「はあ!? アルてめえふざけんじゃねえぞ! おれはいまお前とプレイしたばっかだろうが!」
「うん。でも、きみ手を抜いただろ?」
きょとんとした顔で言ったアルフレッドに息をつめる。もちろんそれは事実だったが、本人にバレているとは思わなかったのだ。
「だからキクとプレイしなよ。きみだって彼相手なら本気になれるだろ。身うちじゃないんだから!」
「ばーか、あいつは病み上がりだぞ。テニスなんかできるわけねえだろ」
「きみこそ馬鹿なのかい? そんなこと知ってるに決まってるじゃないか」
アルフレッドは本気で驚いたという顔をしてみせた。そして笑ってつけくわえる。
「それとも彼相手じゃ本気は出せない?」
そんなわけあるかと吐き捨てようとしたが、結局その一言を言うことはできなかった。
アーサーが最後に見た菊は、眼帯をつけ首まで真っ白な包帯でおおった姿だ。いままでありがとうございました。そう言って畳に頭をすりつけるむなしい菊だ。
これからの世界は彼にとって辛いものになる。アーサーたちと違って、彼は一度の敗北も許されない。きっと、一度負けたときが失墜のはじまりだ。いつもなら負け犬めと鼻で笑って皮肉の一つも投げている。けれど、そのあまりの痛々しい姿にアーサーは目をそらすしかできなかった。
「少々、よろしいですか。アルフレッドさん」
「わおキク! きみって、しゃべれたのかい!? てっきりアーサーお気に入りのひじ置きだと思ってたよ!」
菊はそれを笑って流すと、アーサーのほうへ向きなおった。
「お気づかい誠にありがとうございます。けれど、だいぶよくなりましたので、よろしければおつきあいくださいませんか」
「別に。おれが疲れただけだぞ。勘違いするな」
「はい」
和服の名残りか、軍服でも口元を隠して笑う菊に目をそむける。いっそのこと責められたほうが百倍マシだと思った。
「お前、なかなか鬼畜だよねえ。お兄さん驚いちゃったよ」
顔を洗ってベンチに座ると、背もたれに肩ひじをついたフランシスが口笛を吹いてきた。
「なんのことだい?」
「またまたー、しらばっくれちゃって。キクちゃんとアーサーをけしかけたでしょ」
しつこい追及をかわして、コートで打ち合う二人を見つめる。ゲームは始まったばかりで、お互い様子見のゆるやかな打ち合いだった。予想外なのは、菊のフォームが案外きれいだったことだ。それに序盤とはいえアーサー相手に少しも引いていない。
「キクちゃんって見かけによらず、運動神経がいいんだね」
「確か、きみんとこの三バカその一にしごかれたって話しだろ」
「ああ、ギルベルトのこと。いいかげん名前くらい覚えなさいよ」
「覚える価値があることなら覚えられるんだぞ」
アルフレッドがさしむけたこととはいえ、コートを走り回る菊は息をきらしがらも楽しそうだった。お遊びのような打ち合いを本当にお遊びだと思っているのだろうか。なら、少しかわいそうだなと思う。
ふいに、アーサーの気配が変わった。菊の返した球を即効で打ち返し、一瞬でスマッシュを決める。その突然の切り換えに菊は困惑したようにアーサーを見ていた。彼はさきほどまでの気だるそうな顔ではなく、ぞっとするほど殺気だった雰囲気をまとっていたのだ。
「ありゃ、坊っちゃんが本気だしたわ。なんでいきなり?」
「知らないんだぞ」
「まったく、これじゃキクちゃんのストレート負けは決定だよ。アーサーのやつ、おとなげないな」
アーサーがラケットごしに人さし指をちょいちょいとふった。
『来いよ』
菊はそうして打たれたサーブを全力で打ち返した。アーサーに煽られ好戦的な表情になる。コートのなかは一瞬のうちに力強いサーブの応酬へと変わっていた。
「……うっそー。あの子うまいじゃん」
