あやめは、騒々しい人の声で目を覚ました。草いきれの青いにおいとほこりっぽいにおいが鼻につく。彼女は、身体を起こそうとしてうめき声をあげた。
「無理に動いてはいけません」
歌舞伎化粧をした子ぎつねが、礼儀正しく言った。
白と茶色の毛並が混じった珍しい狐だ。しかし(当然のことだが)狐はしゃべらない。あやめは、すぐ彼が動物の形をした式神(アンドロイド)だとわかった。
「ここ、どこ?」
「一七一四年の江戸です」
「一七一四年? 江戸?」
あやめは狐の尻尾をつまみ上げた。
「ふざけないで。正直にいわないと、きつねうどんにするわよ」
「ふざけていません。あなたは審神者の力で歌仙兼定の封印を解き、過去に逆行したのです」
狐は、真面目な口調だった。
あやめは、しかめ面で文句を言おうとしたが視界に板格子と障子の壁が映り言葉を失った。
彼女が倒れていたのは、町屋と町屋にはさまれた細い路地だったのだ。
家の土台と地面の間には雑草が生え、障子はところどころ破れている。二階にかけてある簾は片方が外れだらしなく垂れ下がっていた。
「まさか……そんなはずないわ」
あやめは頭を振り、路地の出口のほうに駆けていった。しかし、通りを歩く人々は彼女が期待した風体をしていない。
結局、肩を落として桶の上に座るきつねのところに戻るしかなかった。
「夢でもみてるのかしら?」
「現実だと証明しましょうか――少し痛い目にあってもいいなら」
「うるさい」
あやめはハンカチを取り出して地面にしくと、そこに座った。
しばらく無言で爪を噛んでいたが、やがて覚悟を決めたように尋ねた。
「もし……ここが本当に過去の世界だとして、現代に戻れるの?」
「はい。審神者の力があれば、可能です」
「審神者? 年に何度か、宝刀で演武をしているだけじゃない」
「一般人には、そう思わせているんですよ」
狐が、誇らしげに言った。
「審神者は、過去を変えようとする歴史修正主義者に対抗できる唯一の存在なのです」
「ふうん。つまり、わたしには審神者の才能があるのね?」
「ええ」
狐は、あやめに不憫そうな視線を送った。
「しかし、あなたには霊力がほとんどない。審神者になっても、顕現すらできない三流の術者でしょう」
「なによそれ!」
あやめは、地団太を踏んだ。
彼女は審神者を見下していたが、もし才能があるなら、誰よりも優れていないと納得できないのだ。
そのとき、冷たい風が彼女の髪を揺らした。
日が暮れかけ、町行く人の影が長く伸びている。それが化け物のように見えて、あやめは背筋を震わせた。
「わたし、家に帰りたい」
「あなたがすべきことをすれば、すぐ帰れますよ」
「つまり、歴史を改変しようとするやつらをやっつければいいのね」
「はい」
狐は、昆虫のような目であやめを見た。
「この時代は、遠江の国の審神者が来たばかりです。どうせ、討ち逃した雑魚が紛れこんだだけでしょう」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「修正主義者が放った怨霊を見つけ、その歌仙兼定で切るのです」
狐が、落ちている刀を前足でしめした。
古くて薄汚れた刀だ。
あやめは、なんでも新品が好きなので、ときを経てなめし革のようになった鞘にはなんの魅力も感じなかった。
刀を一通り矯めつ眇めつする。と、鞘の根元に赤い紐がぐるぐると巻きつけてあった。
「この紐はなに?」
「付喪神を封じる術です。あなたのように未熟な術者は、決して破ってはいけませんよ」
あやめはイライラして言い返そうとしたが、狐がそれを止めた。
耳をピンと伸ばし、警戒するように毛を逆立てる。
――張りつめるような沈黙
着物を着崩し、人相の悪い男たちが表通りから入ってきた。
「不思議な出で立ちのお嬢さん。先ほどから見ていたが、一人だな。迷子かい?」
「違うわ」
「そうかい。ちょっとおじさんたちと来てくれるかな?」
「いやよ。卑しい身分のくせに、わたしに話しかけないで」
「ちょっと」
狐が慌てた声をあげたが、あやめは無視した。
「でないと、わたしの強い用心棒が、ひどい目にあわせるわ」
「そりゃあいい。で、強い用心棒とやらは、どこにいるんだ?」
「ここよ!」
あやめは、桶の上の狐を見た。
「手加減はしないでいいわ」
「残念ながら、オペレート型アンドロイドに防衛機能はついておりません」
沈黙。
あやめは、狐と刀を抱えると一目散に走りだした。
「あんた、しゃべるしか能がないわけ?」
「失礼な。わたしは、審神者が秘める霊力や付喪神の宿る宝刀を的確に見定めることができるのですよ」
「それがいまなんの役に立つか教えてほしいわ」
振り返ると、青年たちは余裕の顔つきで彼女たちを追いかけていた。
彼らはいつでもあやめたちを捕まえることができる。ただ、あえて逃がすことで“狩り”をいっそう楽しんでいるのだ。
「二手に別れましょう」
狐が、腕のなかから顔を出して言った。
「わたしが足止めします」
「あんたが?」
