、物思いにふけるあま川の流れる水音さえ意識していなかったのだ。
鎌倉村に向かうにはその小川を超えて行かねばならない。しかし、雨が降り始めた以上たとえ小川であってもそこに近づくのは危険だった。菊はますます強くなる雨に身体を濡らしつつ、アーサーに叫んだ。
「カークランドさん、引き返しましょう!」
「はあ? さっきカマクラは目と鼻の先だって言ったばかりだろ」
「嵐が来ます。それに、鎌倉村に行くにはあの川を渡らねばならないのですよ!」
菊は切羽詰まった顔で林の向こうを指さした。アーサーはすぐ近くに川が流れているのを知り、絶句したようだった。そして、唇をかむと菊をにらみつけた。
「それで? おれにばかみたいに来た道を引き返せっていうのか?」
「ばかではありません。それが賢い選択なのです」
「すばらしい。あんな細い川に怯えて引き返せって?」
「ええ」
アーサーは鼻で笑った。彼の故郷の川は流れがゆるやかで、その川幅は深さに比例している。彼はとうぜん日本の川もそうであると考えた。もし、ばつの悪さが原因で強情になっていなければ、彼は菊の意見を聞きいれたかもしれない。
しかし、残念ながらそうではなかった。彼は羞恥のあまり冷静な彼ではなくなっていた。アーサーは横の茂みをかきわけ、流れる小川のふちへと歩いていった。
「カークランドさん!」
「うるさい!」
彼は後ろからついてくる菊を振りはらった。もちろん、そのつもりだった。しかし彼の指は運悪く黒馬の目にあたり、興奮した馬はアーサーを川辺に突き飛ばした。
「カークランドさん!」
大きな水音。切羽詰まった悲鳴。菊はあわてて川に落ちたアーサーを追いかけた。想像通り、川幅がせまい代わりに流れが速い。さらに悪いことに雨はますます強くなり、川幅を徐々に広げ始めていたのだ。
菊が泥だらけになりながら斜面を滑り降りると、アーサーは顔をゆがめて岩の一つにしがみついていた。
「つかまってください!」
菊は肩が痛くなるほど、大きく腕を伸ばした。しかし、まだ届かなかった。大粒の雨が彼の顔を叩き、頬から首筋に多くの水が滴っていった。菊はふたたび、岩をしっかりとつかむと、川べりに半身をのばした。
「流れに余計な抵抗はしないでください! 泳ぐように! 川底に足をつこうとしないで!」
「無理だ!」
「だいじょうぶ! きっとできます」
「無理なんだ!」流れてくる泥水を吐き出しながらアーサーが叫んだ。
「おれは泳げない!」
そのとき、菊の手がようやく彼を掴んだ。アーサーの手は菊の手より一回りほど大きく白魚のような色をしていた。
急流のなか、二人は一本の腕でつながっていた。一瞬、菊の脳裏におぞましい考えがよぎった――大きな犠牲を払うことになるが、心の澱を晴らすことへの誘惑。
菊はいつでもそうすることができる。しかし……。
菊はきつく目をつむり、やがてゆっくりとアーサーを引き上げ始めた。アーサーを完全に陸地に戻したとき右手の爪は割れ血を流していたけれど、不思議な充足を感じることができた。
二人は、雨のせいでぬかるみ、濃草色になっている川辺にへたりこんだ。アーサーは両手を腰の後ろにつけ空を仰ぎ、菊はうつむくようにして息を切らしていた。
彼らの荷を積んだ馬は消え、手元にはなにも残っていない。しかし、二人は荷物よりはるかに大切なものの賭けに勝ったばかりだった。アーサーは自分が賭けに出されたことさえ気づいていなかったが。
「だいじょうぶ……ですか」
「……たらふく不衛生な水を飲んで死にそうな思いをしても、かろうじて息をしていることをだいじょうぶと言うならおれは全くだいじょうぶだ」
「ええ。そのようですね」
菊は呆れてため息をつくと、馬が消えていった方向を見つめた。日ごろの用心のおかげでアーサーの通行証や菊の身分証などなくてはならないものは身につけている。しかし、それ以外はすべてなくなってしまった。
とっさに頭をかすめたのは、お金の問題だ。
菊はこの先の鎌倉村でも役人に心づけを渡す必要があるだろう。すると、手もとにあるだけの金だけでは少し心細かった。
菊は愛馬が消えたことを考えないようにしていた。
悲しみを感じるのにここはふさわしい場所ではないし、すべての問題も未だ解決していないのだ。
アーサーが険しい顔で彼らが下りてきた茂みの向こうを見つめていた。考える通りの人間ならば、おそらく菊は安全だろう。しかし、アーサーはそうではなかった。そして、一度彼を助けた以上、自分の選択には責任を持たなければならない。
菊は持っていた手ぬぐいを広げると、すばやくアーサーの頭にかぶせた。
「これをぜったい取らないで」
そう早口で言ったとき、針葉樹の細い幹の間から蛍のような灯りがぽつりぽつりと見え始めた。それらはあちらこちらから現れ、やがて一つの大きな膨らみに変わった。そして、膨らみはうめき声をあげながらも茂みを駆けおり、川べりの菊たちを取り囲んだ。
「なにをしておる」
膨らみの真ん中にいた男が野太い声をあげた。
「旅中、とつぜんの雨に降られ難儀しているところです」
「まことか」
彼らはお互い示しあうようにうなずきあうと、ゆっくり菊たちを照らした。つまり、菊のほうからも彼らが見えるようになったということだ。
雨に濡れ、ほとんど黒に近くなった上着。その前には白い紋章のようなものが二つ染め抜かれ、すそは一様に長い。つまり、一定の地位にしか許されていない格好だった。
