東の魔女altruism

 突然、蛍光灯の灯りがついた。

 すらりとした少女は、迷いない足取りで六畳間にあがりこむと黄ばんだカーテンをおおげさに開けはなった。

 窓の外はあいにくの雨だ。鮮やかな傘を持つ少女たちが、肩を寄せ合い校門をくぐっていく。壁掛けの時計は、七時四十五分を指していた。

「夏生、いつから寮生になったわけ」

 二段ベッドの下で、がらがら声が言った。

「いまだけ見逃して――りっちゃん、今日も休み?」

 夏生は眉をひそめてベッドの柵に腰かけた。木の軋む音に丸まった布団は驚いたようにはねたが、結局背を向けたままだった。

「熱があるの」
「しばらく水分を取らなかったら熱が出るんだってね。どこでそんな知恵をつけてくるやら――そんなに学校、行きたくない?」
「……わかってるなら聞かないで」
「でも、今日は修学旅行のグループ決めがあるじゃない。友だち、困るよ」
「そんなのいない」

 リツはようやく布団から顔を出して夏生をにらみつけた。

 ほっそりして美しい輪郭に、たれ目がちの瞳、艶やかな唇。うなじを隠すほどのショートカットは、水泳のせいで色素が抜けている。

 彼女は相変わらず、心配でたまらないという顔でこちらを見つめていた。リツは自分が優越感を感じていることに気づき、恥ずかしくなった。

「二ノ宮さんのせい?」

 夏生が悲しげに尋ねた。

「また、いじめられてるの?」
「やめてよ!」

 リツは顔を真っ赤にした。

「べつにいじめられてるわけじゃないから。つまり……ええと、ちょっとからかわれたり、ヒソヒソ話しをされたりするけど、そんなのみんな経験するでしょ」
「――うん」
「いまはみんな二ノ宮の真似をしてるだけ。あいつが飽きれば、友だちなんてすぐできるわ」
「そうだね」

 夏生は優しく布団をなでてくれた。

「でも、いくらみんなが経験することだって、つらいでしょ」
「つらいなんてもんじゃない!」

 リツは布団をはねあげ、彼女をにらんだ。

「すれ違うだけで笑われるし、陰口も言われる。あいつのせいで、クラスメイトから遠巻きにされる! 悪いことなんかしてないのに……。なんでわたしばかりこんな目にあうの!?」
「りっちゃんと同じクラスならよかった……」
「そう?」

 リツはわざと意地悪な声を出した。

「どうせ夏生もみんなと一緒。二ノ宮に嫌われないよう、わたしを避けるんだ」
「そんなことしないよ」
「する」
「しない」

 夏生は布団を握る小さな手に自分のを重ね、リツの顔をのぞきこんだ。

「わたしがそうしないって、知ってるくせに」

 前より伸びた友人の髪から、リツは目をそらした。

「ごめん」
「わかってくれたらいいよ」
「そうじゃなくて……水泳やめさせて、ごめん」
「気にしないで。もともと高等部にあがったらやめるつもりだったし。去年のりっちゃん、見てられなかったもん」
「お人好し。誰にでもいい顔して、いつか大損するんだから」
「そうかも。でも、りっちゃんが一番だよ」

 その言葉に、リツは胸がいっぱいになった。夏生は別け隔てなく優しいが、自分は彼女の特別なのだ! できるなら今日はこのまま一緒にいて、慰めてもらいたかった。

「夏生、もしよかったら……」

 しかし、そのとき灰色の学生鞄――夏生のものだ――からバイブ音が響いた。彼女は申し訳なさそうに謝り、電話を取った。

 それが誰からか、リツにはすぐわかる。

 だから、夏生が困った風にこちらを見るのをあえて気づかないフリをして、剥げかけの壁紙をにらみつけていた。

「もう行けば。優等生が遅刻しちゃまずいでしょ」

 電話が終わったとたん、リツはとげとげしい声で言った。しかし、夏生は時計を見て首を振った。

「まだ五十分だもん。寮から教室は、五分あれば余裕だよ」
「そうかもね。でも、リリ子は心配でたまらないみたい」
「なんでわかったの?」

 夏生が大きく目を見開いた。

「当たり前でしょ。わたしはクラスから浮いてるけど、耳がないわけじゃない。あんたがまた――わたしみたいに――面倒な子に好かれてるって噂ぐらい聞くわ」
「リリ子ちゃんは、面倒な子じゃないよ」
「そうかもね。仲良しグループに横入りして、あんたを独り占め。リリ子の不登校を防ぐため席は隣りで、昼はあの子のワガママをきいて二人きりだけど、そんなの少しも面倒じゃないわね」
「りっちゃん」

 夏生が心なし冷ややかな口調でとがめた。

「そういう言い方、よくないよ――わかるよね」
「それは……」

 夏生の瞳は、軽蔑するようにすがめられている。それを見たとたん、リツの背筋がゾッと粟立った。

「わかってる。ええと、つまり、本心じゃないの。こんなこと言うつもりじゃなかった。でも、リリ子は今日ぜったいあんたに来てほしいはずだから……」
「今日? なんで?」
「もう!」

 リツは夏生の間抜けな顔を見て、もとの調子を取り戻した。そっぽを向き、爪をかみながら続けた。

「いい? 今日は修学旅行の班を決めるでしょ。あんたは休んだってどうにでもなるけど、リリ子はそうじゃないってこと!」
「どうして?」
「あいつにはあんたしかいないからよ!――わたしと同じように」
「そうじゃなくて」