驚くことに菊はアーサーと互角にやりあっていた。そういう意味での嫌がらせだと思っていたフランシスは、さぞや悔しがっているだろうとアルフレッドをうかがった。しかし意外にも冷静に観戦している。その初めからわかっていたような態度と力まかせにサーブを打つ菊のフォームがフランシスの琴線にひっかかった。
「ねえ、もしかしてキクちゃんって意外にパワー型じゃない?」
「さあね」
「おれ、あの子に似た打ち方するやつをついさっき見たばっかなんだけど」
「年のせいかい? 幻覚でも見たんじゃないか」
コートから目を離さずにアルフレッドがこたえた。
「ならいいんだけど。ねえ、お前から見てどうよ。あの二人、どっちが勝つと思う?」
「きみの手に乗るつもりはないんだぞ。変に勘ぐらないでくれないかい」
木で鼻をくくったような返答に内心肩をすくめた。
(これが本当の『正解』だよ、キクちゃん)
まんまとひっかかった極東の友人に語りかける。自分のような国の言葉に惑わされるくらいなら、最初から聞かないほうがずっとマシだ。真か嘘か、判断できないうちは無視するのが正解。アルフレッドは意識してるのかどうなのか、そのへんの判断はいつも絶妙だった。
「ねえ、前から気になってたんだけどさ、お前ってキクちゃんのこと嫌いなの?」
「なんだい、藪から棒に」
「だってこの条約の話しもお前が持ってきただろ。それにずいぶんキクちゃんには当たりが強いし」
「だって彼、悪者じゃないか」
不機嫌そうにアルフレッドが言い返す。
「ヒーローは二人もいらないんだぞ。おれが真のヒーローなんだから、彼はニセモノだね。つまり悪者さ!」
「……そういうこと」
てっきり義兄が菊にとられたとかいう愚かで可愛い理由を予想しただけにため息がもれた。良くも悪くもアルフレッドは歪んでいない。長い間生きていると、辛いことや悲しいことに山ほどぶつかる。そして国である以上、他者を陥れなければ立ち行かないこともあるのだ。だからこそ騙しあい憎しみあい、そしてときどき手を結んでフランシスたちは生きていく。歪みも後悔もない生など自分たちにはありえない。
けれど、アルフレッドは違う。どっかの馬鹿が手塩にかけて育てたあげく、『優しさ』とやらで独立を許してしまったのだ。
国である以上、いつか彼も歪みと後悔を知る日が来るだろう。フランシスはなぜかそれが菊によってもたらされる気がしてならなかった。義兄が手を引き、列強の椅子につかせた菊がアルフレッドのファムファタルなら、その結末はどんなものになるのか。フランシスは密かにそれが現実になる日を見てみたいと思っていた。
「なあアルフレッド、お前戦争の『勝ち方』って知ってるか?」
けれど、結局その答えを聞くことができなかった。コートにお待ちください! という菊の声が響いたからだ。
見ると、アーサーがスーツの上を持ってこちらに戻ってくるところだった。アルフレッドがいぶかしげにたずねる。
「どうしたんだい? 試合はまだ終わってないだろう」
「飽きたんだよ。帰る」
アーサーはすげなくそう言い放つと、菊を振り返りもせず歩いて行ってしまった。
「いったい何があったの?」
あわてて走ってきた菊を引きとめたずねると、彼自身困ったように眉を下げた。アーサーの気まぐれはいつものことだが、こと菊の前では、その傍若無人さを見せるのを控えていたのだ。なおさら、何かあったのか気になる。
しかし、アルフレッドは興味なさそうにあくびをして「お腹が減ったんだぞ!」とさけんだ。
「お腹が減っちゃ、頭も働かないだろ。アーサーのことは放っておいて、ハンバーガーでも食べに行こうよ!」
「なるほど。つまり貴方は慢性的に空腹なのですね」
「HA-HA-HA ! そうかもね! ヒーローはお腹がすいても鯨(ともだち)を食べたりしないのさ!」
