Apple of My Eyeact 009

 珍道中のひと月後、菊の家に大きな荷物が届いていた。茶色の油紙に包まれたその荷は両手で抱えるほどの大きさで、不規則な凹凸がいくつかの山を形作っていた。

「いったいなんでしょう……?」

 菊はその巨大な油紙を茶の間の長机のうえに置き、頭をひねっていた。

「祖国、自分が開けます」
「いいえ。だいじょうぶですよ」

 刀をとり、いまにも油紙を切りつけそうな青年を見て菊が苦笑した。まさか危険なものではないだろうが、これほど大きな荷物を家に、それも個人的な菊の屋敷に届ける人物に心当たりはなかった。

 一瞬、甘い煙草のにおいが蘇った。しかし、菊はそれを無理やり頭から追い出した。――彼ではない。ぜったいに。
 
 ではだれが?

 菊は深呼吸をして、油紙をはがしにかかった。それはなかの品物を守るためか、それとも単に梱包した人物の性格なのか、不器用な巻き方で厳重にくるまれていた。

 一枚をはがし、二枚をはがし、中身の全貌が見えてきたところで、菊の手が焦ったようになった。彼は途中から小刻みに震える手をようやく動かして、やっとすべての油紙を取り去ることができた。

「わあ、すごいなあ」

 後ろで青年が感嘆のため息をもらしたが、菊はそれを聞いていなかった。彼はひどく繊細な手つきで、イギリス戦艦に触れた。

 とても美しい砲艦模型だった。いまは、素直にそれを認めることができた。

 黒茶の船体に大きなマストが三本そびえ立ち、その頂点には鮮やかなユニオンジャックが掛っている。船尾には小さなランプとライオンの紋章。誇りと気品に満ちたイギリス蒸気砲艦ネメシス。

 菊は船尾のライオンの紋章を薬指で優しく撫でていった。

「さすが我らが祖国! エゲレスの方からこんな素晴らしい贈りものをいただくなんて! ご友人ですか?」
「いえ」菊は砲艦を見つめて、やわらかく笑いかけた。「いずれそうなれればいいと思っている方です」

 青年は目を丸くした。なぜなら長い間、菊のそんな幸せそうな顔を見たことがなかったからだ。彼の知っている菊はたいてい憂いをふくみ、いつもここではないどこかを夢見ているみたいだった。

 一瞬でも目を離せばそこに消えていってしまいそうな儚さ。しかし、いまになってはもう、それは過去のことだった。

「よかった……!」

 青年は思わずそうつぶやいた。そして、しばらくしてこうつけ加えた。

「恐れながら、祖国が寂しそうなお顔をなさっていたので、ずっとお慰めしたかったのです。それで自分なりに子どもの顔などお見せしていたですが、祖国にはご友人の贈りものが一番だったようですね」

「いいえ、とんでもない! まさか……」菊はそこで青年が笑っているのに気づいた。「ひどい人ですね!」

 菊はわざと怒った顔をして青年をにらんだが、その顔はすぐに笑み崩れた。二人はしばらくの間そうやって笑って続けた。

「私は幸せものです」

 笑いの発作から立ち直った菊が穏やかな声で言った。

「貴方がお子の顔を見せて下さるたび、そのようなことを考えていたなんて知りませんでした。きっと、いままでの私は自分のことばかりで、多くの優しさを見逃してきたのでしょうね。けれど、もう違います」

 菊は愛おしげな目つきで青年を見つめた。

「私もようやく守るべきものがあると気づいたのです。それは、とても大切な……」

 青年は子どものとき、母親がそんな目で彼を見つめていたのを思い出した。無償の愛で彼を包み、彼は全能感に酔うことができた。そして、母親が喜ぶことならなんだってやりたくなった。

