長い夢を見た気がした。しかし、大抵の夢と同じように目覚めると全てを忘れていた。それにどんな悪夢でも、現実よりはマシに違いない。
日暮はほこりっぽい唇を舐め、乾燥で裂けた傷から滲む血液を味わった。
「五日目になった。おはよう」
悪夢そのものが唇に触れ、血を啜っていた。
彼女はエロティックな仕草で血を舐めると、黄色い水が入ったペットボトルを日暮の口に含ませた。
「ろ過した泥水に尿を交ぜた。水分の排出はできるだけ抑えるべき」
日暮は機械的に口を開けた。きついアンモニア臭が鼻をついたが、素直に嚥下するとあやすように撫でられた。
当初おぞましく感じていた接触も、もはやどうでもよかった。自分を分断する術を覚えたからだ。
繭見に触れられるのはもう一人の自分で、本当の日暮はヴェールの向こうでそれを眺めている。だから、繭見が愉しげに『アレ』をするときも、悦んでいるのはもう一人の自分であって日暮ではない。
そう感じるうちは、正気の内に留まっていられる。しかし、二人を分けるヴェールが薄くなりつつあるのが問題だった。
「こぼしている。相変わらず、お前は愚鈍」
言葉とは裏腹に、繭見はいそいそと日暮の口を拭った。二人ともキャミソール姿で、レースごしにやわらかい乳房が日暮の胸に押しつけられた。
「繭がいなかったら、きっと日暮は死んでいた。繭がいてよかった?」
日暮は分離したもう一人がうなずくのを感じながら、地下の状況を俯瞰した。母の胎内のようなドームで、樹の根に囚われたおさげの少女と彼女に跨る美少女。
傍らで、脱ぎ捨てた服がおざなりに積み重なっていた。
ふと、おさげの少女の足元に埋もれた花が見え、日暮は『もう一人』へ強制的に引き戻された。
紫色の多弁の花だ。泥の間から覗く部分だけでも、その美しさは際立っていた。日暮は誘われるように花を手に乗せ、悲鳴をあげて投げ捨てた。
何枚も重なった花びらのなかで、白いサナギが死んでいたのだ。
「時期が来ると、セミヤドリガはセミから脱落し、マユを作り、やがて羽化する」
繭見は愛おしそうに花弁を拾い上げると日暮の耳にかけた。
「成虫はセミから得た栄養だけで生き延びる。寿命は短いが、その期間に処女生殖して産卵する」
ふっと息を吐くような笑い声。
「でも、日暮は離れる必要はない。繭は望みを叶えた。これからは、ずっと一緒」
そう言って、日暮の脂っぽい髪に口づけた。
このときの衝動に、なんと名前をつければよいだろう。ただ、日暮の肌は総毛立ち、全身に怖気が走った。この狭い空間で、死ぬまで繭見と共にいるなんて想像するだけで狂いそうだった。
「いや!」
日暮はすっかり衰えた声帯を酷使して叫んだ。
「やだ! お母さん、お父さん! 助けて!」
「日暮、静かに。シィー」
「触らないで!」
日暮は無我夢中で、繭見を振り払った。
そのとき、どこかから犬の鳴き声が聞こえてきたような気がした――もしかしたら、助けが来たのかもしれない。
そう考えると、いままでどこに隠れていたかわからないほどの力が漲った。日暮は絡まる樹の根に構わず、無茶苦茶に手足を動かして叫んだ。
「助けて! ここにいる! ここにいます!」
「やめろ。世界に二人きりでいられなくなる」
「いやだ、気持ち悪い! 誰かあ!」
土砂の上から人の声がした。繭見は口を塞ごうとしたが、日暮は彼女を突き飛ばし、しゃがれ声で居場所を知らせ続けた。
「日暮、何故? 何故、繭が好きなのに裏切る?」
「好き!?」
日暮は泣きながら怒鳴った。
「好きですって!? ここで死ね! 二度と顔も見たくない!」
繭見の顔が驚愕に歪んだ。そして、みるみるうちに蒼白になったが、日暮はもう彼女を見ていなかった。頭上で低い機械音が響き始めたのだ。
そして、ドームの頂点が崩れると、まばゆい日光が差しこみ、うずくまる二人を照らし出した。
――三か月後
F女学院の外廊下は、大理石でできた柱が一定の間隔で並んでいる。
柱の間からグラウンドが望め、廊下のつき当たりは大ホールへ上る階段に繋がっている。 外から、パターゴルフを楽しむ中等部生の歓声が響いて来る。