あまり豊かではない表情でもいま菊が怒っているのがわかる。フランシスは内心頭を抱えた。さっきのやりとりで彼の性格は把握したつもりだったが、まさかアルフレッドに喧嘩を売るとは思わなかった。
フランシスやアーサーにつっかかるより、アルフレッドに逆らうほうが百倍まずいと彼は理解していないのだろうか。忘れているようだが、いまやアルフレッドはフランシスやアーサーを抜いて最も繁栄する国なのだ。
「まあまあ、こいつの言うことだって一理あるよ。坊っちゃんの気まぐれなんていつものことなんだからさ、気にしないでお兄さんとデートしよう」
「ありがとうございます。お言葉は大変うれしいのですが、桜があまりに美しいので、少し花見をしていこうと思います。せっかくお誘い下さったのに申しわけありません」
「ああ確かに、綺麗な銀色だもんね」
フランシスはにやりと笑って、コートのわきに生えるソメイヨシノを見上げた。菊が気まずそうに目をそらす。
「じゃあまた。あとで坊っちゃんのご機嫌うかがいでもしてあげるよ」
「ありがとうございます」
と菊は頭を下げて公園を出て行く二人を見送った。その姿が完全に消えると、頭をあげ不機嫌そうにソメイヨシノをにらむ。
「なんでこんなところにいるんですか。師匠」
しばらく桜の枝が揺れたあと、音もたてずに銀髪の青年が飛びおりてきた。
「おれ様のせいじゃねえだろ。うちで、これ見よがしに会合なんて開きやがって」
そういって菊をにらみつけ、ギルベルトは不愉快そうに舌打ちした。
「座れ」
「なんですか。話しをそらさないでください」
「おれ様が座れって言ってるんだ。つべこべ言わず、座れ」
なかば本気の声音にけおされベンチにつく。ギルベルトはそれを見て満足そうにうなずくと、ここで待っているよう言って公園を出ていった。そしてしばらくしてビン詰めの水とリンゴを抱えて帰ってきた。
「ほら、食え」 と真っ赤に熟れたリンゴを押しつけてくる。
「ありがとうございます」
菊はおとなしくうなずくと困ったように首をかしげた。
「師匠、包丁がありません」
「そのまま食うんだよ!」
ギルベルトはため息をついて、乱暴に菊の隣りに座った。
「お前、相変わらずどっかずれてるよなー」
「かもしれません。実はさっきもアーサーさんを怒らせてしまって」
途中まではなかなかいい勝負だったし、なにも問題はなかったと思う。それなのに、試合が終盤に近付くにつれ、アーサーはどんどん不機嫌な顔になっていったのだ。
「気づかないうちに、粗相をしてしまったのでしょうか」
そのときにゅっとギルベルトの手がのびて、菊の首をしめあげた。
「おれ様の前でくそライミーの名前を出すなアホ弟子! いまはアとかサとか、聞くだけで腹が立ってくるぜ」
「そういえば師匠のお家、借金が大変なことになっているんでしたっけ?」
「ああ、そうだよ。誰かさんのせいでな!」
鼻を鳴らして、菊の頭を小突く。さきの大戦ではアーサーに誘われ、菊もギルベルトの敵として参戦していたのだ。その件を揶揄されたのだが、彼の軽口のせいでそこまで罪悪感を覚えることはなかった。これもギルベルト自身から学んだことだ。欧州では敵になったと思えば味方になり、そしてまた敵になる。一時の敵味方をひきずるほうが馬鹿らしい、らしい。
とはいってもそれは西欧の習いだ。ようやく列強に並んだとはいえ、極東の島国にその習いは適用されない。彼の国との同盟破棄が、すなわち友情の切れ目になってしまったと落ち込まずにはいられなかった。
暗い顔でリンゴをかじる菊を見てギルベルトは舌打ちする。
「おい本田、ちょっと聞け」
「アーサーはキクを庇ったんだぞ」
と、ビン詰めコーラをラッパ飲みしながらアルフレッドが言った。
