それから二十分ほど歩くと、男が言っていた雨宿りのできる寺に到着した。日本でよく見かける黒い煉瓦造りの屋根に木造の壁。長い年月風雨に晒されたせいで、飴色に変色した外観はアーサーにいまにも崩れかけそうな印象を与えた。
しかし、二人とも一晩風雨がしのげればよかったので建物の外観などまるで気にしなかった。
菊は離れの板張りにしゃがむアーサーの足をとり、手ぬぐいで素早く固定した。
「痛みはありませんか?」
肩をすくめた。菊はアーサーの心情を想像することができたので、その無礼な態度もまったく気にならなかった。
「では、なにかあったらすぐ呼んでくださいね。私は二つ先の部屋にいます」
菊は気遣わしげにアーサーを見つめると、静かに襖をしめ去っていった。アーサーはその足音が遠くなり、やがて奥の襖がしまる音を耳を澄まして聞いていた。
そして、完全にアーサーのテリトリーからだれもいなくなったと感じると、大の字になって板張りに寝転がった。
天井には、彼が見たこともない花が賽の目に区切られた一つ一つに描かれている。そのほとんどが劣化し元の色がわからなくなっていたが、飴色の天井に咲く墨色の花畑はアーサーを感嘆させた。
部屋のすみは一段高くなっていて、アルカイックスマイルを浮かべた黒い人形が鎮座している。和紙と木で作られた直方体がその人形を照らすように置かれ、部屋ぜんたいにほのかな明かりを提供していた。
アーサーはもの珍しそうにそれらを見回すと、ため息をついて上半身を起こした。彼は険しい顔で、「彼」を象徴するように巻かれた手ぬぐいを見下ろしていた。
自己嫌悪が黒雲のように胸に広がり、いまにもそれに押しつぶされそうだった。彼はばかにしていた東洋人に命を助けられ(おそらく二度も!)情けない子どもみたいに足に包帯を巻いてもらったのだ。もしこんなことがフランシスに知られたら、恥辱のあまり死んでしまいそうだった。
それになにより彼を惨めにしていたのは、この一連の厄介事の責任がほとんど自分のせいだとよくわかっていたからだ。
加えて、そのことについて菊がアーサーをまったく責めないせいだった。彼はアーサーのせいで愛馬も失ったのに……。
アーサーは故郷に自分の馬を持っていた。ヴァージニアという素晴らしい白いひん馬。アーサーは彼女を溺愛していた。彼女がいなくなったら、どれだけ悲しい思いをするか想像もできないほどだった。
もし菊と同じ目にあったとしたら、彼は相手を百ぺん撃ち殺しても足りないだろう。
アーサーはひざを抱え込み、両足の間に頭をのせた。
彼はまた気づいていた。菊がときどき袖から根付を取り出し、愛おしそうに眺めていたことを。
しかし、菊はさきほどの人間にそれをやってしまった――なぜ? まさか、おれを守るためじゃないだろうな?
そう考えると、アーサーの頭に彼自身が認めがたい思い、罪悪感が生まれ始めていた。菊は彼の命を助ける代わりに大切なものをいくつか犠牲にしたのだ。おそらく、彼にとって本当に大切なものを。
いやそんなことはない。決してないはずだ。
アーサーは首を振ってその考えから逃れようとしたが、それは蜘蛛のように彼の頭に巣を張り長い間彼を苛んだ。
本当なら、アーサーはこの事態を喜ぶべきだった。なぜなら、これは間違いなく彼の期待していた出来事で、この顛末を利用すればフランシスと一緒に『なにか恐ろしいこと』を引き起こすことも可能なのだ。
けれど、アーサーはそのことについて考えたくなかった。昨日までは『それ』を引き起こすのになんのためらいも持っていなかったが、いまだけはどうしても無理だった。
彼は両手で目を覆い、板張りのうえに横になった。しばらくすると、空っぽの部屋のなかに苦しげな寝息が響き始めた。
草木も眠る丑三つどき、離れの戸が細心の注意をもって開かれた。行燈の灯はとっくに燃え尽き、辺りを照らすものはなにもなかった。影は音もなく侵入し、板張りの中心で眠るアーサーのうえに屈みこんだ。
夜に活動する生き物の鳴き声か、もしくはなんらかの気配を感じてアーサーはゆっくり目を開けた。寝起きのうるむ視界が怯えたように震える影を捕らえた。
