がらんとした本堂の中心で、二人は向かいあって質素な朝食をとっていた。白いボウルのような皿に盛られた麦をまぜた飯、しょっぱくて黄色い漬物にスープ、そしてほうれん草を湯がいたものと甘いオムレツの朝食だった。
包帯を巻いた右手で器用に箸を操る菊に尋ねると、これは当てつけではなく日本のごく一般的なメニューらしかった。アーサーは昨晩、ひどい誤解をしていた自分を心底恥ずかしく思った。
アーサーの皿はすでに空っぽだったが、菊のほうはまだ麦飯とスープが残っていた。
「ところで、前に役人に渡していたキーホルダーみたいなものはなんだ? 高価なものか? お、お前がどうしてもっていうなら、同じものを手に入れてやってもいいぞ。おれにはそれができるからな」
菊は静かな目でアーサーを見つめると首を振った。
「それは無理でしょう」
「なんでだよ。見くびっているのか?」
「いいえ。カークランドさんを軽んじているわけではありません。ただ、あれは決して代わりが見つからないものなのです。以前、耀さんが作ってくれた品物ですから」
「王耀が?」
菊はスープをすすると、澄ました顔でうなずいた。
「ええ。彼は兄のような人でしたから、お守り代わりにくれたのでしょう」
アーサーは雷にうたれたような衝撃を感じた。彼はようやく菊が自分に向けていた敵意の源泉を探り当てた気がしたのだ。そして、彼の兄を打ち倒した自分を菊がどう思っているか想像して一気に胃のあたりが重くなった。それはとても不思議な現象だった。
アーサーはできるだけ自分は気にしていないぞ、というふりをした。しかし、次に彼が発した声はかすれていて、どこか弱々しかった。
「よかったのか?」
「……もう必要のないものです」
「なぜ?」
「私はもう、彼に守ってもらう子どもではないからです」
「それはへんだ」アーサーは乾いた唇を舐めて言った。「兄はいくつになっても弟を守ってやるべきだ」
「けれど、弟は貴方の所有物ではない」
ある種の話題はアーサーの鬼門だった。彼は思わずかっとなって、無礼な言葉を使って反論しそうになった。しかし、菊の表情は批判というより同情や憐れみに満ちていた。アーサーは彼から目をそらした。
「いつか現れるだれかが、とつぜん大切に育てた彼をさらっていくかもしれない。それでも黙って見送らなければならなければいけないでしょう。彼にもまた、守るべきものができたのですから」
「それはなんだ?」
「家族。国民は、私たちの大きな家族と言えませんか?」
アーサーがなにか言おうとしたとき、熊のような住職が漆塗りの盆を持って入ってきた。彼は白湯の入った湯のみを二人の前に置くと、興味深そうにアーサーの顔を見て、なにか言った。
「なんて言ってるんだ?」
「ええ。彼はどうやら人の顔を視るのが得意な方のようです。カークランドさんの瞳の色は庭の菩提樹にそっくりだとおっしゃっています」菊は言いにくそうに口を閉じた。
「構わない。続けてくれ」
「貴方は優しく情が強い人です。けれど、いつかそれが身を滅ぼすかもしれないから、気をつけろと」
彼はそれを鼻で嗤った。情が強いのには自覚があったが、それを向けているのはアーサーのApple of My eye、義弟だけだった。そして、義弟への愛が自分を滅ぼすなんて欠片も想像できなかった。もちろん、自分が他の存在を愛することも。
しかし、それはいずれ起こりえる未来で、彼の糖蜜のように甘ったるい破滅はすでに始まっていた。
話題が昨晩のひどい嵐に移るころにはその忠告はすっかり忘れ去られていたが、菊はなんらかの予感に突き動かされ、アーサーの横顔をじっと見つめていた。
話し合った結果、二人は鎌倉村を目指すのはやめて横浜に引き返すことにした。昨夜の嵐でこの先の橋が流れ、一時的に鎌倉村への道が途絶えてしまったのだ。加えて、領事館の人々もアーサーの安否に気をもんでいるだろうという菊の意見が押し通された。
彼自身、銃をなくしたことが心細かったのでその意見に渋々賛同した。しかし、本心を言うと、菊ともう少しだけ旅を続けていたいと感じていた。そして、もう少し話がしてみたかった。
そうすれば、彼は確かめられる気がしたのだ。なにかとても大切なものを。
身の回りを整理して、一晩宿泊した離れにアーサーは金ボタンをひとつ置いてきていた。住職がそれを気に入るかはわからなかったが、この国でアーサーの金ボタンは絶大な人気を誇っているのだ。
