煮売り酒屋は、仕事上がりの男たちでたいそう賑わっていた。
陽気な笑い声や歓声が響き、大半の人間はそこにいるだけで愉快な気持ちになるに違いない。しかし、残念ながら、あやめはそうではなかった。
奥の畳で、こげ茶色のワンピースの少女が三角座りをしている。隣席とは障子屏風で区切られ、彼らが酒を飲む様子が影絵のように写し出されていた。
あやめは半眼でそれを見ていたが、食べかけの丼ぶりに目を落とし、深いため息をついた。
「気に入らないのかい?」
腰に下げた刀がうれしそうに言った。あやめの苦労が楽しくてたまらないのだ。思わず声を荒げそうになって、落ち着けと自分に言い聞かせた。
「当たり前でしょ。わたしは、店で一番いい料理を出せって言ったのよ」
「いい料理じゃないか」
「古臭い庶民にとってはね。でも、わたしは古臭くないし、庶民でもない」
粗末な丼ぶりに、油揚げの卵とじがのっている。出汁がよくしみ込んだ油揚げと玉ねぎの甘さが人気の一皿だ。あやめは、それらを親の仇のようににらみつけた。
「きみは、そんなにこの時代が気に食わないのか?」
「控えめにいっても、最悪だわ」
「浅はかな小娘め」
歌仙は、鼻で笑った。
「たしかに現代に比べれば、未発達な部分は多いだろう。しかし、同時代の外つ国に比べて、江戸の人々は驚くべき豊かな生活をしていたんだぞ。きみは、二六十年の太平の歴史とそれを築いた努力に深い敬意をはらうべきだ」
「でも、結局は倒れたでしょ。わたしは完ぺきなものにしか敬意を払わないの。わかった?」
「ああ。よーくわかった」
歌仙は、冷え冷えした声で言った。
「きみに雅を説いても無駄なことがね」
それ以来、歌仙は黙りこんでしまった。しかし、あやめは他のことに気を取られていたので、まったく気にならなかった。この時代に怨霊とやらが本当にいるか、考えていたのだ。梁に吊るされた八間行灯が、あやめのしかめ面をうっすら照らしている。彼女は、悩んだ末に近くの女中を呼び止めた。
「そこのあなた」
「はい」
女中は、振り返るとあやめを見て胡散臭そうな顔をした。
「なんです?」
「このあたりで、なにか変なことが起きなかった?」
「さあ、知りません。それより、あんまり長居しないでくださいよ。お前さんみたいな子どもが晩までいたら、お上ににらまれちまう」
「失礼だわ!」
あやめは、立ち上がった。
「そんな無礼な振る舞いをしていいと思ってるの?」
「さて、じゃあどこのお家の姫さまですか?」
「そうだな! 教えてあげなよ」
歌仙が抜け目なくつけ加えた。あやめは口を開け、結局悔しそうに唇をかんだ。
「店の邪魔だけはしないでくださいよ」
女中が、冷たい声で言った。
「それで、追加のご注文は?」
「あっちにいって」
「あと半刻したら、勘定をいただきますからね」
乱暴な足取りで女中が去り、あやめはまた一人になった。
(こんな屈辱、生まれて初めてだわ……)
イライラして無意味に丼ぶりのなかをかき回した。言葉にできないおそれが、心のなかで大きなかたまりになりつつある。それは時とともに大きくなり、いまにも彼女を押し潰しそうだった。
「怨霊なんて、本当にいるのかしら?」
「いないかもね。きみは、永久にこの時代から抜け出せず、一人ぼっちで死ぬのさ」
「うるさい」
「死ぬ前に、少しでも善行を積むのをオススメするね。たとえば、名前を教えてくれたら、特別に苦しまないように殺してあげよう」
「わたしは、うるさいって言ったの!」
あやめは、気分を変えようと乱暴な仕草で湯呑みをあおった。しかし、歌仙が黙ると今度は隣席の男たちの声が響いてくる。
彼女はうんざりした顔で膝に頭をのせたが、男たちの会話が進むにつれ、その表情はどんどん晴れやかなものに変わっていく。結局彼らが席を立つ頃には、あやめは満面の笑みで巾着の中身を漁っていた。
「きみ、ついに頭がヘンになったのかい?」
歌仙が気味悪そうな声で尋ねた。