アーサーはそれを悪夢にうなされ、眠れなくなったアルフレッドだと思いこんだ。彼は意外とこわがりな癖に、恐ろしい怪物が出る絵本をねだるのだ。そしてその晩はたいてい気まずそうな顔でベッドにもぐりこんでくる。
アーサーは頭のどこかで決定的な違和感を覚えたが、それがなんなのかはわからなかった。
そして、彼は違和感を形にする代わり、愛おしい義弟を悪夢から解放するために、やわらかく影を抱きしめた。
「シィーーー。こわくないこわくない」
アーサーは何千回と繰り返した言葉をまたつぶやいた。相手を脅かさないよう気遣いに満ちたやわらかい声音は、だれが聞いても愛情に満ち溢れているものだ。
「こわいものはぜんぶおれがやっつけてやる。お前はお兄ちゃんが守ってやるからな」
いつもと違い、アルフレッドはなかなか抱きしめかえしてこなかった。アーサーはよほど恐ろしい夢を見たのだと思い、彼の背中を揺らしながらナーサリーライムを歌ってやった。
“Hush a bye baby, on the tree top……”
しばらくすると、とまどいながら背中に両手がまわされアーサーを抱きしめかえした。その力は彼の記憶よりずっと弱々しく、アーサーをひどく痛ましい気持ちにさせた。
だから、彼は常の倍の力でアルフレッドを――少なくとも彼がそう信じ切っているだれかを外の恐ろしい世界から守ってやった。そして、久しぶりに幸せで満ち足りた眠りに誘われていった。
本田菊は腰にまわされたアーサーの腕をほどくと、側に脱ぎっぱなしてあった軍服の上をかけてやった。そして安らかに眠るアーサーを苦しげな顔で見下ろした。
菊は真っ白の着物を着て、右手に冴え冴えと光る抜き身の刀を握っていた。もしかしたら今夜、重大な『間違い』が起こり得たかもしれない。けれど、この瞬間それらはすべて過去のことだった。
菊は愛情深く抱きしめられた肩を左手で優しく撫でた。皮肉なことに、彼をそんな風に抱きしめてくれたのは過去にひとりしかいなかった。
菊のなかでアーサーに対して不思議な感情が育ち始めた。夏の夜の熱雷、たんぽぽの綿毛、鶸の羽毛のように温かい気持ち。それは、彼がついさっき無骨な役人に抱いたものと非常によく似ていた。
嵐がやみ、吹きすさぶ風が雨戸を揺らす音がしなくなるまで、小柄な青年の影はずっとアーサーの安らかな眠りを見守っていた。
次の日の朝、寝ざめはいつになく快調だった。アーサーはなにか幸せな夢を見たような気がしたが、いまは不思議な感覚が残っているだけで、夢の内容は忘れてしまった。ただ、むしょうに『彼』に会いたくなっていた。
アーサーは怪訝な顔でいつのまにか掛けていた軍服を羽織ると、早足で離れの外に出た。
雨はすでにやんでいた。まだ紫色の雲が地平線を覆い、やがて昇る太陽のじゅうたんを作っている。薄暗がりのなかで木々を滴る雨粒が水晶のように輝き、彼が来るのを祝福しているようだった。
いつものアーサーなら、その眺めに感動してしばらくそこに立ち止っていただろう。しかし、彼はその素敵な光景に目も暮れず、焦ったように境内をさ迷い歩きはじめた。アーサーは菊を探すことに夢中になっていた。無意識のうちに。
寺の裏手には奇妙な子どもの像がいくつも並んでいた。彼らは一様に赤い前掛けをつけやすらかな顔をしていた。足元には花が生けられ、そのすべてが寺の寂れ具合とは反対に鮮やかで水々しい。
ズラリと並んだ子どもの像の端は寺の通用門とつながっていて、半開きの扉から肩を借りて歩いてきた街道の様子をうかがうことができた。
けれど、そこにもアーサーの期待する人影はなかった。
彼はため息をついて、子どもの像に寄りかかった。七月の温かく湿った風が彼のくしゃくしゃしたブロンドを揺らした。供花の花びらが震える音さえ聞こえそうなひととき。
とつぜん、古びた木が悲鳴をあげる耳障りな音が響いた。そして、乱暴に通用口の扉が開け放たれ、紺色の着物を着た侍たちが次々押し入ってきた。彼らは切羽詰まった表情をして、抜き身の刀を携えていた。
少なくとも、英国式朝のティータイムをアーサーに習いに来たわけではなさそうだ。
アーサーの顔から繊細な青年の面影は消え去り、一気に好戦的で野卑な海賊船長の顔になった。
