リツは、そっとロッジを抜け出した。クラスメイトの笑い声が響く廊下を抜け、がむしゃらに進むと、やがてなにも聞こえなくなった。
リツはため息を吐いて、板張りの廊下にしゃがみこんだ。都会と違い、ここには辺りを照らす街灯ひとつない。ただ真っ暗い闇が広がっているばかりだ。しかし、彼女はちっともこわくなかった。いまは、とある悩みで頭がいっぱいだったからだ。
(ニノミヤさんは、なんでわたしを目の敵にするの?)
クラスのリーダー、ニノミヤはリツをいつもからかっていた。そのため、せっかくのキャンプもひどく憂鬱なものになってしまったのだ。リツは足を抱えて、暗闇にぼんやり浮き上がって見えるクヌギを見据えた。
レクリエーション・タイムが終わるまで、ここでサボるつもりだった。
しかし、とつぜん、無遠慮な足音が廊下の奥から響いて来た。リツはあわてて立ち上がって、隠れる場所を探したが、すぐ見つかってしまった。
「なにやってんの?」
ニノミヤが、腕を組みこちらを見据えていた。
黒いキャミソールに、牡丹柄のマキシ・スカート。彼女は不愉快そうに目をすがめていたが、
その美しさは微塵も損なわれていなかった。
「お手洗いの帰り……」
リツは、震える声でこたえた。
「ウソツキ」
ニノミヤが鼻で笑った。
「便所なら、反対側だろ――いいよ。わかってるから」
「わかってる?」
「あいつら、バカっぽいじゃん。学校行事ではしゃぐなんて、小学生かよ」
「半年前、卒業したばかりだけどね……」
「うるさいな」
ニノミヤは舌打ちして、隣りに腰かけた。リツは意味がわからなかった。何故、部屋に戻らないのだろう。
彼女は人気者で、自分のようにレクリエーションが憂鬱になるなんてあり得ないからだ。
リツはうんざりして、立ち上がった。
しかし――
「どこ行くわけ?」
「戻らなくちゃ……。叱られちゃう」
「問題ねーよ。先生には気分が悪くなったって言っておいたから」
「ニノミヤさんが?」
「そう」
「――ありがとう」
ニノミヤは一瞬照れくさそうに頬を赤らめた。しかし、それをおし隠し、彼女らしい軽薄な笑顔を浮かべた。
「ねえ、あれ。なんだろうな」
「あれ?」
「クヌギの幹にいる白いヤツ」
「どれ?」
ニノミヤは舌打ちすると、リツを引き寄せ、目の前のクヌギを指さした。
それは、セミの羽化だった。古い身体を脱ぎ捨てたばかりなのか、小さな青白い灯が燃えているようだ。”彼”は悠然と身体を伸ばし、丸まった羽を広げていた。
「すごい……」
二人とも息をひそめて、それを見守った。この美しい光景を邪魔するのは、なにかおおいなるものに対する侮辱だと子ども心に感じたからだ。
リツは唇を舐め、今度こそ立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
ニノミヤが不機嫌そうに尋ねた。
「友だちに知らせるの」
「友だち?」
「夏生ちゃん。きっと喜ぶよ」
「駄目」
あまりに強い力でひっぱられたので、再びニノミヤの隣りに座り込んでしまった。彼女はリツの手を握り、甘い声でささやいた。
「これは、わたしたちだけの秘密にする――いい?」
「でも」
「リツ」
その声は穏やかだったが、底知れぬ恐ろしさがあった。やがて、リツは小さくうなずいた。その後、二人は長い間セミの羽化を観察していた。
ニノミヤは上機嫌な笑みを浮かべ、何度もリツに話しかけていた。しかし、相変わらずリツは怯えるばかりだ。彼女にはもちろん、ニノミヤの真意など想像もつかなかった。
つまり、ニノミヤの好意に気づかず、いつも通り彼女をおそれていた。ただニノミヤ自身、必死に自分の感情を見て見ぬフリをしていたので、それも当然のことだった。