「おかえりなさいませ」
料理を置いた召使が出ていくと、開けっ放しの窓から見覚えのある狐が顔を出した。黒目がちの瞳は昆虫のように感情がなく、顔全体には歌舞伎化粧をしている。
彼は行儀よく窓のさんに座り、あやめを見つめていた。
「どうして? なんでアラームが鳴らないの?」
「民間企業の防犯装置ごとき、何ということはありません。老婆心で忠告しますが、防犯装置をつけていても、窓のカギはかけたほうがいいですね。そうすれば、あと三秒は侵入が遅れました」
「ご忠告どうも!」
「どういたしまして」
狐はそっけなく言うと、ソファに縛られた歌仙を顎でさした。
「大事なお話しがあります。どうかその刀剣をしまってくれませんか」
「わたしに命令しないで」
「積極的に死にたいなら、それでも構いませんけどね」
「あんたって、本当に無礼だわ!」
あやめは文句を言う歌仙をシーツで包み、金庫のなかに放りこんだ。これで、会話を盗み聞きされる心配はない。彼女の心は先ほどの衝撃から立ち直っていないが、必死に気持ちを切り替えようとした。
「それで、何の用?」
あやめは、できるだけ偉そうに言った。
「武蔵の国の審神者として、役目を果たして頂きたいのです」
「ぜったい、いや」
「しかし、あなたは歌仙兼定の主になった。つまり、日本で五人目の審神者に選ばれたのです」
「だからなんなの? 許されるなら、小野さん家に熨斗をつけて、あげるわよ」
「無駄ですよ」
「なぜ? 小野さんには、女の子の跡継ぎがいるでしょ。その子が審神者になるべきだわ」
「いいえ。小野早苗さんには、審神者の能力がないのです」
あやめは、ぽかんと口を開けた。
「――どういう意味? 審神者の能力は遺伝で、だから家柄に序列があるんでしょ」
「ええ。けれど、実子であるにも関わらず彼女には霊力がありません」
「だから、わたしにやれっていうの?」
「その通りです」
あやめはしかめ面をした。彼女には、もう数えきれないほどの召使がいるのだ。命を危険にさらしてまで、奴隷を増やすことに何の意味があるだろう?
そして、自分が審神者になったとき、早苗がどんな風に思うか想像してみた。きっとあやめが憎くてたまらないはずだ。そのことについて考えると、急に胸が苦しくなった。
「いくら言われても同じよ。もう帰って」
「よろしいんですか?」
「ええ。付喪神の奴隷がほしいなら、他のあてを探すのね」
「わかりました。あなたが祟られても、わたしたちは一切関知いたしません」
「なんですって?」
あやめは、顔を引きつらせた。
「あなたは刀剣男士の名を縛り、無理やり従わせました。しかし、彼らは誇りを傷つけた相手を決して許しません。本名をもらしたとたん、喜んであなたを八つ裂きにするでしょうね」
「そんな……理不尽だわ!」
「そうですか? 命をかける程度で神の威を借りられるなんて、安いものでしょう」
「狂ってる」
窓から冷たい風が入りこみ、カーテンをふくらませた。小花柄の白い布が、波のように寄せたり引いたりする。ようやく風が凪ぐと、窓のさんには誰もいなくなっていた。
「ここですよ」
狐が、窓から少し離れた小卓のうえに座っていた。
「あなたは、いまどれだけ危険な状態なのかよく知るべきです。ふつう、審神者は時空のはざまに本丸を築き、外界との接触を避けます。しかし、霊力の乏しいあなたにはそれができない。本名を知られる可能性が非常に高いのです」
「何が言いたいの?」
「わたしたちは、“審神者”を守る準備があるということです」
あやめは、顔を真っ赤にして怒った。狐の脅しを正確に理解したのだ。頭に血がのぼり、近くにあった本を投げつけた。
「無礼だわ。出てって!」
しかし、狐は軽やかな動きで本を避け、ため息をついた。
「解らない方ですねえ。審神者に関する権限は、こちらに一任されています。つまり、こうも突っぱねられると、呉の人間に叛意ありと邪推してしまいますよ」
「それ、脅し?」
「まさか。少し考えただけです」
あやめは、狐を射殺すような視線でにらみつけた。頭のなかに、母の儚い微笑みが映し出される。そして、それが苦しみに喘ぐ表情に切り変わった。あやめは母のそんな顔を見たくない。しかし、そうするには山よりもプライドを折る必要があったのだ。
彼女は長い時間黙りこんでいたが、やがてぼそぼそと狐に向かってつぶやいた。それを聞くと、狐は満足そうにうなずき窓の外に飛び出していった。
あとには、空しくはためくカーテンが残された。
彼女はしばらくその場に立ち尽くしていた。そのうち肩が小刻みに震えはじめ、すぐに喘ぐようなものに変わる。
大きな部屋の真ん中で、やせっぽちの少女がうずくまって泣いていた。しかし、その声があまりに小さかったので、だれも――彼女自身でさえ、自分が傷ついているのを知らなかった。
夢のなかで、真っ黒い獣があやめに伸しかかっていた。生臭い息を彼女に吹きかけ、味見をするようにゆっくり頬をねぶる。その度、ナメクジが這ったような痕が増えていった。
助けを呼ぼうとしても、混乱のあまりかすれ声しか出ない。獣は、震えるあやめに容赦なく牙を剥いた。
獣の肢の間で、少女のほっそりした足が揺れている。しばらく、抵抗するようにもがき続けたが、やがて糸の切れた人形のように揺すられるままになってしまった。
あやめは、悲鳴をあげて飛び起きた。
