こいこいっ!act 001

二二〇五年 一月 竹橋


 呉あやめは、窓硝子に映る自分の顔にため息をついた。茶色っぽいくせっ毛につり目がちな瞳。唇はいつも不機嫌そうな感じで、頬にはそばかすが散っていた。

(去年は、もうちょっと薄かったのになあ)

 彼女は、めいっぱい書き込んだノートにひじをついて教室のなかを見渡した。誠実さを重んじる女学校らしく、昨今では珍しい自然素材(ナチュラル・マテリアル)が使われている。

 天然のカシでできた机と椅子が惜しげもなく並び、床には汚れないよう特殊加工を施したヒノキが張ってある。人口素材はいっさい使われていない。これが、武蔵の国で最もノーブルな学校の象徴なのだ。

 前の席では、松園葵とその取り巻きが小野早苗に丸めた紙を投げて笑っている。先生が席を外している間、いじめられっ子の早苗をからかっているのだろう。裕福な家の出身で美しい葵は、子どもながらにそれを上手く利用していた。

 そのとき、彼女たちの投げた紙があやめの頭にぶつかった。紙を広げると、早苗の丸文字で板書の内容が書かれている。あやめは、それが早苗のノートの一部だとすぐわかった。

「ちょっと、松園さん」

 葵は振り返ってあやめを見ると、一瞬気圧された顔をしたが、すぐそれを隠した。

「なに?」
「わたしたち、もう十二歳でしょ。子どもっぽい真似はやめなさいよ」
「ブスがなにか言ったわ!」

 くすくす笑い。
 あやめは無視して、葵をにらみつけた。

「うちがあんたの家の何倍大きいか、知ってる? 召使が何倍いるかは?」

 くすくす笑いが小さくなる。

「答えは、十倍よ。うちにはものすごくお金があるから、思い通りになる召使もたくさんいるの。わたしを侮辱したら、召使に命令してあんたをひどい目にあわせてやる!」
「脅したってこわくないわ。お金持ちより美人のがずっといいもん」
「ばかね」

 あやめは鼻で笑った。

「つまり、あんたの自慢のお顔を阿吽像そっくりにするのも、すごーく簡単なの」
 葵の顔が恐怖に引きつった。勝利を感じて胸がすっとした。あやめは強い。だから、口げんかではだれにも負けないのだ。

「まあ、あなたたち何をしているの?」

 歴史の先生が帰ってきて、あやめたちを見つけた。二人を見比べ、自分の立場をすぐ明確にした。

「呉さん、早く席につきなさい。松園さんは教科書を音読してくれる?」
 
 葵が裏切られたような顔で先生をみた。そして、顔を真っ赤にしてあやめをにらんだ。

「一九四五年、日独伊三国は第二次世界大戦に勝利し……」

 葵の声が教室に響くなか、早苗が振り返ってこちらを見ていた。

 (すごいって思われたかな)

 あやめは誇らしげにうなずいたが、彼女は不愉快そうに顔を背けてしまった。


 家に帰ると玄関前に大きな車がとまっていた。業者の人間が油紙に包まれた荷物を屋敷に運びこんでいる。あやめは、不躾けな他人に自分の庭を荒らされたような不快な気分になった。

 挨拶してくる召使を無視して玄関ホールを抜け、大階段をのぼる。二階の突当り、サンルームに面しているのが、あやめの部屋だ。

 婦人用インバネスとベレー帽をカウチソファに放り投げ、ベッドに倒れこんだ。しばらくすると、召使がやって来る。
 あやめは、彼女が慣れた手つきで紅茶を入れるのを見て半身を起こした。

「ねえ、どうしてこんなに人がいるの?」
「旦那さまが、審神者さまからたいそうな贈り物をいただいたようですよ」
「審神者って、小野のおじさん?」
「ええ」

 あやめは、クラスメイトの小野早苗を思い出した。同時に彼女の無礼な態度も。けれど、それは考えないようにした。

「いったいなにをもらったの?」
「堪忍してください。わたしからは言えません」
「なんで? 教えなさいよ」
「姫さま、どうか……」
「あのねえ」あやめは冷たい声で言った。
「わたしは、教えなさいって言ったの。耳が聞こえない?」

 召使はショックを受けた顔をしたが、あやめは気にしなかった。
 気づまりな沈黙。
 しばらくの後、ぽつりぽつりと話しはじめた。

「小野さまは、以前から欧州の事業がうまくいっていなかったそうです」
「そんなのみんな知ってるわ。何度もうちにお金を借りに来てたじゃない」
「姫さまの目は誤魔化せませんね」

 召使はため息をついた。

「小野さまは、去年の大不況でついに返済が難しくなったそうですよ。そこで、小野家から担保の品が譲られ、今日お屋敷に運び込まれたそうです。そのなかには、小野家の宝刀もあるそうですよ」
「宝刀が!?」
「ええ。宝刀は審神者の誇りです。それを質にするなんて、小野さまも相当行き詰っていたのでしょうね。跡継ぎのお嬢さまが可哀想だわ」
「そうかしら?」

