コーヒー色の目を見開いて、菊は声を震わせた。
齧りかけのリンゴを両手で持つ姿はどこかよわよわしい。こいつ本当に小せえなあ、とギルベルトは思った。
「どうして、あの方が……」
「そんなのこっちが聞きたいぜ。本田お前、くそライミーの弱みでも握ってんのか?」
「そんなわけないでしょう。あの方はお優しいから」
そう言った菊をギルベルトが笑い飛ばす。
「お優しいだァ? お前の隣国ヤク漬けにしたの誰だと思ってやがる。頭おかしいんじゃねーの」
ギルベルトの意見はもっともだった。かつて兄と慕った国を病ませたのは間違いなくアーサーだ。けれど、恐ろしい国だと聞いていても菊の前ではその危うさを一切見せなかった。それどころか北の大国と戦うとき、彼は一度だけ真実を教えてくれたのだ。
その戦争に菊は血反吐を吐いても勝たなければならなかった。あれよあれよという間に舞台にのせられ、気づけば余興のような扱いだ。アルフレッドはポップコーン片手にがんばるんだぞ! と無責任に菊を突き飛ばした。
彼は、この戦に負けたとたん菊から一切の興味を失くすだろう。そしてこの身体は、大国の好きにしゃぶりつくされる。菊を案じる国などなかった。口では応援しながら、皆自分が負けるのを期待しているのだ。
けれど、アーサーは少し違った。「お前なら勝てるさ」アルフレッドの前では綺羅綺羅しい笑顔でそう言ったくせに、帰りぎわ菊を会議室に引っ張り込んで、苦しそうに吐き捨てたのだ。「ばか、おれを信じるな」
それ以来、菊はアーサーを信用している。自国の利益にしか興味がないと思っていた『西欧』の見かたも少し変わった。もしかすると、アーサーとは国の利害を超えた友になれるかもしれないとまで思ったのだ。
「で、あっちのほうはどうだった?」
ギルベルトが内緒話しをするように菊を引きよせた。
「あっち?」
「ライミーのケツ」
「冗談ですよね」
菊はギルベルトの腕を払って言った。彼の悪趣味なジョークには慣れているが、自分が俎上にあげられるのはごめんだ。
「そもそも、なんで私がつっこむ側なんですか」
「おれ様の弟子が掘られるのは納得いかねー」
「掘るのだって納得いきませんよ!」
そう言うと、ギルベルトは鼻で笑って菊からリンゴの芯を奪った。そして、自然な動作で放り投げる。きれいな放物線を描いたリンゴは軽い音をたて、ゴミ箱のなかに落ちていった。
「うまいものですね」
「本田、おれ様と組め」
一瞬、なんと言われたかわからなかった。冗談でしょうと笑いかけ、ギルベルトの真顔に本気だと悟る。
「お前をルッツに紹介してやる。いまフェリちゃんの上司と交渉してるとこだが、そこにお前もねじ込む」
「待ってください。私はアルフレッドさんたちと同盟しているんですよ。師匠とは一応、緊張関係にあるんですから」
「それがどーした」
ギルベルトは険しい顔で菊をにらんだ。
「お前馬鹿か? あいつらと組んだって食いモノにされるだけなんだよ。フランシスくらい立ちまわりが上手かったら話しは別だが、いいようにカモられやがって」
「実にすみません」
「まったくだ。アホ弟子」
ギルベルトは菊の髪をかきまぜると、真面目な顔で言った。
「世界の流れがわかるか、本田。太平洋に進出するお前をあのヤンキーは煙たがっている。そう遅くないうちに『開国か、死か』みたいな無茶な要求つきつけるつもりだぜ。で、逆らうお前を『平和的な』解決を望まない悪の枢軸に仕立て上げチェックだ」
「なんでわかるんですか?」
「おれ様ならそうする」
あっさり言って、ギルベルトは肩をすくめた。
「ま、別にお前が上辺だけの仲よしごっこに満足してるなら止めねーよ。ゆるやかに滅亡したいなら好きにしろ」
蒼い顔で黙りこむ菊を横目で観察する。隠しちゃいるが、こいつはいつだって信頼する国を欲しがっていた。そんなもの幻想だと叱りつけても、現に一人だけはなにがあっても信頼できると譲らない。その相手がおそらくライミーだとわかって、ギルベルトは妙に腹が立った。
あの三枚舌野郎が菊の前だけ生娘の振りをするのに反吐が出る。いっそのこと海賊時代のやつがどれだけ騙し、犯し、殺しつくしたのかバラしてやろうと思ったほどだ。
けれど、あいつが(信じられないことに!)本気で菊に好意を持っているなら、これほどラッキーなことはない。菊と同盟を組んで、いざやつらと戦争になったらライミーの相手を押しつけようと思った。きっと体のいい弾よけになる。
と、軍人としてのギルベルトが囁くが、隣りの菊はどう見てもギムナジウムも出ていない少年――庇護しなければいけない対象――にしか見えなかった。それに彼が列強ひしめく舞台に登ったとき、ギルベルトは胸がすくような誇らしさを覚えたのだ。
そいつ、おれ様の弟子なんだぜと宣伝して周りたい気持ちを抑え、隠れて菊の情報が載った新聞を読んだ。イヴァンとの戦争のときはヤンキーライミーと舌打ちし、その意外な顛末には口笛を吹いた。悔しいことに、ギルベルト・バイルシュミットという個は本田菊を気にいってしまったのだ。
しかし、もうそうは言っていられない。菊はじゅうぶん成長した。しすぎてしまった。アルフレッドが警戒し、アーサーが困惑し、ギルベルトが目をつけるまでに。本田菊はすでに師匠ではなく、“ギルベルト”を出すまでの力を手にしているのだ。
