「おはよう、日暮。二日目になった」
繭見が機嫌のいい声でささやいた。従順になったとたん、彼女はかいがいしく日暮の世話を焼いた。貴重な水を分け与え、ハンカチで激しく痛む足首を固定してくれた。
事故の前、彼女は何にも関心がなく、教師にさえ軽蔑の視線を向けていた。だからこそ、あからさまに優しい姿は不自然で、触れられるたび背筋が粟立った。
「喉が渇いたはず」
ペットボトルを開ける音。干乾びた喉に唾が湧いた。本能は水を欲していたが、日暮はある理由でそれをねじ伏せた。
「だいじょうぶ。いらない」
「何故?」
「だって……」
――言い訳を考えるための沈黙
「もったいないよ。水は貴重だから、大切に飲んだほうがいいと思う」
「繭が考えなしだって言いたい?」
冷やかな声。日暮の脳内で赤信号が灯った。
「そういうわけじゃないけど」
「日暮は、いまの百倍も惨めになる可能性がある。そうならないのは、繭が大切にしているから。惨めな方が楽しいなら考慮する」
「ち、ちがうよ」
日暮は咄嗟に繭見の冷えた手を掴んだ。昨日一日で、親密な行動を取れば彼女が優しくなるのに気づいていた。
「水がなくなったら、繭見さんも困ると思って……」
「繭が心配?」
しばらくののち、繭見は爪が食いこむほどの力で握り返した。
「そう。日暮は繭が好きだから……」
その声があまりにうっとりして聞こえたので、日暮は勘違いしてしまった。繭見は自分の状態に気づいていないと思ったのだ。
しかし、悪魔のように狡猾な彼女は敢えて見逃していた。結局のところ、自分を頼るしかないとわかっていたから……。
数時間後、いよいよ我慢できなくなって日暮は足を擦り合わせた。暗闇のなか、隣りに気配が移って来るのがわかった。柔らかな手が何気なく日暮の腹に触れた。
「どうかした?」
「なんでもないよ」
「そう」
彼女は自然な仕草で下腹を押した。気づかれているのか? しかし、さっきは上手く誤魔化せたはずだ。日暮の米神から脂汗が流れ落ちた。
「少し離れてもらってもいいかな……気分が悪いの」
「想像に難くない。排泄を耐えているから」
「ちがうよ!」
しかし、その声はあまりに震えていて信ぴょう性がなかった。身体は既に限界を訴えていた。
「とにかく離れて。じゃないと、ひどいことになるの」
「構わない」
「わたしが構うんだってば!」
とたん、繭見が腹を強く押した。日暮は抵抗したが、朝から酷使し続けた括約筋はあっさり彼女を裏切った。
ガスの抜ける音が響いて、糞尿がぶちまけられた。ドームのような狭い空間に、卵の腐った臭いが充満する。
そのうえ、繭見が一部始終を観察しているのだ。あまりに惨めな状況に日暮はすすり泣いた。
「どうしてこんなひどいことをするの?」
「ひどい?」
心の底から不思議そうな声だった。
「意味が分からない。人間は必ず便をする。それにここにいるのは繭だけ。恥ずかしがる必要はない」
「恥ずかしいに決まってるでしょ! それに、無理やり……させられて。こんな状況でもわたしをいじめて楽しい!?」
「いじめていない。我慢は身体に悪い」
繭見は平たい調子で言うと、日暮のスカートに手をかけた。
「今度は何!?」
「汚れたままでは不衛生。処理する必要がある」
「やめてよ。お願いだから、放っておいて……」
しかし、繭見は日暮を無視した。
泣きじゃくる彼女から下着を剥ぎ取り、衣装を整えると、汚物を手際よく処理した。アナルを拭きながら、繭見はパッヘルベルのカノンを口笛で吹いた。サビの部分に辿りつくと、そこばかり憑かれたように繰り返していく。
「いまの日暮は胎児に似ている」
口笛の合間、繭見が目を輝かせてつぶやいた。
「生まれる前に、胎内で排便する子どもがいる。彼らは便に汚染された羊水を飲んで苦しむ。でも……」
無償の慈しみがあふれる微笑。
「繭がいるから、日暮は幸せ」
美しい旋律が、糞尿臭い暗闇に響き渡った。
日暮は耳を塞ぎたかった。そして、いますぐ五感を閉じ、自分がどこか別の場所にいると想像しようとした。
そうすれば、湿った手が身体を暴いていく感覚をやり過ごせるはずだからだ。しかし、鼓膜の内でカノンが狂ったように鳴り、甘美な感覚が彼女を現実に引き出した。
「わたしはだいじょうぶわたしはだいじょうぶわたしは……」
日暮は絡み合った根を見上げながら、自分が得体の知れない怪物に食われていくのを感じた。
――三年前 真夏の夕方。
黒い切妻にいまどき珍しい石造りの家から、おさげの少女――日暮が飛び出してきた。彼女は迷わずクレマチスが茂る裏庭に走って行くと、大人の背丈ほどあるレンガ塀をよじ登った。
出っ張ったレンガに足をかけて下を覗くと、艶やかな黒髪の少女が塀にもたれて本を読んでいた。
日暮は、予想が当たったことに優越感を抱いた。彼女を見つけるのは自分の役目だ。先生は彼女がいないのに気づくと、必ず日暮を呼びに行かせる。塾で唯一、彼女に授業を受けさせることができる存在だからだ。
日暮は彼女に憧れていた。だからこそ、仕事を任せられるのが誇らしかった。塾生たちの嫉妬を理解していたが、気にならなかった。
何故なら、誰とも話さない彼女が日暮とは話してくれる。何の取柄もなく、つまらない日暮と!