「はい。たとえ才に欠けていても、武蔵の国を継ぐ審神者は守らなければいけません」
狐はあやめに何事か囁き、地面に飛び降りた。
少しして振り返ると、彼の小さい背中は積み上げられた桶に紛れてもう見えなくなっていた。
十分ほど走り、肩で息をしながら蔵の白壁に寄り掛かった。
商家が近くにあるのか、瓦造りの立派な屋根ばかりだ。通りの反対側は淀んだ色の川が流れ、岸部には丸裸のヤナギが植わっている。
彼女は息を整え、辺りを見渡せそうな蔵の石段にのぼることにした。上段につくとそこに座り込み、じっと刀剣を見つめた。
「何かいるなら、早く出て来なさいよ」
あやめの声は相変わらず尊大だが、隠しきれない焦りが滲んでいた。
彼女にとって、大半の大人は自分に従う存在だったからだ。こんな風に逆らわれたのは初めてで、ひどく混乱していた。
だから、いつの間にか迫っていた影に気づくのが遅れてしまった。
「捕まえたぜ」
毛深い手があやめの首をつかみ、宙吊りにした。眉尻に傷がある酷薄そうな男だ。
彼は、服の下まで見通せそうな目つきであやめの全身を見聞した。
「この衣装は、南蛮からの渡来品か? さぞ名のある家の娘だろうな」
「離しなさいよ!」
「そいつは無理だ。お前を質にして、金を頂くまでは返せねえよ」
男の湿った手が、頬をくり返し撫でた。その仕草は父親がしたものと似ていたが、気持ち悪くていまにも吐きそうだ。
彼の体温はあやめより熱く、息が荒いうえどこか生臭い。あやめは彼を恐れたが、それは彼女が初めて感じる類の恐怖だった。
「さわらないで!」
咄嗟に持っていた刀を男の股間に投げつけた。
そのとたん、男がうめき声をあげ崩れ落ちた。そのすきを逃さず、転がっていた板塀の一部で、男が気絶するまで殴り続けた。
「やった……」
あやめは、階段の一番上に彼を転がしていくと、そこで両手をハンカチで結んだ。
そして少し考えたあと、制服のタイを外して目隠しにする。こうして上手くいけば、のちのち神さまが罰をあたえてくれると思ったのだ。
そのとき、どこかから男の声が響いた。あやめは倒れた男が気絶しているのを確認し、あたりを見回したが、人の気配はなかった。
「ぼくを男の股間に押しつけるなんて。あの小娘、ぜったい許さないぞ!」
今度は、間違いなく聞こえた。
若い男の声だ。うっとりするようなやわらかい声だが、それは間違いなく彼女が投げた刀から聞こえてくる。
あやめは、おそるおそる刀に近づいた。土の上に投げ出された宝刀は、彼女の想像通り紐が解け、刀身がのぞいている。
「刀が、しゃべってる?」
「きみ! ぼくの声が聞こえるのかい?」
「ええ」
あやめは、彼の正体をすぐ推測することができた。
「あんたが、付喪神なのね」
「そうだよ。ぼくは、歌仙兼定。歴代兼定でも随一と呼ばれる二代目、通称之定の作さ。ところで、きみの名前は?」
「わたしは……」
しかし、あやめは結局、口を閉じた。
狐から、付喪神に名を聞かれても決して答えてはいけないと言われたのだ。
彼の口調は優しく、危害を加える感じはしない。
だが、優しく見えるものが必ずしもそうではないと、あやめはよく知っている。
「教えてくれないのかい?」
男は、感じのいい声で言った。
「ええ。いや」
「何故だい? 名前を知らないと、ぼくはきみを小娘と呼ぶはめになる。それは、お互いにとってよくないことだし、雅じゃない」
「そうね。じゃあ、わたしのことは主さまと呼びなさい」
沈黙。
今度聞こえてきた声は脅すように低く、雷のような威厳を備えていた。
「これが、最後だぞ――名を教えろ」
「ぜったいいや」
「なら、いいさ。きみの身の周りにひどい災いが降りかかる。一族郎党、末代まで祟ってやる!」
「いい加減にして!」
あやめは、刀を握りしめて怒鳴りつけた。
「あんたの封印を解いたのはわたしよ。だから、わたしに従いなさい。歌仙兼定!」
あやめの声に反応するように刀身が輝き、歌仙の苦しそうなうめき声が響いた。
「くそっ! こんなこと、ぜったい認めないぞ……」
「認めるべきだわ。だって、わたしは鼻歌を歌いながらだって、あんたを真っ二つにできるんだもの」
それをきいて歌仙がひどい罵り言葉を吐いたが、彼女は気にしなかった。その前にすべきことを思い出したからだ。
人さらいの男がイモムシのように身体をくねらせている。
あやめはワンピースのベルトに歌仙をさし、板塀の一部を拾って階段をのぼった。
「おはよう」
目隠しが外れ、目を見開く男に、にっこりほほ笑んだ。
「そして、おやすみなさい」
勢いよく板を振り下ろし、再び男を気絶させた。
「まったく、末恐ろしい子どもだな」
あやめは、歌仙を無視して腰に下げてある巾着を漁った。
印籠、キセル煙草入れ、小銭――そこで、巾着の底がずれるのに気づき、人差し指をもぐりこませた。
最初は不思議そうな顔をしていたものの、仕込まれているのがなにか理解したとたん、彼女は目を見開いた。
数分後、あやめは大ぶりの小判を空にかざしていた。