彼はなぜかテディベアのような住職に深く親しみを覚えていた。同じように、この辺鄙な島国にもそう感じていた。それはとても不思議な感覚だった。
アーサーが本堂の前をぐるぐる歩き回っていると、小走りにやってくる菊の姿が見えた。アーサーは彼を見て、心から安堵した。ここまで来て、菊が自分にうんざりしていたらどうしようという不安が根を張っていたのだ。
しかし、彼はまだそれを認めることはできなかった。
「すみません。出発の準備に手間取ってしまいました」
「べつに」
アーサーは待たされたことに苛々しようと努めたが、それはまったくうまくいかなかった。それどころか、彼の口から思ってもみなかったことが飛び出した。
「お前も、もううんざりだろ?」
「なにに対して?」
「おれに。おれは気難しいし、疑り深い。だからたいていの人間はおれにうんざりするし、そうでない奴らはおれに媚へつらっているだけだ」
「しかし貴方は繊細でおそらく愛情深い」
「それは違う」
アーサーは首を振りながら、彼の優しい否定を心待ちにしていたのに気づいた。
「お前はおれを知らないから、そんなことが言えるんだ」
「もちろん知りません。だって、貴方は私を見下して、なにも話すつもりがなかったでしょう」
しばらくして彼はつけ加えた。
「そして私も貴方を理解しようとはしていなかった。ごめんなさい」
アーサーは驚いて菊を見つめた。菊もまた彼を見つめていた。二人の間に温かなものが急速に芽生え始めていたが、アーサーは悪あがきのようにそれにあらがった。
「お前に理解できるとは思えない」
「そうかもしれません。でも、私はいつもなんとかそうしようと努力します」
「だといいが」
アーサーは肩をすくめると、菊の前を歩き出した。しかし、数歩進んだところで少し迷ったように立ち止りなにか囁いた。それは小鳥のさえずりのように小さな声だったが、菊は不思議とそれをきくことができた。
彼は微笑んでこたえた。
「どういたしまして」
一晩世話になった住職に見送られ、寺を出ると驚くべきことが待ち受けていた。今朝の災難があった通用門に逃げ出したはずの菊の愛馬が結び付けられていたのだ。
それは、間違いなく菊の馬だった。さらに驚くべきは背に載っていたアーサーの荷物はまったく手をつけられていなかったのだ。
「……すごいな」
アーサーは目を輝かせて黒毛の馬をなでる菊に言った。菊は馬に顔じゅうを舐められてもいやな顔ひとつしなかった。もちろん、二度と会えないはずの愛馬に再会することができたのだからそれは当たり前のことだ。
「荷物ひとつ盗まれていない」
「ええ。きっと先ほどの人たちです。お詫びのつもりでしょうか」
「お前の家のヤツらは本当に『礼儀正しい』な」
「そうでしょう、そうでしょう」
菊は隠しきれない笑みに唇を震わせた。「なんといっても私の家族ですから」
アーサーの露骨な皮肉は誇らしげな菊の顔に曇りひとつもたらさなかった。けれど、菊をやりこめられなかったことに少しもがっかりしなかった。
それどころか限られた仲でのみ交わされる親しげな感情が彼を包んでいた。
やがて、アーサーは含み笑いをもらし菊の背をたたいたのだった。
帰り道は拍子抜けするほど問題が起こらなかった。アーサーは褌ひとつで走る飛脚を見ても舌打ちをしなかったし、ずっと悪臭だと感じていた米の炊けるにおいも慣れればなんということはなかった。
つまり、彼はこの国の評価をだいぶ上方に修正していた。もしかしたら、アーサーの話しに目を輝かせる菊の存在がだいぶ影響していたのかもしれない。
街道は湿った地面から砂利で舗装された道に入っていた。周りの木々も道にせりでないよう適度な長さで伐採されており、ひどく人工的な道だった。沈みかけの太陽が二人の影を長く道に伸ばしていた。
横浜まであと一里の看板が見えたころ、アーサーは気分よく彼に話しかけた。
「お前には素質があるかもしれない」
「素質?」菊が不思議そうな顔で首をかしげた。
「そう。世界には素質を持って生まれたやつと、不幸にもそれを持たずに生まれたやつがいる。そして、お前は幸運にもそれを持っているんだ」
「私が?」
「ああ」アーサーはえらそうにうなずいた。