 彼は菊に見惚れた。

「たぶん、貴方のおかげなのでしょう」

 菊は机に鎮座する立派な砲艦を見つめて、心のなかで礼を言った。

 だが、菊はいくつかのことに気づいていなかった。

 砲艦の横に重ねた油紙に、薔薇の紋章付きメッセージカードが隠れていること。
 カードのなかに欧州行きの旅券が挟まれていること。

 そして、彼が見つめる蒸気砲艦ネメシスこそ、二十年前、兄を撃墜した船であり、送り主でさえ無意識の束縛がその艦に含まれていることに。

 温かな夏の日差しが縁側から降り注ぎ、菊たちを優しく照らしていた。そして同時に、菊たちにイギリス砲艦の長い影を落としていた。

 そろそろ、太陽が頂点に昇る頃あいだ。


 午後三時半、アーサーはイギリス領事館の裏庭でアルフレッドとティータイムを(比較的)楽しんでいた。こと日本の地において両国領事館の不仲さは有名だったが、どうしても回避できない事案のために二国の領事は交渉を進めていた。その間、二人も顔を突き合わせていなければならなかったのだ。

 鉄製の白いテーブルには繊細な彫刻がされた美しいポットと黒いスコーンが載っていた。他にもアーサーが久しぶりに会う義弟のため準備したお菓子が山ほどあったが、彼はそれに見向きもせず持参したハンバーガーとドーナツばかりむさぼっていた。

「おい、デブ。お前、そのハンバーガー食事法で自殺するつもりかよ?」
「うるさいなあ。カビたカーペットみたいなお菓子を食べないからってすねないでくれるかい」

 アーサーは思わず顔を赤くした。アルフレッドはそれを見ようともせず、とつぜんなにか思い出したように顔を輝かせた。

「それより聞いてくれよ! ちょっと前、『彼』にスーパークールな最新式武器を送ってあげたんだぞ。もちろん、使い方を教えてあげる士官も一緒にね! いいことをしたあとは気分がいいよ!」
「『彼』って、お前ホンダに会ったのか!?」
「それがどうかしたかい?」

 アーサーは気まずそうに目をそらすと、聞き取りづらい声で言った。

「あいつ、おれのことなんか言ってたか?」
「珍しいね」

 質問には答えず、アルフレッドは彼を観察するような目で見た。

「きみがおれの交友関係に口を出さないなんて! それにきみはディックのことが気に食わなかったはずだろ。フランシスが言ってたんだぞ。旅から帰って来たらミイラ取りがミイラになってたって。どういう意味だい?」
「クソ髭の戯言だ。それよりディックってだれだよ。それを言うなら確か――菊だろ」

 その名前は妙にアーサーの舌になじんだ。まるでそう呼ぶのが自然だったような滑らかな響きに、彼は自分でも驚いて口をおさえた。

「気にいったのかい?」
「……わからない」アーサーは正直にこたえた。「いままでは、敵と味方しかいなかったんだ。でも、あいつはおれを批判したくせに、あいつの顔はおれを非難していなかった。それにあいつは……」

 菊の手のあたたかさを思い出し、彼は首を振った。

 夏特有の青くさいにおいを運ぶ風がふき、庭のコトリトマラズの枝を揺らした。コトリトマラズは幹や枝にするどい棘を持つ木で、二人の家ではその木はハチドリがよく巣をかける木として知られていた。

「よくわからないんだぞ!」

 しばらくの沈黙のあと、アルフレッドが肩をすくめた。

「そういえば、今度きみの家で開かれる万博に彼を招待したみたいだね。おれからしたら、きみはずいぶんとディックに入れ込んで、彼に優しくしたいように見えるけど?」
「それとこれとは話しが別だ」
「どういう意味だい?」
「未開の東洋の島国を世界中が注目する万博に引っ張り出す。それを成し遂げたおれの株はどうなる? もちろん……わかるだろ?」
「なるほどね」

 アルフレッドはあきれた顔でコーヒーをすすり、その濃さに顔をしかめた。

「この機に乗じて硬貨セットを借りだせば、長い間手を焼いてきた日本の貨幣制度のややこしさも取り除くことができる。つまり、この国から大量の金を絞り取ることができるってわけだ」

 アルフレッドの眼鏡の奥に奇妙な光がよぎった。それは決して彼の快の感情を表したものではなかった。しかし、一瞬のうちに無邪気な笑みがそれにとってかわったので、アーサーはその表情を読み取ることができなかった。