菊は思わずため息をつきそうになった。つまり、彼らは予想通りの人間で、賄賂は恒久的な効果を発揮しないよい証明になったのだ。最初に声をあげた男が集団から進み出て、菊の全身をぶしつけに観察した。菊は彼が高く掲げた灯りのせいで、その額に大きな傷があるのに気づいた。
「まるで川にでも入ったような濡れ具合だな」
「ええ。この先の道はもっと降っていまして、女房ともどもこの有様です」
「女房だって?」
男は首を振って手ぬぐいをかぶって震えるアーサーを見つけた。
「あれか。ずいぶん震えているようだが」
「うぶな女なので、これほど多くの男衆を見たことがないのですよ。さて、こんな夜中にどうなさりましたか」
「人を探しておる。天狗のような顔の唐人と物腰やわらかい男の二人づれに覚えはないか? 男は馬を一頭連れているなかなかのお大臣だそうだ」
「はて」菊はあごに手をあて空を見つめた。「覚えがありませんね。お役に立てず申し訳ありません」
雨だれが地を打つ音はますます強くなり、どこか遠くで雷が落ちる音さえ聞こえはじめた。
「お前――」
男がなにか言いかけたとき、菊が目の色を変えて怒鳴った。
「触れるな!」
手ぬぐいをかぶったアーサーを男の仲間が取り囲んでいた。そのなかの一人は彼の頭に手をかけ、いまにもそれを取り去りそうだった。菊は彼らに近寄ってかばうようにアーサーの前に立った。
「触れてはいけません。私たちがこんな夜道をゆくのは、女房がひどい疱瘡を患っているからなのです。どうかあわれな女と思って顔を見るのだけは勘弁してやってくださいませんか」
「ほ、疱瘡!?」
男たちは汚いものに触れたように、いっせいにアーサーから距離をとった。
「ま、まさかうつる病ではあるまいな!」
「それはわかりかねます。そういえば、最近私も首の周りがかゆくてかゆくて」
「貴様、寄るな!」
菊が深刻な表情で首をかくと、彼らはくもの子を散らすように散らばっていった。後に残ったのは、菊に話しかけた額の傷の顔の男だけだった。
「役人でさえこの有様だ。いったいこの国はどうなってしまうのか」男は独白めいた口調でそう言い、菊に向き直った。
「道中の無事をお祈り申す。この先に親切な住職がいる寺があるので、雨宿りにそこを使うとよろしかろう。鄙びた寺だが、頼めば快く一泊させてくれるはずだ」
「ええ。ありがとうございます」
男は立ち去ろうとして、少し考えを変えたようだった。彼はまっすぐ菊を見つめると、挑むように問いかけてきた。
「私には、女房も子どももおります。ばかと言われようが、わが子が一番かわいいのです。お国もそりゃあ大切ですが、お国が大切なのは女房子どもが、大事な家族がここにいるからです。あなたはこの国がどうなっていくとお思いか? 我が国は、外つ国に国を開いたせいで滅びるのですか?」
菊は思わず彼を見つめた。男は迷子の子どものように菊を見つめていた。彼は無条件に菊を信頼し慕っているように見えた。
――私はもう守られることはないけれど、代わりにだれかを守ることはできる。そしてだれかを新しく愛することも……。
とつぜん、彼の胸に温かく強い気持ちがわきあがってきた。むしろ、なぜいままでその存在に気づかなかったのか不思議に思うほど、その甘やかな感情は菊を満たし、彼の全身にしみわたった。その奇妙な全能感は兄の言葉を反芻していたときよりはるかに菊を強くしてくれた。
やがて、彼は首を横に振った。
「国は決して滅びません。貴方がたがそう望む限り。……私が守るからです」
「祖国……」
菊は袂に入れていた根付を取り出すと顔を真っ赤にする男にそれを渡した。
「私の宝物です。いつも私を守ってくれた方が下さいました。だから今度は私がこれにかけて、貴方がたを守ると誓いましょう」
男があわてて返そうとするのを菊が強引に手のひらに押し込んだ。彼は根付と菊を見比べると根負けしたように肩の力を抜き、深々と礼をして去っていった。
守らなければならない人がいる。
そう感じることは奇妙な効果を菊にもたらした。全身に力がみなぎり彼らを守るためなら何だってできる気がした。菊はいま、心の底から愛情を実感していた。
男が持つ灯りが儚くなっていくのを見送ると、菊はふっきれた笑みでアーサーに話しかけた。
「御苦労さまでした、カークランドさん。この先に雨宿りできるお寺があるようなので、これ以上雨足が強まる前にそこに行きましょう」
「お前、あいつらになんて言ったんだ?」
アーサーは手ぬぐいを外し、けげんそうな顔で菊を見た。けれど菊はそれに答えなかった。アーサーはそれを一生知らないほうがいいだろう。知らぬが仏ということわざもある。
なので、答えの代わり菊は手を差し出した。アーサーが男たちに噛みつかなかったのは、彼がとつぜん悔い改めたわけでないことくらい気づいていた。
「肩、お貸ししますよ」
「だれが借りるかよ! おれはただちょっと休んでいたい気分なだけだ」
「それは残念です。この雨だと、あと四半刻もすればここまで水もあがってくるでしょうね。もちろん、カークランドさんが地面に立つより、反乱した川で泳ぐのが気に入っているなら、おとめしませんが」
アーサーは射殺しそうな目つきで菊をにらむと、すねた顔つきでそっぽを向いた。菊にはそれが皮肉屋の了承だと察することができた。
雨が音をたてて山道をうつなか、肩を組んだ一対の影が杉の生い茂る道奥に消えていった。
だれもいなくなったその場所は、川べりの大岩をも飲み込んだ水流に徐々に侵されていった。