「ちがう。この世界がおかしいってわかったの!」
あやめは巾着の底から小判を取り出し、慎重に観察した。ひっくり返すと、中央から右よりに“元”という文字が小さく刻印してある。それを見つけた瞬間、あやめは小さく歓声をあげた。
「やっぱり、年代と文化があべこべだわ」
「どういう意味だい?」
「狐は、ここが一七一四年の江戸だと言っていたの。なのに、さっきの男たちはいまの小判は混ぜものが多くていやだって話してた。それはおかしいのよ」
「なぜ?」
「いい? 一七一四年には宝永小判っていう金の含有量が高い小判が流通しているはずなの。そして、裏側には“乾”の年代があるはず」
あやめは、小判をひっくり返した。
「でも、ここには“元”と押してあるでしょ。つまり、これは元禄小判なのよ。混ぜ物が多いのも特徴だわ。つけ加えると、こんな風に酒を出す煮売り酒屋が流行りだすのは一七五〇年代からなの!」
「きみは頭でっかちだな。女人らしくない」
歌仙が、悔しそうな声で言った。彼は、あやめが絶望するのを楽しみにしていたので、あてが外れてがっかりしているのだ。
「歴史が変わりかけてる。つまり、歴史改変者も怨霊も実在するのね」
あやめがそうつぶやいた瞬間、行灯の火がいっせいに消えた。
店内は真っ暗になり、一メートル先も見えない。しかし、不思議なことに女中を呼ぶ客の声や酔っ払いの笑声は途切れなかった。それどころか、半透明の影のようなものが、先ほどまで人がいた場所に浮かび上がっている。
彼らは、好き勝手な方に膨らむ手で、なにかを飲んだり食べたりしていた。その度、おそらく胃腸があるほうへ薄緑色の光が滑り込んでいくのだった。
「なによ、これ……」
あやめは、歌仙を抱きしめながら後ずさった。彼女の身体は薄らと発光し、輪郭も存在している。ただ、いつ自分が彼らと同じ存在になってしまうか、怖くてたまらなかった。
店の壁に背中をつけ、深く息を吸った。両手は小刻みに震え、指の先が魚の腹のような色になっている。本当は、うずくまって何も見ないふりをしたいが、そうすることはぜったいにできなかった。
なぜなら、逃げるのは弱虫の証拠だからだ。あやめは、強いから決してそんな情けないことはしない。
そうしてじっとしていると、店のなかを群青色の燐光が動いているのに気づいた。ウミヘビの骨格に鬼の頭をつけ、短刀を咥えた化け物だ。そいつは、なにかを探るように店内を回遊していた。
(あれが、怨霊……?)
あやめは、震える手で歌仙を抜いた。酔っ払いたちの声が響く店内に、刀と鞘が擦れる鈍い音が紛れた。そのとたん、怨霊が動きを止め、まっすぐあやめたちの方向を見た。
次の瞬間、あやめは咄嗟に歌仙を横に振った。固いなにかにぶつかったような衝撃。そして、動物に似た悲鳴が続く。あやめは、何が起きたか確認しようとしたが、急に身体の力が抜け、目を開けることもできない。
彼女の身体は、徐々に輪郭を失っていった。そして、最終的には薄青い煙に変わると、渦を巻くように江戸時代からかき消えた。
人生を揺るがす出来事が起きてから三日目の朝、あやめは伸びをしながら自室のベッドから起き上がった。サンルームに続く扉のカーテンを勢いよく開ける。そのとたん、薄暗かった自室にまばゆい光が差し込んできた。
真っ白な壁紙と花柄のじゅうたん。ベッドのわきには飾り細工を施された小卓がある。そこには、朝方まで読み耽った本が積み上げられ、ユリ型ランプが開きっぱなしのページを照らしていた。
あやめは慣れた手つきで灯りを消し、制服に着替え始めた。彼女の部屋はもともと物が少ないが、この三日間でさらに減っている。名前に関するものを全て排除した結果だ。そのせいで、刀と一緒に縛られたカウチソファは異彩を放っていた。
彼女は部屋を出る前に何事か言い、機嫌よく食堂に降りて行った。
食堂につくと、母が朝食をすませ、お茶を飲んでいるところだった。家長席に叔父の姿はない。きっと職場から、急な呼び出しがあったのだろう。あやめは久しぶりの親子水入らずの時間にうれしくなった。