「だが、素質は持っているだけでは意味がない。イギリスは素晴らしい国だぞ。おれたちがここに来て、お前に文明のなんたるかを教えてやればすべてがよくなる」
「文明は発展だけをもたらすと?」
「当たり前だろ?」
沈黙。アーサーは菊が笑顔でうなずくことを期待したが、彼はそうしなかった。代わりに小さく首を横にふった。
「貴方は単純です」
アーサーは驚いて彼を見た。
「なんだって?」
「カークランドさん、貴方は少し単純かもしれませんよ」
「単純……おれが!? あのな、知らないかもしれないが、おれほど複雑な社会に生きて、勝ち続けているやつはいないんだぞ」
「もちろん、カークランドさんがこの世界の覇者だということはよく理解しています。そして、だからこそ貴方は単純なのですよ」
アーサーは気分を害した。彼は街道の真ん中で立ち止まると、燃えるような瞳で菊をにらみつけた。
「お前はおれを無感覚だと思っているかもしれないな。オーケー、それでいい。じゃあ言わせてもらうが、だったらどうした? おれの人生がお前にどんな関係がある?」
菊は彼の激しい視線を静かに受け止めた。そしてゆっくり首を横に振った。
「なにも。なんの関係もありません。けれど、そうなればいいなと願っています」
アーサーは混乱して口を開けた。菊はまるで新種のウィルスのように彼の心をかき乱した。菊はアーサーを批判したが、その瞳はまったく批判的なものではなく、むしろ温かさや労り――憐れみに満ちていた。
やっとのことで「おれは単純じゃない」と言い返したが、その声は本人でさえわかるほど言い訳がましかった。彼は親に褒められようと見栄を張った子どものような羞恥を感じた。
見下ろすと、新品の軍靴はいまや土や泥で汚れ見る影もなくなっていた。彼は静かな声で呟いた。
「まだ力を持っていなかったころ、おれは屈辱ばかり味わっていた。ルールに支配され、狭い領地に押し込められていた。まるでケーキを切り分けるように国土を奪おうとする賊が恐ろしかった。あのころの夢はいつかルールを生み出す側になって、それを破るヤツはおれの世界から永遠に追放できるような大国になることだった」
「そして貴方は実現した。……私を追い出しますか?」
アーサーはだまって、街道の石を蹴りとばした。小石は数度跳ねて彼らから数メートル離れた先に落ち着いた。彼は菊の質問にこたえなかったが、話しを続けた。
「そうだ。おれはおれの夢を実現した。大きな犠牲をはらって」
「犠牲?」
「孤独だ。おれは世界の頂点になったとき、信頼できる人間がだれもいないことに気づいた。おれは一人ぼっちだった。しかし、すぐにそうではなくなった。現れた義弟がおれの孤独を癒してくれたからだ。そして、恐れるものが一つ増えた。おれは義弟を失うのが怖くなった」
アーサーは何百年もの間だれにも言わず、心のうちにためていたことをぶちまけていた。彼の口調はいつのまにかひどく熱っぽくなっていた。
「ときどきおれは、あいつが憎らしくてたまらなくなる。つまり、それが誰かを愛するってことなんだ。あいつはおれに絶対的な力を持って君臨する。あいつは手を動かすだけでおれの感情を動かすことができる。あいつはいつでも好きなときに何度も何度もおれを傷つけることができるが、こっちは弱々しい葦みたいに傷つけられるだけなんだ!」
アーサーは深く息を吐いた。
「おれはあいつを傷つけたくなる。おれが感じるのと同じくらいの傷をあいつに負わせられるなら、なんだってしたいと思う。でも、一番腹立たしいのは、本当にそんなことが起きたら、自分自身が許せなくなるってことなんだ!」
アーサーは荒々しく叫び、我に返った。
――どうしてこんなことを、フランシスにさえ言わなかったことを、このちっぽけな東洋人にぶちまけてるんだ?
そしてたちまちのうちに後悔した。彼はおめおめと自分の弱みを書いた説明書を敵の手に渡してしまったのだ。
しかし、そのとき信じられないことが起こった。彼の背中を温かい腕が優しくたたいていた。アーサーは驚いて菊を見つめた。目が合うと、菊はだまって背中をさすった。
その瞳は励ましと慈しみにあふれていた。アーサーは胃のあたりがだんだんと温まっていくのを感じていた。目をつむり、やわらかいリズムに身をまかせ、ずっとこうしていたいと願った。
しばらくの間、街道を照らす夕日が二人の影をひとつに混ぜ合わせていた。