「繭見さん!」
日暮は大声で叫んで、塀から飛び降りた。見事に着地してみせると、彼女が横でため息を吐いた。
「またお前?」
繭見は本から目をそらさなかった。
「答えはノーだから」
「まだ何も言ってないよ」
「言わなくてもわかる。祖父がお前をよこしたってことは、授業が始まったってこと。繭はここで勉強するから戻らない。早く帰って」
「いくらお家が塾だって、庭じゃ勉強できないもん。先生も待ってるから、教室に行こう」
「お前とは頭の作りがちがう。本があれば、どこでも学べる」
「じゃあ教室でも勉強できるでしょ!」
繭見の腕を引いて起立させようとしたとき、鉄格子に絡むツルバラに目がいった。昨日まで紫がかったバラが咲いていたのに、そのほとんどが散っていた。
格子の下の地面は、花の絨毯みたいだ。しかも、近づいてよく見ると花弁だけではなく、花そのものも落ちている。それらは全て、茎の途中から断ち切られていた。
「誰がこんなひどいこと……」
日暮はおぞましい執念を感じて肩を抱きしめた。
「下品な塾生。お前を尾けてここを見つけた。繭が目障りだけど、手を出せないからバラを切った。繭は痛くもかゆくもないのに。理解に苦しむ」
「わたしの後を尾けて?」
「そう」
繭見は視線を本に向けたまま答えた。
「繭は裏口のカギを持ってる。他にここへ来る物好きは、お前だけ」
「そんな……」
日暮は再び無惨に散ったバラを見つめた。そうしていると、頭の中に想い出が蘇り、自然と涙が溢れてきた。
悲しみはますます膨れ上がり、どうすればいいかわからなかった。
「何故泣く? バラが切られても、お前は痛みを感じない」
「だって、わたしのせいだもん」
「常識的な人間は、他人の花を剪定しない。犯人は最下層の人間。お前に責任はない」
「でも、記念のバラだったのに!」
黒真珠のような瞳が丸くなるのを見て、日暮はうつむいた。
「このバラのおかげで、繭見さんと話せた。切られちゃったら悲しいよ」
「あのときの……」
繭見はバラを拾って丁寧に泥を払った。
「お前はこれをダリヤと勘違いした。だから訂正した。これはローズ・ポンパドゥール。四季咲きで一年中大輪の花を咲かせる。耐病性が高く、香りも強いため、園芸家の間では人気の品種」
「何を言っても無視してたのに、いきなり捲し立てるからびっくりした」
「うるさかった」
「ひどいよ!」
繭見は肩をすくめた。それから、何気ない仕草で日暮の耳に大ぶりのバラをかけた。
「お前に挿すと美しさが際立つ。花瓶の才能がある」
「繭見さん!」
日暮は怒ってさけんだ。しかし、繭見はいつもの飄々とした顔ではなかった。間違えて塩を舐めたような渋い表情だ。そのとき、日暮の胸にある思いつきが生まれた。
それは希望的観測だったが、不思議と真実だとわかった。
「もしかして、慰めてくれた?」
「思い上がるべきではない。繭はお前が泣いても構わない」
「いまのは、後でちゃんと笑わせてあげるって意味!」
「つき合いきれない」
鬱陶しそうな舌打ち。彼女は今度こそ本気で日暮を無視した。しかし、隣りに座ると、無言で日陰を空けてくれた。実際、繭見は心優しい少女なのだ。だからこそ、日暮は心配だった。
しばらくののち、イバラを上っていく虫を見つめながらつぶやいた。
「嫌がらせのこと、また先生に言わないの?」
「祖父に言っても解決しない」
繭見はページをめくりながら言った。
「放っておけば、そのうち飽きる」
「でも、それまでの間、迷惑するでしょう」
「構わない」
「やっぱり、好きだから?」
突拍子のない質問に繭見が顔を上げた。
「犯人が好きだから、繭見さんは怒らないの? 好きな人を叱りたくないから……」
「意味がわからない。ふつう、倫理は好悪で量らない」
「ふつうじゃないとき!」
日暮はもどかしくなって叫んだ。