「ほら、やっぱり優しくなったじゃないか」
「……どこが?」
「自覚がないのかい? きみはもう彼の白い首筋にマルティニ・ヘンリーをつきつけて金を出させようなんて考えてもいないだろ」
「それは――」
「まあ、おれはきみがディックとどうなろうが関係ないけどね! でも彼、いったいどうやってヨーロッパまで行くんだい? 前にアメリカ船に乗ったとき、この国の人たちはみんなグロッキーだったんだぞ」
「問題ない。万博に出すついでにイギリスからヨーロッパを周遊させるからな。うちの海軍連中が舵をとるさ」
「……彼がそうしたいって言ったのかい?」
「いや? ヨーロッパに来るんだったら当然そうするべきだろ」

 アーサーはさも当たり前のように言って、紅茶を飲んだ。
 そのとき、ちょうど領事館の扉が開き、なかから針金のようにやせたイギリス人と風船のように肥えたアメリカ人が出てきた。

 アルフレッドは手を叩いてドーナツとハンバーガーのかけらを落としアーサーの準備したお菓子には一切手をつけず立ち上がった。

「きみは相変わらずだな! 気に入った相手を自分のポケットに入れようとする癖、どうにかしたほうがいいんじゃないか?」
「どういう意味だよ」
「相手の行動をいちいち支配したがるって意味さ!」

 裏庭にかん高い少女の笑い声が響いた。アーサーはひどいショックを受けて椅子から立ち上がることができなかった。

「じゃあ、おれは帰るよ! はっきり言うと、いま日本に来る暇はあまりないんだぞ。うちの南と北がちょっとうるさくってね、そろそろヒーローの出番さ!」
「待てよ、アルフレッド!」

 なんの未練もなく踵をかえした義弟をかすれた声で呼びとめた。アルフレッドはツタがからまる白壁の前で振り返った。

「なんだい?」
「おれはお前の家を呪ったが、本当になにか起きてほしかったわけじゃないんだ。少なくとも、お前にだけはなにも起きてほしくなかったんだ。……神に誓って」
「なんだいそんなこと。知ってるよ!」

 アルフレッドが明日は晴れだというのと同じくらい確信をもった声で言った。アーサーはそれが信じられなかった。

「なんでだよ、どうしてわかるんだよ! くそっ!」
“You know why ”

 アルフレッドは愛されるもの特有の傲慢な笑みを浮かべた。その笑みはアーサーや菊が決して浮かべることのできない類の微笑だった。彼は今度こそ踵を返すと、若さと快活さがあふれる足取りで門の外に出て行った。

 アーサーは一人、だれもいない裏庭に取り残された。彼はぼう然としたようにテーブルに肘をつくと、胸ポケットから取り出したハンカチに顔をうずめた。

 彼は間違いなくこの世界の覇者だった。しかし、この瞬間だけは敗者のように惨めな気分になっていた。

 だれかにこの惨めさをぶちまけたかった。彼を馬鹿にせず、彼の話しをきき、彼に優しい同意をくれるものに。
 
――でも、そんなやついるのか?

 アーサーは胃の奥に冷たい石が詰まっているような気分になった。それは、久しぶりに味わう孤独の味だった。

 けれど、彼はとうとつにある人物を思い出した。彼について考えをめぐらせると、胃の重さはどこかに消え、代わりに理由のない力強さがみなぎった。アーサーは消えた自信がみるみるうちに戻ってくるのを感じていた。

 頭のどこかでけたたましくアラームが鳴り響いていた。しかし、彼はそれを無視した。

 秘書官が彼を探して裏庭にやってきたころには、高慢そうなイギリス人が洗練された仕草で紅茶を飲み、タイムズを読んでいた。秘書官は己の主人の堂々とした態度に誇りを感じた。

 主人はアメリカという言葉を聞いたときだけ、彼らしくもない動揺をのぞかせたが、それ以外はすべてが完ぺきで、何もかも素晴らしかった。彼は秘書官に荷物を持たせ、弱さを微塵も感じさせない足取りで裏庭を出て行った。