菊と別れてからホテルで自堕落にすごそうとしていたフランシスだが、腹減ったとうるさいアルフレッドに負け、近場のカフェに訪れていた。
フランシスはコーヒー、アルフレッドは不満そうな顔でクーヘンを頼む。しかし一口食べた彼は「なんだこれ! ぜんぜん甘くないんだぞ!」と叫び、店内でおおいにひんしゅくを買っていた。フランシスはどうにか話しをそらそうと、さっきの『事件』に水を向けたのだ。
「え、なにそれ。どういうこと?」
どうせ頓珍漢な答えだろうと思っていたフランシスは思わず身を乗り出した。
「だから今言っただろ。腐れアーサーはキクを庇ったんだぞ」
「誰から?」
アルフレッドは不貞腐れたようにコーラを飲みほした。
「まさか、お前から?」
「くたばれ、フロッギー!」
座った目をするアルフレッド。フランシスは内心自分に舌打ちしていた。正直言って、アルフレッドから菊を庇うという結論がどこから出たのかわからない。人の機微を読み取るのが得意だと自負していたぶん、この状況は不愉快だった。
「でもキクちゃんを守るためだからって、なんで試合放棄?」
「フランシス、気づいてなかったのかい?」
意外そうな顔でアルフレッドが言った。
「キク、だいぶ体調が悪そうだったじゃないか」
「うっそー!?」
そう言われて思い出しても、菊の顔色が特別悪いとは思えなかった。相変わらずフランシスたちの前では気を張っていたし、むしろアルフレッドに喧嘩を売る程度には元気よく見えたのだ。
「きみって鈍いんだなあ」
追い打ちのようにため息をつかれ、ショックで死にそうになる。よもや生きているうちに自分が「鈍い」なんて言われる日が来るとは思わなかった。しかも、あのアルフレッドに。
「キクちゃんは、あのゲームでアーサーに勝ってはいけなかった。そうだろ?」
アルフレッドは無言でクーヘンにフォークをつきさした。
「で、お前のことだから負けたとしても別に罰ゲームを用意していた。なにを用意していたにせよ、体調が悪いキクちゃんにそれをさせるわけにはいかない。だから、いち早く気づいた坊っちゃんは『飽きた』って言ってお家に帰ったわけね」
なるほど、どっちも選ばなかったってことか。中途半端な坊っちゃんらしい手だ。ようやく事態を飲み込んだフランシスは、にやりと笑ってアルフレッドを見つめた。
「それで、お義兄ちゃんの決断を弟くんはどう思うのかな?」
「弟じゃないよ。やめてくれないか」
「あらら、怒らせちゃった? ごめんね」
不愉快そうにこちらをにらむアルフレッドに意趣返しができたと腹のなかがすっきりした。「鈍い」の言葉は意外にむかっ腹に来ていたらしい。
「お前らがプレイしている間、キクちゃんとしゃべってたんだけどさ、アーサーのやつ本気で彼のこと気にいってるみたいね。かわいい子だとは思うけど、あいつが今まで足げにしていた国となにが違うのかね」
「さあ、知らないよ」
「ねえ、アルフレッド。老婆心で忠告してあげるけど、一人をずっと見つめ続けるのと、ずっと目をそらし続けるのは同じことなのよ」
「なんだい、それは? またきみは訳のわからないことを言うんだな」
気味悪そうな顔のアルフレッドにウィンクを一つ。意味がわからないなら、それでいい。フランシスが意地悪く期待する未来がこの青年をどう歪ませるのか、そもそも菊は彼のファムファタル足り得るのか一抹の興味はある。そして同時に、弱点を増やしたアーサーがこの先どうなるのかも気になった。
おそらく近い未来、菊とフランシスたちは敵になる。そのとき、情にとらわれた坊っちゃんはいったいどんな顔で菊を切り捨てるのか。そして、先ほどまで対等の『友人』だったアジア人はいったい誰に首輪をつけられ支配されるのだろうか。
コーヒーの表面にひどく冷めた瞳をした自分がうつっていた。