そして舌舐めずりして懐を探ったとたん、思わず顔色をなくした。そこに入っているはずの銃がなかったのだ。おそらく昨日川で溺れたときに流されてしまったのだろう。状況がひっくりかえった。とても危険な方向に。
侍たちは意味のわからない言葉を叫んで、アーサーに迫ってきた。血走った目の醜い小男はまるでモンスターのようだった。彼の脳裏に小さな手で甘える義弟の姿がよぎった。アーサーは彼を守れず、彼を残して消えて行くのだ。
――だいじょうぶ。心配ない。どこにいても、お兄ちゃんはお前を守ってやる
白刃がひらめき、アーサーはきつく目をつむった。しかし、なにも起こらなかった。
いや、彼自身でさえ気づかない領域が期待していたことは起きていた。その証拠に自分を庇う小さな背中が見えたとき、アーサーはため息をもらしただけだったのだ。
本田菊が燃える瞳で振り上げた刀を掴んでいた。手のひらから赤い血がしたたり、ゆっくり男の刀を伝った。
「何故ですか!? 祖国!」
「この方は貴方がたに必要な人だ! 貴方がたの健やかな未来に。殺してはいけない」菊は息を吸い込んだ。「ぜったいにいけない。それでもこのお方を害すおつもりなら、私を代わりに殺しなさい!」獣のように怒鳴った。
暗殺者の群れは、だれ一人として動こうとしなかった。
しばらくすると、彼らの内から額に傷のある男が進み出て玉砂利の上に頭を擦り付けた。菊はすぐ彼が昨夜根付を渡した役人だとわかった。彼に続き、一人また一人と侍たちは地に頭を擦り付けていった。瞬く間に全員の侍が菊の前にひれ伏した。
菊は憂いを含んだ顔で彼らを見下ろし、静かな、しかし威厳に満ちた声で去れと命じた。
彼らが完全に通用門から出て行くのを見送ると、菊は悄然としてこちらを振りかえった。
「なんと言ってお詫びをしたらよいのかわかりません。もし貴方が望むなら、彼らに然るべき罰を与えます」
アーサーは黙って首を振った。菊の言葉は彼をも混乱させていて、菊を陥れる千載一遇のチャンスをすっかり逃してしまった。しかし、それはあまり重要なことではなかった。
菊は遠い目をして彼らが消えていった方向を眺めた。
「私はもう長くないかもしれません。役人が賄賂で動く国はお上の統制がろくにとれていない証拠。そんな国が持つわけがない」彼はため息をついて、玉砂利に滴り落ちる血を見下ろした。
「本心では、貴方がたを受け入れるのが正しいかなんて確信を持てないのです。貴方はただ、私のすべてを壊しに来ただけかもしれない。彼らの行動は正しいかもしれない。どちらにしても私は見守るだけです。波に揺られて西へ東へ、船は天候をあやつることはできないのですから」
アーサーは、菊が人生に倦んだ老人のような目をしているのに気づいた。
彼のベビーフェイスのなかで瞳だけが異様に老いていた。彼はそんな顔をヨーロッパ人がしているのを見たことがない。時の無常を嘆いて、諦める表情はアジア独特のものだった。アーサーは以前打ち負かした耀もそんな顔をしていたのを思い出した。
当時、彼はそれを気味悪く思った。しかし、菊は耀ではない。アーサーは衝動につき動かされるまま菊の手を掴んだ。
「ちがう。船は天候を操ることはできないが、波に乗ることはできる。それにお前は見守るだけじゃなかった。おれの命を守った。胸を張れ、七つの海を征する大英帝国サマの言葉が信じられないか?」
沈黙。しばらくして、菊が迷うようにうなずいた。
「いいぞ。うちの船はすごいから、特別に今度見せてやるよ。……ホンダ」
菊は驚いたようにアーサーを見上げ、顔を赤くして微笑んだ。それは菊が初めてアーサーに向けた笑みだった。
じき朝日が昇り、辺りにどんどん活気が生まれはじめた。寺の対面の家から白い煙が立ち上り、鶏たちが騒がしく鳴き声をあげている。近所の人々は外にあるドラム缶に入って朝ぶろを堪能していた。
しかし不思議なことにアーサーはそれを不愉快には思わなかった。逆に西欧ではなくなった無垢さが未だ息づいていると感じられた。名前を呼ばれただけで慎ましく顔を赤らめた隣人のように。
そのとき、竹ぼうきを持った住職が太目の身体を揺らして二人を呼びに走ってきていた。
アーサーはテディベアが走っている姿を想像し、噴き出した。二人はどちらともなく顔を見合わせ、無邪気な子どものように笑いあったのだった。