最初に衝撃が来た。次の瞬間、ぬかるんだ泥土が濁流のように全てを押し流した。日暮と繭見を……。
未曾有の大地震が起きた日、日暮たちは秋合宿でG県のキャンプ場に訪れていた。
到着してすぐ、日暮は同室のリーダー、繭見に薪拾いを命じられた。彼女は日暮を目の敵にしていて、苦しめる機会を決して逃さない。
そういうわけで、後に信州大震災と呼ばれる地震が起きた時刻、日暮は里山のぬかるんだ斜面を登っていた。
意識が戻ると、日暮は右足の激痛と一筋の明かりもない暗闇にパニックを起こしそうになった。それを抑えたのは、自分以外の誰かの気配を感じたせいだ。落ち着いた呼吸音が響いていた。
「そこにいるのは誰?」
樹の根に挟まれた足が焼けるように痛んだが、日暮は相手を見つけるために伸び上がった。
「日暮、やっと起きた」
暗闇のなか、気だるげなハスキーボイスが響いた。
「繭見さん?」
「そう。日暮、スマートフォンと食料を持っている?」
「ごめんね、スマホはロッジに置いたままなんだ。食べ物は……」
日暮はポケットを探ろうとしてギョッとした。左手の感覚がなかったのだ。そのうえ、ベルトで拘束されているかのように足を動かすことができなかった。
「無駄なことをすべきではない。日暮の手足は動かない」
繭見は皮肉っぽく言った。そして、スマートフォンを操作する気配がして周囲が明るくなった。
「何これ……」
日暮は思わず息をのんだ。左腕が雪崩れた巨木の根に絡まり、右足は膝まで泥に埋まっている。土砂の上に出ている部分――ふくらはぎは瓦礫に挟まり、青紫色に鬱血していた。
何より問題なのは、足があり得ない方向に曲がっていることだ。そのせいで、日暮は呼吸するたび襲ってくる痛みと戦わねばならなかった。
「動くな」
あわてて腕を抜こうとすると、繭見がぴしゃりと言った。
「ここは、土砂崩れで流された樹の根が絡まってできた空間。いまは偶然バランスを保っている。もし均衡を失えば……」
日暮は腕を動かすのをやめた。それを確認し、繭見は電気を消した。
「電池を節約する。電波が復旧したとき、外部と連絡が取れないと困る」
「そ、そうだね」
沈黙。日暮は正面にいる繭見の気配をうかがった。
(繭見さんは落ち着いてる。塾の頃と一緒だ……)
かつて、日暮と繭見は同じ塾に通っていた。隣り同士で授業を受け、同じF女学院を志望し、いつも一緒に行動した。
塾の人間が、二人を切り離して思い出すことはないだろう。繭見の傍にはいつも日暮がいて、日暮の傍にはいつも繭見がいたのだから。
しかし、F女学院に入学して二人は疎遠になった。多くの生徒が、国会議員の娘で美しい繭見と友だちになりたがったのだ。
それに比べて、日暮は母子家庭で顔だちも良くない。加えて、F女学院の生徒の大半は、私立の中学校を卒業しており、公立出身の日暮が浮くのは当然だった。
その頃から、繭見が嫌がらせを始めたのだ。取り巻きにノートを盗ませたり、連絡事項を知らせなかったり。
日暮は、繭見が変わった理由を知らない。再び仲良くしたいとも考えなかった。ただ、放っておいて欲しかった。
「セミヤドリガ」
「えっ、何て言ったの?」
「セミヤドリガがいる」
繭見は平坦な声で答えると、スマートフォンの明かりを向けた。日暮のうなじ辺りで、首をひねらなければ見えない位置だ。その土壁で、おびただしい数の白い虫が密集して死んでいた。
「やだやだやだ! 取ってよう!」
「何故?」
繭見が楽しげな声で言った。
「セミヤドリガは、セミに寄生する昆虫。幼虫の間、ヒグラシやミンミンゼミを宿主にする。一か所に集まって死ぬ意味がわからない。何らかの原因で、セミに寄生できなかったのか、地震の前兆だったのか……」
「理由なんてどうでもいいよ! とにかくどこかにやって、お願い!」
「何故?」
苛立たしげな声。しかし、日暮はその口調に気づけなかった。寄生虫への嫌悪で頭がいっぱいだったのだ。
「気持ち悪いからに決まってるよ!」
「宿主を見つけられなかった虫に、何も感じない?」
「早くあっちにやって!」
日暮は泣きながら繰り返した。すると、繭見が乱暴な仕草で寄生虫の群れを投げ捨てた。
「日暮はセミヤドリガ。繭にはわかるのに、何故理解できない? そうなれないのは、想像力が乏しいせい?」
「どういう意味?」
「おばあさんを食べた狼は、おばあさんに成り替わる。お前も食べれば、理解ができる?」
暗闇のなか衣擦れの音がして、繭見が近づいて来た。彼女は日暮の横に座ると、恋人のように肩を抱いた。
そして、無理やり顎をこじ開けた。
「ほら」
繭見が入れたのは五センチほどの泥玉だ。咥内で独特のえぐみが広がった。涙を流して泥玉を飲みこむまで、彼女は決して手を離さなかった。
「理解できた?」
日暮は震えながらうなずいた。そして、この仕草では繭見に見えないと気づくと、震える声で「はい」と言った。
「ならいい。繭は擦過傷だけだから、日暮と違って好きに動ける。自分が何者かわからなくなったら、また言うといい」
「……ありがとう」
そこで、日暮はどれほど自分が嫌われているか理解した。しかし、その理由はわからなかった。何故、繭見は自分を目の敵にするのだろう……。
とはいえ、動機が何でも、救助が来るまで、彼女はいくらでも自分を痛めつけることができるのだ。
いまや、日暮の命は繭見が握っている。
急に吐き気がこみ上げてきて、日暮はふやけた泥を吐瀉した。その中に、白い甲羅がいくつも混じっていた。