支柱が冬の日に照らされ、石畳に黒い影を落としていた。
ある少女が、息を弾ませながら廊下を駆けて来た。片手に小ぶりの花束、焦った顔で大ホールを目指していた。
しかし、立ち並ぶ支柱の一本を通り過ぎようとしたとき、細い手が伸びて、柱の陰に彼女を引きずり込んだ。
しばらくののち、姿を現したのは先ほどとは別の少女――繭見だった。
涼やかな目元に薔薇色の頬、ふっくらした唇。髪は黒檀のようで、うなじの辺りで短く切りそろえていた。彼女は床に落ちたカスミソウを見下ろすと、執拗に革靴で踏みにじった。
もちろん、代わりは用意してある。繭見は大輪のローズ・ポンパドゥールを抱きしめた。床に落ちているものよりもずっと立派な花束だ。
これを見れば日暮も拗ねるのをやめ、素直に好きだと言ってくるだろう。
繭見はそれが愛だと知らないまま、彼女を深く愛していた。日暮が自分を嫌悪しているとは少しも考えなかった。そうするには、彼女の心が耐え切れなかったのだ。
大ホールの階段を下りると、グラウンドから十二月の冷たい風が吹き込んで来る。日暮はコートの襟を立て、身体を丸めた。
「寒いけど、雪が降らなくてよかったわ」
マフラーをきつく巻き付けていた友人が励ますように言った。
皮肉なことに、あの地震がきっかけで日暮には友人ができた。土砂崩れから奇跡的に救出された少女のニュースは、全国的に報道された。
繭見の親が国会議員であるというのも世間を賑わせた原因の一つだろう。この件で、彼女の父親は復興大臣に就任した。
しかし、親の昇進とは逆に繭見の立場はどんどん追い詰められていった。
あの土砂崩れのとき、二人の間で何があったのか、校内で下世話な噂が流れたのだ。もちろん、初めは取り巻きも相手にしなかった。
しかし、繭見が日暮に執拗に付き纏う姿を見て一人、また一人と彼女から離れていった。
今や立場は逆転し、繭見がクラスの爪弾き者だった。
「本当に転校するんだ。やっぱり、あの人のせい?」
友人の目は隠しきれない好奇心に輝いていた。
「……ちがうよ」
日暮はできるだけ哀れに見えるようにうつむいた。
「彼女は関係ないの。ただ……」
「ただ?」
「この学校にいる限り、事故のことが頭から離れないの。本当に彼女は関係ないんだよ」
「わかってるわ」
友人はしたり顔でうなずいた。彼女は繭見の暴行のせいで日暮が転校すると思いこんでいる。きっと数日のうちに憐れな日暮の様子を言いふらしてくれるだろう。
そのことを考えると、日暮の胸に残酷な喜びが湧き上がった。
「……まだみたいね。準備が遅れてるのかしら」
友人は白い息を吐きながら、薄暗い廊下を見回した。
エントランスまで続く石畳は静まり返っている。ときどき、グラウンドから少女の歓声が響いてくるだけだ。
日暮は彼女にならって辺りを見回し、花瓶とその横に置いてある剪定鋏を見て顔をしかめた。ピンクパープルのバラが見事に生けられている。
その花びらの裏で、白い虫が密集して死んでいる……。
「どうかした?」
「ううん」
日暮は不快な想像を打ち消し、腕時計に目をやった。
「それより、誰か来る? バスが出る時間だから行かなきゃあ……」
「ちょっと待って! 花束を渡したいのよ! 授業の間、後輩に預かってもらってたの。きっとすぐ来るわ」
「花束だなんて……」
日暮の頬が赤く染まった。
「――うれしい」
「渡してもいないのに喜ぶんじゃないわよ。あーあ、サプライズのつもりだったのに!」
「じゅうぶん驚いたよ。ありがとう」
「ならいいけど」
彼女はそっぽを向き、小声でつけ加えた。
「離れても友だちだから」
「うん」
「一緒にはいられないけど、心はそばにいるわ」
わたしも、と言おうとしたとき、「ようやく来た!」友人がはしゃいで手を振った。
「ほら、あの子がわたしの……」
しかし、その声は尻窄みになり消えてしまった。
柱の陰から現れたのは、紺のワンピースにピーコートを着た美しい少女。
――繭見が凄まじい怒りの形相で近づいてきていた。
「底辺の人間が日暮を誑かすな」
彼女は乱暴に友人を床に突き飛ばした。