だからもうギルベルトは、菊の弱さも甘さもとがめない。その代わり徹底してルートヴィッヒの弾よけにするつもりだった。彼はアーサーしか信頼していないのだから、ギルベルトが騙したって裏切ったことにはならないだろうと胸に言い聞かせながら。
――くそ。弟子なら、おれ様の意図ぐらいちゃんと見通しやがれ
過去にないほど胸くそ悪くなって舌打ちすると、菊が固い声でギルベルトを呼んだ。
「とても興味深いお話しだと思います」
「それで?」
「本国に持ち帰って、前向きに検討いたします」
「アホ。質問にはJaかNeinで答えろ」
「……Ja」
菊は居住まいを正すと、珍しくギルベルトを真っすぐ見た。
「きっと師匠も、なにか企んで私を利用しようとしているのでしょう」
「否定はしねーよ」
「しかし、どうせ利用されるなら信頼する方に利用されたいのも人情です」
「信頼?」
ギルベルトは思わず聞き返してしまった。
「くそライミーは信頼してねーのかよ」
「信用しております。けれど、残念ながらあの方を信頼することはできませんでした」
菊が複雑そうな顔で笑う。きっと日英同盟を廃し、四カ国で条約を結ぶとき何かあったのだろう。けれど、それでもギルベルトにはわからなかった。
「意味わからねー。おれ様は戦利品返せってお前に迫ったばかりだぞ」
「貴方は私の師です。師を信頼しない弟子などいるでしょうか? 貴方に教えを乞うた日から、私は貴方を信頼しております」
「シャイセ!」
罵り言葉が口をついて出る。こいつ、狙って言ってるならただじゃおかねえ。ギルベルトはやりきれない思いで天を仰いだ。さっきフランシスの野郎が引退してヤキが回ったんじゃねえかとほざいていたが、間違っちゃいないかもしれない。
このギルベルト・バイルシュミットが謀り事を放り投げるなんて。まったく、らしくない。
「待っててやるよ」
菊が驚いたように少し目を見開いた。
「お前を利用しようとしたのは事実だが、さっきおれ様が言ったのは真実だ。お前はいつか、やつらと対立するだろう。けど、あの中の一人を信じるっていうなら少し待ってやる。お前はおれ様と違って、まだ悪あがきができる位置にいるからな。……だが」
口を挟もうとした菊を遮って続ける。
「おれの予想が当たるまでだ。それ以降は、いくらお前が組みたいっつっても手を貸さねー」
「師匠」
ギルベルトは菊の鼻を弾いて笑った。
「安心しろ。弾よけにはしねーよ」
赤くなった鼻を押さえる菊を残して、ギルベルトは立ち上がる。時計を見るとあと三十分でフェリシアーノの上司と弟の会談が終わるところだった。今もどればじゅうぶん間に合う。
そこで、自分でもわからない理由で上機嫌になったギルベルトは菊に二、三アドバイスをしてやろうと振り返った。
「本田、やつには気をつけろ」
「フランシスさんですか?」
なんで変態の名前が出るんだよ、と言いかけ、そういえば結構いじめられていたなと思いだす。けれどあいつは国として全うな態度に出ただけだろう。はっきり言ってギルベルトがフランシスの立場で、かつ菊が菊ではなかったらもっとえげつない真似をしているところだ。
基本的に国同士は弱肉強食である。端的に言うと、弱い奴が悪いということだ。そう言うと、菊は不服そうにJaと言った。
「では、誰に気をつけろと?」
「くそガキだ」
「アルフレッドさん?」
菊が不思議そうに首をかしげた。
「確かに私は彼に嫌われていますが、気にするほどでしょうか。それならイヴァンさんのほうがよほど……」
「イヴァンは置いとけ。アルフレッドはな、戦争の勝ち方を知らないんだ」
そして、とギルベルトはため息ついた。
「おれ様はお前に戦争の負け方を教えていない。いいか、本田。くそガキと戦争になったら絶対勝て。じゃなきゃ、きっとヤバいことになるぜ」
それが難しいことだとわかっていながら、ギルベルトはそう言うしかなかった。どうしても嫌な予感が拭えないのだ。
櫻の上で観戦していたとき、アルフレッドの足と菊の足を繋ぐ縄のようなものが見えた。それは腐り落ちる前の無花果のような臭いを放つ赤黒い縄だった。きっと目の錯覚だ。それなのに、鼻をつくような腐臭がいつまでも消えなかった。
「わかりました。絶対にアルフレッドさんには負けません」
そう言って笑った菊を思い出し、ギルベルトは一生後悔することになる。奇しくも彼の忠告こそ、次の戦で菊を追い詰める最後の一手になったからだ。
「おう、それじゃあな」
「お元気で」
振り向かず手を振って別れを告げる。振り返らなくとも、ギルベルトの姿が消えるまで菊が頭を上げないのに気づいていた。
「Fide sed qui vide. 野心を持つのは結構だが、お前は優しさを失くすなよ」
まぶたを閉じると、はにかむように笑う姿が目に浮かぶ。優しさとは弱さだ、と過去の自分は言った。それはある面で正しく、ある面ではひどく間違っているのだろう。たとえば本田が自身を救ったのが信頼なら、ギルベルトが望んで不利になったのは自身の弱さなのだ。そんな損得でわりきれないものを優しさというなら、ギルベルトはすでに優しさを学んでしまった。
そして同じようにアーサーも菊からそれを学んでいるなら、ギルベルトは彼に賭けてもいい気がしたのだ。自分が菊に一歩譲ったように、アーサーが菊に譲るなら、きっと最悪の事態だけは免れるだろう。
ギルベルトは口笛を吹き、しびれを切らしているはずの弟の元へ向かった。
世界がすべて上手くいくように錯覚するほど、陽気の良い午後のことだった。