Tempora mutantur,et nos mutamur in illis
(時は移ろい、我々も時の移ろいの中で変わってしまう)
トイレを出ると、廊下に耀が立っていた。壁に凭れかかるようにして菊を睨んでいる。
「お手洗いはそちらですよ」
それだけ言って脇を通り過ぎようとすると、耀が無言で菊の腕をつかんだ。予想より強い力に顔をしかめる。
「我は、美國に負けないある」
「なにがおっしゃりたいのですか?」
「しらばっくれるんじゃねえある。お前は、哥哥のもとに帰ってきてもいいあるよ」
何のことだと訊きかけ、先ほどの会議を思い出す。経済的には良好な二国が唯一、そして絶対に交わらない議案がテーマになっていたのだ。菊は当然アルフレッド側なのだが、耀は自陣営に菊を引き込みたいのだろう。
「お前は昔から強いほうに頭を垂れるセコい奴あるが、言いかえれば時流を読める敏い子ある。いまなら、美國より我を選ぶほうが賢いとわかるよろし」
「ええ、まあ」
おざなりにうなずく。崖っぷちを抜けだしたとはいえ、いまだヒーローがピンチなのは変わらない。菊の家でも耀に乗り換えろという意見がないではなかった。けれど――
「謹んでお断り申し上げます」
「なんであるか!?」
「私はアルフレッドさんに与えられ、アルフレッドさんに搾取され、アルフレッドさんに守られています。あの人を切り離すことは、彼に依存した部分をも切り離すことになるのですよ」
「だから我がその代わりになってやるある。お前は昔みたいに哥哥に全部任せればいいあるよ!」
そう叫ぶ耀に菊は顔をゆがめた。
「義兄の靴を舐める弟がどこにいますか。貴方に搾取されるくらいなら、あの人に捧げたほうが百倍マシだ」
「やっぱり菊は美國のせいで変わっちまったあるな。この羅紗緬(らしゃめん)が!」
振り上げられた耀の拳を、菊の後ろからにゅっと伸びた手が受け止めた。肩に顎がのせられ、馴染んだ重みが菊を包んだ。
「耀、きみって徘徊の気があるのかい? ここのトイレ、きみの席からずいぶん離れたところにあるんだけど」
「黙れ、美國! 我は菊と話しにきたある。口を出すんじゃねえあるよ」
「だからお話しは結構ですってば」
「あれ。もしかして、いまとっても修羅場?」
そのとき、にやりと笑ったフランシスが顔を出した。アルフレッドはいやそうに耀の手を離し、ため息をつく。
「Hey! 冗談きついんだぞ。おれがトイレから出たら、そのおっさんが菊を殴ろうとしてたのさ」
「本当なの、キクちゃん?」
「そういう見方もできますね」
目を伏せる菊にフランシスはだいたいの事情を把握した。となると、耀を回収してさっさと退散するにかぎる。機嫌の悪いアルフレッドに近寄れるのは、アーサーか菊くらいだ。
「あらそう。じゃ、お兄さん耀と大事なお話しがあるから先行ってるわ。チャオ!」
騒ぐ耀の背中を押して、ホールに出る。振り返ると、暗闇のなかで彼らの輪郭がぼやけ、まるで一つの生きもののようにも見えた。
「離しやがれ、法國! どうして邪魔するあるか!」
フランシスだって好きで邪魔したわけではない。いまも彼を修羅場に残して、ナイスファイト! とけしかける誘惑と戦っているのだ。けれど、残念なことに耀は自分の上客だった。あの二人から妙な恨みを買って倒れられると結構困る。
「勘弁してよー。キクちゃんに喧嘩売ったらアイツが出てくるのわかってたでしょ。お前、日本に逆らわなきゃ死ぬ病気でも抱えてるの?」
「うるさいある」
ホールの出口がある回転扉まで来ると、ようやく耀も落ち着いたみたいだった。フランシスは彼の腕を離し煙草を勧めた。けれど無視されたので、仕方なく自分だけ火をつける。煙が、もやのように空中に広がった。
「菊は変わっちまったある」
「変わらない国なんてないだろ」
「とぼけるんじゃねえある! 美國に首輪つけられてから、菊は美國の狗あるよ。元々いけすかねえ弟だったあるが、あんな腑抜けじゃなかったある。我から弟を奪ったのは美國ある!」
フランシスは苦笑して耀を見つめた。
「キクちゃんは腑抜けじゃないよ」
「誇りを守る剣を捨てたやつは、腑抜けに決まってるある」
「確かに彼は剣を捨てたかもしれないけど、代わりに毒と牙を得ただろう」
そう指摘すると、耀が悔しそうに唇をかんだ。
「それでも菊が美國の靴を舐めているのは間違いないある」
「もしかしたら別のものまで舐めてたりして」
そう軽口を叩いたとたん、耀の蹴りが炸裂した。フランシスは間一髪で避け、はずみで煙草が床に落ちる。耀は不愉快そうにそれを踏み潰した。
「『西欧』は下劣なやつらばかりあるね。全員去勢でもしたらよろし」
そして鋭い目でフランシスをにらむと、振り向かず外へ出て行った。
「あーあ、これ結構高級品だったのに」
ただのゴミに変わった煙草を見下ろす。ふいにそれが半世紀ほど前の菊に重なった。再会したときの彼は、この吸殻と同じかそれ以上にひどいあり様だったのだ。
フランシスはもう少しで「そんな汚いの捨てちゃいなよ」と言うところだった。耀は口をおさえて部屋を飛び出し、イヴァンが珍しく真顔になって「それ、本田くん?」と尋ねる。