 と、夏生は有無を言わさず二段ベッドの下に潜りこんできた。そして、リツの腕をむんずと掴むとボロボロの爪を見て眉をひそめた。

「どうして、いきなり怒り出すの?」

 灰色のカーディガンの間から鎖骨がのぞき、リツは素早く目をそらした。

「べつに、怒ってない」
「ウソ。りっちゃん、急にイライラし始めたよね。してほしいことがあるなら、ちゃんと言って。そうでなくちゃ、わからないよ」
「でも、リリ子が呼んでる……」
「いま、あの子の話しはしてない」

 夏生が抑揚のない声で遮った。

「りっちゃんは、どうしてほしいの?」

 リツは夏生から目をそらしたくてたまらなかった。しかし、彼女の視線には奇妙な力があり、そうすることを許さなかった。夏生に気圧され、リツは震える唇を開けた。

 そのとき、二人の間に再びバイブ音が響き渡った。夏生は目をそらして、ポケットから電話を取り出した。

 通話の間、リツのほうにも少女の泣きべそが聞こえてくる。

 リリ子は今どき珍しい瓶の底のようなメガネをかけた生徒だった。脂っぽい指で触れるせいで、分厚いレンズはいつも白く汚れている。おでこや頬はニキビで腫れあがり、とくに小鼻のものはよくいじってしまうらしく、頻繁に黄色い汁を出していた。

 彼女がニキビ面を歪めて、ブツブツ周囲に対する呪詛を吐く姿は醜悪を通り越し、ひどく不気味だった。

(あんな風にはなりたくない……)

 リツは親指を噛みながら、彼女をなだめる夏生から目をそらした。枕元のデジタル時計に、自分の横顔が映っている。頬がこけ、目がギョロギョロしている幽鬼のように醜い少女。リツは思わずそれを床になげつけた。

「わかった――うん、行くね」

 夏生は電話を切ると、勉強机に置いたままの鞄を取った。そのまま、足元に転がる時計を拾い、リツの枕元に戻す。

「行くって、どこへ?」

 三角座りのひざに顔をうめたまま、リツが低い声で言った。夏生は彼女を見たが、すぐ興味を失ったように視線をそらした。

「教室。さすがに走らなきゃ遅刻だね」

 夏生はそう言い、何の未練もなさそうに立ち上がった。そして銀色の丸いノブをひねったところ、無表情で振り返った。

「なに?」
「行かないで」

 リツは涙声で懇願した。

「リリ子に構わないで。ずっと一緒にいて……お願い」

 リツはなおも言い募ろうとしたが、再び夏生の電話が鳴った。取らないでほしいと言う願いもむなしく、あっさり電話に出てしまう。しかし、その間ずっと夏生はリツを見つめたままだった。その瞳は、どこか得体のしれない光を秘めていた。

「もしもし、リリ子ちゃん? 悪いけど、今日学校休むから。それとクラスではもう話しかけて来ないで。いつまでって――ずっと」

 電話口では混乱したようなかん高い声が続いていたが、夏生は容赦なく通話を切った。そして、青ざめたリツに向かって優しく微笑んでみせた。

「どうして……」

 リツはようやく震える声でつぶやいた。

「どうして、あんなことを言うの?」
「だって、りっちゃんはそうして欲しかったんでしょ」
「それはそうだけど……」
「りっちゃんのほうが、リリ子ちゃんより大事。さっきも言ったと思うけど、本気だよ」

――りっちゃんが、一番だよ

 リツは胸がいっぱいになって、彼女に抱きついた。桃に似た甘ったるい香りが鼻孔に広がる。夏生はリツをあやすように背中をゆっくりなでてくれた。

 その手の優しさに、リツは背徳的な喜びを感じた。夏生はリリ子よりリツを優先し、それを証明してくれたのだ。誰にでも公平で、八方美人のきらいがある夏生が!

 リツはいままで誰の一番にもなったことがない。そのため、可愛くて人気者の夏生に選ばれたことがうれしくてたまらなかった。リリ子への罪悪感や夏生への怖れを見て見ぬフリをするほど……。

 学校から八時のチャイムが響いてくる。校門がしまり、朝拝の始まる合図だ。リツは夏生に身を預けたままつぶやいた。

「……サボりだ」
「りっちゃんが、そうしてほしいって言ったのに」

 夏生は珍しくからかうような笑みを浮かべ、リツをのぞきこんだ。そして照れたように首すじに顔を押しつけるのを愛おしげに見つめるのだった。

「外、出る?」
「りっちゃんのヘロヘロじゃ無理だよ。それに、さすがに先生に見つかっちゃう」
「じゃあ、放課後になるまで出られないね」
「そういうこと――りっちゃんは、お水飲んで寝なよ。ずっとそばにいるから」
「本当?」

 リツが不安そうに夏生を見上げる。彼女はリツを安心させるように笑った。

「わたし、りっちゃんにはウソを吐かないよ」
「うん……」

 と言って、リツはボトルの水を飲んでベッドにもぐりこんだ。きっと夕方にはだるさも取れ、元気になっているだろう。夏生は安堵の息を吐き、窓辺に近寄った。

 空はどす黒い色に変わり、雨脚はますます強まっていく。窓越しに、ビニール傘をさして気だるそうに歩く二ノ宮の姿が見えた。そのとたん、音をたててカーテンが閉まる。

 夏生は、窓に額を強く押しつけていた。とび色の瞳の奥で、憎しみがマグマのように煮えたぎっていた――ずっと、いつまでも……