 あやめは紅茶を飲んだ。

「審神者なんて本名を隠さなきゃいけないし、奴隷に命を狙われるし、損ばかりよ」
「奴隷?」
「審神者は、名前で刀剣を縛って奴隷にするんでしょ」
「姫さま!」

 あやめは召使の叱責を無視した。考えこむときの癖で爪を噛み、間延びした声で言った。

「つまり、審神者は刀剣がなくなったら困るのよね」
「もちろんですよ! 昨今の演練で、武蔵の国は他の国に勝ったことがありませんから。このうえ宝刀まで失ったら、勝ちは絶望的です」
「ふうん……」

 小野家の跡継ぎは早苗だ。あやめは、早苗がなくなったはずの刀剣を取り戻す姿を想像した。きっと喜んで、お礼を言うはずだ。そして、いままでの無礼を反省し、あやめといつも一緒にいたくてたまらなくなるだろう。

 早苗から親しい笑みを向けられるのを考えると、不思議な温かさが身体を包んだ。
 そして、あやめはにっこりほほ笑んだ。

「ねえ、その宝刀ってどこにあるの?」
「さあ。女中たちの噂では撞球室にあるらしいですが、どうだか。もちろん、姫さまは行ってはいけませんよ」
「ええ。べつに興味ないもの」と、言ってサンルームから差し込む夕日に目を細めた。
「宿題をするわ。集中したいから、部屋の近くには近寄らないで」
「はい。姫さま」

 召使は一礼すると、部屋を出ていった。足音が遠ざかり、やがて気配がなくなる。そのとたん、あやめは衣装箪笥に飛びつき、中からきらびやかな毬を取り出した。

 しばらくの後、そばかすの少女が足音をひそめて階下に降りて行った。


 呉家の撞球室は、別棟にある。スイスの山小屋風の作りで、こげ茶の丸太を組み上げた屋根から煙突が一本突き出ている。父親が生きていた頃、家族でよくこのロッジで遊んでいた。

 しかし、最近は客人が来たときくらいしか、この煙突から煙が出ることはない。

 あやめは一瞬、階段を駆け上り、撞球室に飛び込んでいく自分を幻視した。
 けれどすぐ、首を振ってそれを振り払った。過去を思い出すのは弱い証拠だからだ。

 ロッジの入り口には、警備服の青年が不服そうな顔で立っていた。間のいいときに来たのか、他の見張りは席を外しているらしい。
 あやめは狙いを定めて毬を蹴り、小走りで撞球室に駆けていった。

「ねえ、こっちに毬が転がってこなかった?」

 青年はロッジに飛びこんできた毬に仰天したのだが、あやめを見るとせきばらいをしてそれをごまかした。

「ここは子どもの遊び場じゃない。あっちに行くんだ」
「用事を済ませたらすぐ行くわ。でも、そんな失礼なことを言ったら後悔するんじゃないかしら」

 青年はなにか言おうとしたが、その前にあやめが誰か気づいたようだった。苦虫を噛み潰した顔で彼女を見下ろし、入り口からどいた。

「毬を取るだけですよ。ここにある物品を損なったら、叱られるどころじゃすみませんからね」
「ええ。あなたは、首が飛ぶどころじゃないと思うけど」

 あやめは、青年の無礼な言い方に皮肉を言ってロッジのなかを観察した。

 記憶よりずっとほこりっぽくなった室内に、撞球台が二台並んでいる。ブラインドが閉まっているせいで薄暗く、どこか気味の悪い雰囲気だ。ぐるりと見回すと、壁際に布の掛ったショーケースがあった。

 あやめは、青年の目を盗んでショーケースに近づいた。かなりの大きさだ。ケースだけなら、自分の背丈以上あるだろう。

(このなかに、小野家の宝刀が入っているのね……)

 そのとき、なにかに取りつかれたように、生成の布を取りたくてたまらなくなった。とつぜん、なかの宝刀が見たくてたまらなくなったのだ。あやめは衝動に逆らえず、屈んで布を取り去ろうとした。

「いけません」

 足元に、子ぎつねがうずくまっている。薄暗い室内で、二つの目玉が爛々と光りあやめをにらんでいた。

「それは審神者のもの。一般人が触れれば、ひどい目にあいますよ」

 あやめは、悲鳴をあげて尻もちをついた。
 そのせいで、布が落ちショーケースの中身が目に飛び込んできた。

 濃げ茶色に変色した歴史を感じる鞘に、擦り切れた柄。まるで封印するように、鞘の部分に赤い紐がぐるぐる巻いてある。

 鼻いっぱいに、魚が腐ったようなにおいが広がった。
 あまりの生臭さに目まいを感じたとき、目蓋の裏が焼けるほど強烈な光に照らされ、あやめは現代から姿を消した。

 かん高い悲鳴に、青年が慌てて部屋のなかに戻って来た。
 しかし、床には割れた硝子片と布が落ちているだけで、少女はこつ然と姿を消してしまっていた。