「わたしなら本当に好きな人を怒れないよ。その人はわたしに何をしてもいいって思う。怒ってもいいし、八つ当たりしてもいいし、傷つけてもいいの。本当に好きになったら、そうなっちゃうよ!」
「誰?」
「何が!?」
「いまの話ではお前に好きな相手がいるように聞こえる。繭の知り合い?」
「繭見さんには関係ないよ!」
「うるさい」
繭見は見た目に似合わない力強さで、日暮を捕らえた。その瞳は飢えた獣のように輝いていた。
「繭は急に不快になった。消えろ」
「なら、離してくれなきゃあ……」
「いやだ」
断固とした声。しばらくののち、彼女は日暮の肩に顔を擦りつけた。
「繭に何をした? お前に好きな相手がいると考えたら、心臓が石になったよう」
「何もしてないよ」と、日暮は繭見を抱擁した。繭見の子どもっぽい嫉妬が嬉しく、悲しかった。どれほど頭の回転が早くても、彼女は人を好きになったことに気づかないのだ。
日暮は親のような気持ちになって、繭見に愛情をあげたいと思った。
たとえば、ストーブの温もり、眠れない夜のホットミルク、抱きしめてくれた母の体温……。
「わたし、繭見さんが一番好き」
勇気を出して言うと、腕のなかの彼女が震えた。
「でも、繭見さんを好きな人は沢山いる。嫌がらせをしている人も、本当は仲良くしたいの。やり方がわからないだけ。みんなすごいお家の人ばかりで、お友だちにはぴったりだよ。わたしなんかよりずっと……」
「他人は関係ない」
繭見が煩げに遮った。
「それより本当? 繭が本当に好き?」
「……好きだよ」
「ずっと一緒にいたい?」
「いたいよ。でも、繭見さんは、すぐわたしに飽きちゃう……」
「面倒くさい」
繭見は低い声でぼやくと、日暮の顎を掴んで視線を合わせた。
「お前は繭が好き。一緒にいたい。繭は許す。何の問題が?」
「それは……」
日暮の頭の中に様々な問題が浮かんだ。しかし、それを言うと繭見に呆れられそうで、俯くことしかできなかった。
その様子に、繭見は地の底まで届くような息を吐いた。髪をかき上げ、ビー玉のような瞳で日暮を見つめた。
「お前は繭と共に在ることを望んでいる。違う?」
「そうだよ。でも、世界で二人きりにでもならない限り無理だよ」
「無理なものか」
彼女らしくない感情的な声だった。
「それがお前の望みなら」
言葉の意味を考える前に、繭見が噛みつくようなキスをした。
「繭は約束を守る。たとえ、お前が傷ついても」
「わたしは傷つかない」
額を合わせながら、日暮はつぶやいた。その言葉が繭見にとってどれほど重みを持つか考えずに。
「だって、あなたが好きだもの」
親指で、繭見の頬を優しく撫でた。彼女は目を丸くすると、クリスマス・プレゼントをもらった子どものように微笑んだ。
長い時間、二人は一つの生き物のように肩を寄せ合って座っていた。繭見の腕は日暮の肩に回り、彼女を独り占めしているようだ。日暮も繭見の首にもたれかかって、うっとり目を閉じていた。
一匹のヒグラシが飛んでくると、格子にとまって鳴き始めた。透き通った翅の下にそれぞれ、白い繭を付けている。繭見は日暮を抱き寄せたまま、寄生されたセミを熱心に見つめた。
「セミヤドリガ」
と、繭見は日暮を起こさないようにつぶやいた。
「幼虫のうち、メスのヒグラシに寄生することが多い蛾の一種。寄生主の体液を吸って成長する。しかし、宿主を殺すほどの養分は奪わない。生かさず殺さずの関係」
繭見は何故こんな虫が気になったかわからなかった。
もしかすると、自分と日暮の関係に似ているからかもしれない。彼女は繭見を好きだと言った。本当に好きならば、何をしても許すとも。
つまり、セミとセミヤドリガのように共に居るためなら、日暮に何をしても構わないのだ。
繭見にとって、彼女はどうでもいい存在だ。それでも、日暮に愛されている事実は不思議と気分を高揚させた。
しばらくののち、太陽が沈んで、辺りが暗くなった。月は厚い雲に覆われている。やがて、激しい風が吹き始め、夜半には嵐に変わっていった。