意外だったのは、坊っちゃんが出て行かなかったことだ。果実が腐ったような臭いのする部屋で、真っ蒼になりながらも菊から目を離さなかった。
アルフレッドが「やっと話せるようになったんだぞ!」と誇らしげに見せた肉塊は「あ」だか「い」だかわからない声をあげていた。正直言ってフランシスは、彼の頭がついにイかれたかと思ったものだ。
けれど、しばらくして会った菊は驚くほど回復していた。まあ、少なくとも人間の形はしていたのですっかり元通りだと思ったのだが、不思議なことにそうは思わないやつもいた。
「クソ野郎が」
菊と再会した悪友は撃ち殺したくてたまらないという目でアルフレッドをにらんだ。そして何故か、同じぐらい殺意をこめてアーサーのこともにらんでいた。
こと戦争においては、その出自もあって驚くほどドライな友人が激昂する姿を初めて見る。だから、彼らが消えたあと軽口に混ぜて尋ねたのだ。なぜそんなに怒るのかと。すると、ギルベルトは冷めた目で答えた。「本田がおれを名前で呼んだからだ」
その謎かけのような応えのあとは、いくらきいても決して答えてくれなかった。
きっと外見からは判断できない、極度にセンティメンタルな問題だったんだろう。
「あいつのファムファタルも、きっときみだね」
予想通り、アルフレッドの歪みは菊によってもたらされた。
そして菊の変化は、身近な友人にも少なからず影響を与えたように見える。
「いつか、きみがおれを変える日も来るのかな」
フランシスは吸殻を拾うと、携帯灰皿に入れパチンと閉じた。
バタンと大きな音を立て車のドアが閉まる。菊は頭を抱えてアルフレッドに言った。
「そんな往来に置いたら、路駐で切符切られますよ」
「Yナンバー(米軍関係者の使用車)で来たから問題ないんだぞ! きみん家のPoliceは思いやりがあるからね」
それはうちの国家予算を皮肉っているのですか。菊はため息をついて玄関のカギを開けた。勝手知ったるアルフレッドは靴を脱いで居間に走っていく。ぐちゃぐちゃになった靴を整え、菊は台所へ向かった。
「なんなんだい! このいかにもミルクみたいな飲み物は」
「ミルクですよ。あなたまだ未成年でしょう」
はっきり言うとちょっとした嫌がらせだが、菊は何食わぬ顔で日本酒をあおった。隣りでふくれっ面のアルフレッドがコップをにらんでいる。素朴な白熱光に照らされた横顔はいつもより幼く見えた。
「きみって、ときどき意地が悪いぞ」
「実にすみません。ところでアルフレッドさん、先ほどはよく言い返しませんでしたね」
耀が文句を言う間、近くにいた彼にその内容は筒抜けだったはずだ。さぞや怒るだろうと思ったが、意外にも反応は淡泊だった。そのことを尋ねると、むしろ不思議そうにアルフレッドが言った。
「きみは耳元でハエがうるさいからって、ハエに説教するのかい?」
「……しませんね」
「じゃ、そういうことさ」
菊は冷めた目で傲慢な白人がミルクを飲む姿を眺めた。彼にとって、アジアはすべてハエのようなものだろう。もちろん、菊も含めて。
「でも、ヒーローの友だちをいじめるやつは許さないんだぞ!」
「それは、私もアルフレッドさんの『友だち』ということですか?」
「当たり前だろ! 菊はおれのよき友人さ。懲りずにまた引きこもるつもりなら、何度だってドアを叩いてあげるよ」
「ありがとうございます」
思わず素で礼を言うと、アルフレッドがにっこり笑って菊の肩をたたいた。
「礼には及ばないんだぞ! きみがいないとおれの票が減るし、きみのために作ったごはんや機械が余っちゃうからね!」
「……ありがとうございます」
「それに、信頼できるやつがいなくなるのはきついんだぞ」
菊が顔を上げると、憂鬱そうな顔でアルフレッドがため息をついた。
「ヒーローだって、信頼する友だちには弱音を吐くのさ」
貴方は「友だち」を財布と読むのでしょうとは思ったが、結局菊はなだめるようにその背を叩いた。
大きな戦争を超え、これでもかと憎しみあった。あの頃の自分は彼と食をともにする日が来るとは思ってもいないだろう。そもそも最初は意識すらしていなかったのだ。
けれどいまは何をするにせよ、その指示を仰がねばいけないほど、彼は菊のすべてを握っている。それを目隠しの支配だと言う国はあったが、目覚めてすぐ、ひょいとチョコレートを渡された瞬間から、憎むだけの対象ではなくなってしまった。
それに菊はようやく歪な信頼を手に入れたのだ。アルフレッドとは兄弟でもなんでもないが、その極端な依存関係のせいで彼が沈めば菊も共倒れになるのは必須である。逆に菊が倒れればアルフレッドだって無傷ではいられない。
望んでこの関係を手に入れたわけではないが、ずっと欲しがっていた一方通行でない『信頼』が手に入ったのも事実だった。
「私も貴方を信頼してますよ」
「そうかい! じゃTPPの件は全部うちに任せてくれよ。ちなみに反対意見は認めないんだぞ!」
アルフレッドの理不尽な要求を笑ってながし、空のコップを持って廊下に出た。冷蔵庫のなかには、家主が絶対に飲まないコーラのボトルが入っている。