「お母さん、おはよう」
母は儚げな笑みを浮かべてあやめを見た。細面の顔に伏し目がちな瞳、肌は抜けるように白く、まるで天女のような美貌だ。あやめは、母以上に美しい女性を見たことがなかった。
「おはよう……」
と、母は少し言いよどんだ。
「だめね。つい、あなたの名前を呼びそうになる」
「べつに構わないわ。だって、邪魔な刀は部屋のソファに縛りつけてきたもの」
「あやめ……!」
「ほら!」
あやめが、くすくす笑いをすると、母は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「だめ。本当にわたしは、ばかね」
「お母さんは、ばかじゃないわ。だれがそんなことを言ったの?」
「だれも言わないわ。ただ、ときどき本当にそう思うの」
「どうして? ばかに素敵なテーブルクロスは作れないわ」
あやめは、敷かれたクロスを引っ張って見せた。鮮やかな牡丹とその枝にとまる駒鳥が緻密に刺しゅうされている。母は手芸が得意で、以前は冬になるたび売り物のようなセーターをプレゼントしてくれたのだ。
「ねえ、お母さん。もうセーターは作ってくれない?」
「ええ。手編みなんて、みっともない。笑われちゃうわ」
「だれも笑わないわよ。それにそんなことしたら、やっつけてやる!」
「あなたは――強いわね」
「でしょ」
あやめは、ボクサーのポーズを取り、空を殴る真似をした。
「ふざけないで」
母は怒った顔をしたが、すぐこらえきれずに素晴らしい笑顔を覗かせた。あやめはそれを見て、誇らしい気分になる。なぜなら、こんな風に母を笑わせられるのは、死んだ父とあやめだけだからだ。
「とっておきの秘密を教えるわ。わたしが強いのは、お父さんの分まで、お母さんを守るため。わたしたち、二人きりの家族だもん」
あやめは励ますように言ったが、期待した微笑みは返ってこなかった。それどころか、母は気まずそうに洋服の袖をいじり始めた。
いやな予感がした。なにか、とてつもなくいやな予感が。
「実は、その件について話しがあるのよ」
「聞きたくない!」
あやめは、乱暴に立ち上がった。
「ねえ、聞いて。あなたにとっても悪い話しじゃないはずだわ」
「それが“さ”から始まる話しについてなら、お断りよ!」
「どうして? 叔父さんのことが嫌い?」
「じゃあきくけど、お母さんはお父さんのことなんて忘れちゃったわけ?」
そう言ったとたん、母がショックを受けた顔をした。あやめは罪悪感でいっぱいになったが、口をついて出た言葉は取り返しがつかない。しばらく視線をうろうろさせ、結局静かに席についた。
「ごめんなさい。本気じゃないの」
「わかってるわ。もちろん、お父さんのことは忘れられないし、いまでもあの人を愛してるのよ」
「じゃあ、再婚する必要はないでしょう」
「でも、ときどき弱気の虫がこの世に希望はないってお母さんに言うのよ。そんなとき、どう立ち向かえばいいかわからないの」
「わたしがいる。わたしは強いからお母さんを守れるし、弱気の虫との戦い方を教えてあげるわ」
しかし母は目を伏せ、顔をあげない。そのことで、あやめはひどい衝撃を受けた。
「わたしより、叔父さんがいいの?」
「ちがうわ」
母はあわてて、あやめの手を両手で包んだ。
「そういうつもりじゃないの。ただ、あなたにも新しい父親がいたほうがいいと思って……」
「うそつき!」
あやめは母の手を振りほどいた。あまりの理不尽な出来事に涙が出そうだった。彼女は、母のために強くなったのに、それはなんの意味もなかったのだ。
母は実の娘より、叔父――男性を選んだのだから!
足音荒く食堂を出ると、召使が気まずそうに料理を持って立っている。いつもなら、立ち聞きしたことに罰を与えるのだが、いまはそういう気分になれなかった。だから、「部屋で食べるわ。持ってきて」と言い、早足で部屋に向かった。