 二人が去ったあと、くしゃくしゃに丸まったハンカチが、まるで隠されるようにテーブルの下に落ちていた。


 次の朝、菊はアーサーから送られてきた欧州行きのチケットを大切そうに見つめていた。彼の胸には未来の友人への期待や喜びに満ちあふれていた。彼から依頼された日本製の硬貨ひと揃いはすでに積み荷にのせていた。

 あとは、菊個人の荷物だけだ。久しぶりの外つ国への旅路を想像すると心が躍る。まして、アーサーは約束をきちんと守ってくれたのだ。

 薔薇の紋章が入ったメッセージカードの末尾には『次は本物を見せてやる。おれの家でな』と付け加えられていた。時候の挨拶や先日の謝礼などは流麗で美しい筆記体で書かれているくせに、その文章だけは不自然に角ばって、ところどころインクが滲んでいる。

 しかし、字は美しいがよそよそしい感じのする冒頭より、書き手のぶっきらぼうな優しさを伝える後半のほうが、菊はずっと好きだった。

 幸せそうにインクの滲みを撫でると、廊下が急に騒がしくなった。男たちの荒々しい声や鋭い金属音などが響いて、菊はとっさに傍らに置いてあった刀を掴んだ。

 そして、それは正解だった。

 音をたてて菊の襖が開き、そこから弾丸のように男が飛び出してきた。刀と不思議な形の剣が鍔迫り合いする音が客間に響き渡った。

「なかなかやるじゃねーか!」
「どなたですか!」

 大声で叫んだ菊に彼はにやりと笑いかけた。その笑みで菊はなにかを直感し、態勢を整えようとした。

「わきが甘い!」

 男の恐ろしく長い足が菊のわき腹を狙って蹴りつけた。一瞬、その恐ろしく自由な戦法に怯んだが、菊は素早く身体をひねってそれを避けた。

 しかし、男はその動きすら読んでいた。態勢をもちなおそうとしたときには、輝く刃が細い首にあてられ、男がそう望めば菊の首はいますぐ青々とした畳に落ちることになりそうだった。

 菊のあごから汗が伝い、畳に滴り落ちた。

「あばよ」

 客間にキンと高い音が響いた。そして同時に男の不敵な笑い声も。

「ばーか! びびってんじゃねー! 本気なわけねーだろ!」

 彼は腰に手を当てるとのけ反るようにして高笑った。菊は自分の首がつながっているのを確認して、思わず畳にへたりこみそうになった。

「おれ様はギルベルト・バイルシュミット! いずれクソ眉をぶっ殺して世界の頂点に立つ男だからな、名前を覚えといて損はないぜー!」
「ご親切にどうも……」

 直近で命の危機を感じた菊は一転、ひどく冷静な気持ちになっていた。そして、急速に頭痛のする頭をおさえて彼を見上げた。

「それで、バイルシュミットさまは本日どういったご用件で?」
「それはな」

 ギルベルトは猛禽のような目(驚くべきことにそれは紅玉のように真っ赤な瞳だった!)をゆがめて、菊のうえに屈みこんだ。

「お前、おれ様と条約を結びやがれ」

 彼の精巧なビイドロのような瞳に困惑した菊の顔が映っていた。瞳のなかの菊は、あっけにとられて、なにが起きているのか理解できないという顔をしていた。

 ギルベルトは肉食動物のような顔で菊を見下ろしたまま、ケセッと不思議な笑い声をもらした。

 これが遠い未来、菊が唯一信頼を置き、最期の戦いでは背中を預けることとなる師ギルベルト・バイルシュミットとの出会いだった。いずれ彼らは、お互いを語るとき欠かせない人物になるのだが、このときは自分たちがそんな親しみを持つ間柄になるとは想像もしていなかっただろう。

 そして『彼』の登場によって欠けていたピースがすべてそろい、菊の運命は動きはじめる。

 時代は、兄と二人きりの箱庭から、陰謀と謀略が渦巻く戦場に彼を運んでいった。