夢の内容は忘れたが、ひどい悪夢を見たことだけは覚えている。鼓動が耳元で響いているようで、まともに息もできなかった。必死に呼吸を落ち着かせようとしていると、穏やかな声が聞こえた。
「はっはっは。起きたか」
三日月紋の狩衣を着た男が正座している。あやめは思わず息をのんだ。これほど美しい人を見たのは初めてだ。
高い鼻りょうに、ほっそりした輪郭。青いガラス玉のような瞳が、濡れ羽色の髪によく生えていた。彼の身体は、藍色の燐光でうっすら輝いている。そのせいか、あやめは彼が人間ではないとすぐわかった。
「ここは、どこですか?」
あやめは、できるだけ丁寧な口調で言った。というのも、彼には礼儀正しく振る舞わなければいけないと思ったからだ。
「天地の狭間さ。人の子が迷いこむのはいつぶりだろうな」
それを聞いて、ようやく辺りを見回した。一面の大海原だ。上空には数えきれないほど星が輝き、絶え間なく流れ星が滑り落ちてくる。空の一方が深夜のように暗いと思えば、一方は朝焼けの光が雲間から差しこんでいた。
足下の海は、驚くほど明度が高い。上空の星々が、いまにも掴めそうなほど写し出されている。あまりに現実離れした光景に、彼女はしばらく絶句した。
「――帰れるんですか?」
「ああ。来たということは、帰れるということだ」
あやめは、安堵の息を吐いた。すると、今度はこの美しい人に興味がわいてくる。大きな力の持ち主のようだが、彼はそれほど不親切には見えなかった。
「あなたの名は?」
「審神者が、みだりに神の名を問うものではない。おれもお前の名前はきかぬよ」
「審神者?」
「ここに来られるのはおれが許した人間と、そうでなくては、審神者だけだ」
あやめは、咄嗟に後ずさった。用心深い目つきで観察するが、彼はあやめが審神者でも全く気にしないようだ。それどころか親しげな笑みを向けられ、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「訳あって審神者には詳しいが、危害を与えるつもりはない」
「本当に?」
「ああ。誓って、お前に嘘は言わぬ」
男が、目を細めてあやめを見た。こんな風に優しい視線を向けられたのは、父親が生きていたとき以来だ。もちろん彼の言い分を信じるのは、ばかだと分かっている。しかし、ひどく混乱して、どうすればいいかわからなかった。
「じゃあ、教えてほしいことがあります」
「なんだ?」
「刀剣男士なんかちっともこわくないけど、うまく従わせる方法があるなら知りたいです」
「そうきたか」
男が、楽しそうに笑った。
「従わせようという心持ちだけでは立ち住かぬ。彼らにも、物を思う心があるのだから」
「まさか!」
あやめは、思わず礼儀正しく振る舞うことを忘れてしまった。
「主人が奴隷の考えを気にするなんてナンセンスよ。舐められて、何も上手くいかなくなるわ」
「最初のうちはそうかもしれない。だが、新しい絆も生まれる。それは、刀剣男士が審神者に仕える理由になり、彼らを強くするだろう」
「新しい絆?」
「信頼と愛情さ」
あやめは、鼻で笑った。
「残念だけど、わたしには一生わかりそうにないわ」
「いいや。いずれ、わかる」
「そうは思えないけどなあ」
「わかるさ。お前は、とても優しい心を持っているからな」
あやめは最初、なにを言われたか理解できなかった。そして、ようやく彼の言葉を理解すると、顔を真っ赤に染めた。生まれて初めて、他人から優しいと言われたのだ。頭のなかがぐちゃぐちゃで、先ほどよりずっと、どうすればいいかわからなかった。
「わたし、帰る!」
「そうか」
不思議なことに、いまのあやめはもとの世界に帰る方法をすっかり承知していた。足元の海原から、一直線に光る道筋が見えるのだ。それをたどっていけば、じきに家に着くだろう。
あやめは走りだそうとしたが、後ろ髪をひかれたようにふり返った。
「名前、やっぱり教えてくれない?」
男は、困ったように眉尻を下げた。
「お前が審神者として成長すれば、いずれ名乗ることもあるだろう」
「いじわる!」
「はっはっは。じじいとはたいてい意地が悪いものさ。知らなかったか?」
あやめはがっかりしたが、彼の笑顔が心のやわらかい部分を慰めてくれた。不機嫌そうな唇はほころび、青白かった頬が健康的に赤らんでいる。彼女は久しぶりに、自分自身を取り戻した気分だった。
男は、以前父親がしてくれたように手の甲であやめの頬を撫でた。
「しばしの別れだ。なに、別れなど再会の喜びに比べれば何ということもない」
顔が近づき、やわらかい髪が顔にかかる。そして労わるような仕草で、額と額をくっつけた。
「お前はよい審神者になるぞ。そして、よい審神者は刀剣男士の鞘になれる」
「どういう意味?」
「すぐわかる」
男は微笑んで、あやめの手をひいた。
「もう行け。道が閉じるぞ」
「また会える?」
「お前が望めば、いつでも会うさ」
「――ありがとう」
それは、あやめの心の底から出た言葉だった。重なった手が緩み、やがてそっと離れていく。
少女の背中は小さくなり、青い燐光と黄金の光に包まれ姿を消した。
あやめがいなくなったとたん、男の顔から愛想のいい笑みが抜け落ちた。彼は無表情で少女の消えたほうを見つめていたが、しばらくすると彼女とは反対の方向に歩いていった。