「日暮が望むのは繭だけ。日暮の友だちは繭だけ。日暮が好きなのは繭だけ。お前のような底辺が入り込む隙はない!」
「底辺ってどういう意味よ。わたしが買った花束はどこ!?」
「あんな下等品」
繭見が鼻で笑った。
「底辺にはお似合い。しかし、日暮にはいつも繭が相応しい」
彼女は凍りつく日暮に恭しく花束を差し出した。
「ローズ・ポンパドゥール。繭たちの記念の花。入学してから、底辺を唆してお前を虐げた。ずっと不安だった? 心配する必要はない。あれは、世界で二人きりになるため、必要な行為。日暮が嫌ならもう辞める」
「どうして?」
日暮は首を振って後ずさった。
「何?」
「どうしてここにいるの? 今日のことは先生と友だちにしか話してないのに……」
「教師などどうにでもなる。それより、いくら繭の気をひくためとはいえ、退学は辞めるべき。転校先はここより下品。けれど、それがお前の望みなら、もちろん繭も共に行く」
再度花束を向けられ、日暮は反射的に振り払った。
床に散った紫の花弁が、忘れようとした体験を蘇らせる。
薄暗い地下と、怪物との淫らな行為。大量に死んでいた白い甲虫……。
あまりの嫌悪に、何故繭見が自分に執着するのかという冷静な思考は失われた。繭見はどこまでもついて来る――おそらく、生きている限り。
沈黙。
いつの間にか、少女の歓声は聞こえなくなっている。代わりに、どこかの教室から カノンの繰り返しの旋律が聞こえて来た。
柱から漏れる日光に反射して、塵が輝く。そして、まるで道標のように、花瓶を照らし出していた。日暮は剪定鋏を掴むと、勢いよく繭見の胸を刺した。
「消えろ!」
ぬめり気のある血液が、みるみるうちにネズミ色のコートを濡らしていく。繭見は驚いた顔で日暮を見たが、それはすぐ幸福そうな微笑に取って代わった。
「日暮は賢い。これこそ、永久に二人でいる方法」
「死ね!」
刃を突き立てる。
「繭はこの方法を選べなかった。繭はお前を傷つけることができない。でも、お前はいくらでも繭を傷つけて構わない」
繭見が倒れたので、日暮はその上に馬乗りになって何度も鋏を振り下ろした。
「だってね、繭はお前が――」
日暮は鋏からおそるおそる手を放した。
組みしいた死体は動かない。つまり、繭見は死に、自分の人生から永遠に排除することができたのだ。日暮は大喜びで拳を突き上げた。その瞳は、狂気に彩られている。彼女の心は三か月前の地下に逆戻りしていた。
「わたしは自由よ! でも、あんたはそこにずっといるの! 暗くて狭い地下に一人ぼっちで!」
しかし、急に彼女のヒステリックな声が途切れた。日暮は中空を見つめ、怯えたように唇を振るわせた。何度も「どうして!?」「来ないで!?」と繰り返し、何かから逃れるように走り出した。
そして、ホールに向かう階段の途中で足を踏み外した。しばらく、落ちていく日暮の悲鳴が聞こえたが、やがて砂袋が落ちるような音がして、静寂が戻った。
礼拝堂に突然、真っ青な顔の少女が飛び込んで来た。そして、とんでもない告白をした。
しばらくは、思春期特有の揶揄いだと思っていたのだ。しかし、いまにも倒れそうな様子に、これはただ事ではないぞと悟った。牧師は少女に毛布を与えると、急いで礼拝堂を出た。
途中、地の底から響くような絶叫が聞こえ、彼の背筋は粟立った。不吉なことが起きていると第六感が告げている。そして、その予感は血まみれの外廊下を見たとき、現実に変わった。
どこかで、パッヘルベルのカノンが響いている。
階段の下では、おさげ髪の少女が死んでいた。怪物でも見たかのようにカッと目を見開き、口から舌がはみ出ている。
もう一人は、血の池の真ん中で、あお向けになって倒れていた。身体の周りに沢山のバラの花弁が散っている。
まるでミレーのオフィーリアだ。しかし、彼女は求めていたものを手に入れたかのように美しく微笑していた。
「神よ……」
牧師は口を押さえて少女から目をそらした。彼女の穏やかな微笑みが、何故か一番おぞましい。
チャペルの鐘が鳴り、悲鳴を聞いた生徒たちが集まって来る。彼はその場に立ち竦んで、死体を見た少女が悲鳴を上げるのをぼんやり聞いていた。