こいこいっ!act 005

 ゆっくり目ぶたを開けると、見慣れたユリ型のシャンデリアが目に飛びこんできた。あやめは半眼でそれを見ていたが、まるで完全に覚醒するのを避けるようにもう一度目を閉じた。

 実際、またあの夢の世界に帰りたくてたまらないのだ。というより、あの男性ともっと話していたかった。

 彼はあやめの敵ではないし、召使でもない。そして、あやめが彼を守る必要もないのだ。むしろ、彼はあやめを慰め、励ましてくれた――守ろうとしてくれた。

 いままで、そんな風に接してくれたのは一人だけだ。しかも、その一人は、もうどこを探しても見つからない。
 あやめは急に弱い気持ちになった。だれかに優しい言葉をかけてもらい、頭を撫でてもらいたくてたまらなる。

 しかし、それはいけないことだ。何故なら、自分はいつも強くなければいけないから。あやめは弱い気持ちを追い出そうと、母の儚い笑顔を思い出そうとした。しかし、代わりに浮かんだのは、三日月紋の狩衣を着た男だった。

 そのとき、ドアが乱暴にノックされ返事もしないうちに召使が入って来た。あやめより少し上ぐらいの少女で、勤めはじめたばかりのようだ。

 あやめはその無礼な態度に文句をつけようとしたが、いつまで経っても彼女を罵ることができなかった。ひどい言葉は浮かんでくるのに、いざ口に出そうとすると、心のどこかがそれを引き留めるのだ。結局、あやめは彼女を叱らなかった。

「どうしたの?」
「姫さまに、お客さまです」

 あやめは、眉をひそめた。いままで、彼女個人の客なんて来たことがなかったからだ。

「だれ?」
「小野早苗さまとおっしゃるそうです」
「わかった。通していいわよ」
「かしこまりました」

 召使が扉を閉めるとすぐ、慌てて身なりを確認した。紺色のエプロンドレスにたっぷりしたレースの丸襟。首もとの黒いリボンがほどけ、だらしなく垂れ下がっている。全身鏡を見ながら、震える手でそれを結びなおした。

「姫さま、小野さまがいらっしゃいました」

 あやめは、床に落ちていた新聞を何食わぬ顔でベッドの下に押しやった。

「どうぞ――入って」

 緩い巻き毛の少女が、ゆったりした足取りでやってくる。不思議なことに、彼女は学校指定のワンピースを身に着けていた。今日は土曜日で、自分たちの学年は授業がないはずなのに……。あやめは、漠然とした不安に襲われた。

「こんにちは。来てくれてうれしいわ。でも、急にどうしたの?」
「お別れの挨拶を言いに来たのよ。あと、ちょっとした頼みがあって……」
「どういうこと?」

 彼女は、あやめが勧めるままソファに座ると、穏やかな口調で続けた。

「わたし、転校するの」
「転校!?」
「そう。遠江にうちの分家があるから、そこに引っ越すことにしたのよ」
「そんな……。いったいどうして?」

 早苗の落ち着いた目がなんらかの感情で波打った。しかし、それはすぐ控えめな笑みの下に隠されてしまう。

「武蔵の国の審神者にならなくてすんだから」

 あやめは息をのんだ。それは二人の間で避けられない話題だったが、まさか早苗に切り出されるとは思ってもみなかったのだ。

「怒ってないの?」
「どうして怒るの?」
「わたしが、審神者に選ばれたから」
「怒ってないわ。むしろ、肩の荷が降りた気分なの」

 早苗は、秘密を告白するような口調で言った。

「霊力もないのに、期待され続けるのはつらいわ。それに、刀剣男士とどう向き合えばいいか、わたしにはわからなかった」
「何故? どうして、道具とのつき合い方を悩むの?」

 一瞬、早苗が強く唇をかみしめた。

「だって、審神者は刀剣を縛って無理やり言うことをきかせるのよ。恨まれて当然だわ」
「じゃあ、歴史が変わってもいいの? うじうじしても仕方ないでしょう」
「あなたは、なにもわかってない」

 早苗が珍しく強い口調で言った。それから、恥じ入るように小さな声で謝罪した。

「ごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃなかったのに……」
「気にしてないわ。それより、お願いってなに?」
「実は、引っ越す前に歌仙兼定を一目見せてもらいたいの」

 早苗は、制服の袖をいじりながら言った。

「もう二度と見ることができないだろうし。駄目かしら?」

 咄嗟にうなずきそうになったとき、心のどこかがあやめを止めた。歌仙兼定を見せれば、何かが起こる。きっと、とてもよくないことが……。

 しかし、あやめはそれを無視した。せっかくそっけない早苗が来てくれたのだし、彼女に対し、深い罪悪感を感じてもいたからだ。なにより、自覚はないものの、あやめは早苗が好きだった。だから、彼女を喜ばせたかったのだ。

「わかった。すぐに見せてあげるね」

 あやめは素早く金庫を開け、シーツでぐるぐる巻きになった刀を取り出した。しかし、鞘をつついても返事がない。いらいらするが、どうせ早苗には彼の声が聞こえないわねと思い直した。

「ほら、どうぞ」
「ありがとう」

 早苗は刀を受け取り、これ以上ないほど熱心に鞘を撫でた。

「ねえ、わたしの声って歌仙に聞こえているのかしら?」
「もちろん。いまは、ふて腐れているみたいだけど」

 あやめは、偉そうな声で命じた。

「歌仙兼定、命令よ。返事をしなさい」

 刀身に電気のようなものが走り、歌仙のうめき声がした。

「小娘! 万死に値いするぞ!」
「そう。でも、あんたは主人に手を出せないの。残念ね」
「それは違うわ」

 早苗は、覚悟を決めたようにつぶやいた。

「――あやめ」

 そのとたん、大きな風が吹き、二人の髪を揺らした。封印を解いたときとは比べられないほどの生臭さだ。あやめの顔は真っ蒼になり、恐ろしさに歯の根が合わなかった。つまり、いまなにが起きているか、精確に把握することができたのだ。

「あなたが彼らに相応しい主なら、他の刀剣も譲ろうと思ってた。でも、飛んだ見込み違いのようね」

 早苗は吐き捨てるように言うと、素早く踵を返した。やがて、乱暴な音とともに扉が閉まり、室内は不気味に沈黙した。


 部屋の温度が異常なほど下がっていた。窓硝子の一部が凍りつき、じゅうたんには霜が下りている。あやめは、歯をガチガチ言わせながらようやく声を出した。

「歌仙兼定。これは命令よ。やめなさい!」

 しかし、あやめが期待したことは何も起きなかった。それどころか、からかうようにつむじ風が吹いて窓枠が揺れた。本当は、何が起きているかわかっている。けれど、それを信じたくなかったのだ。

「わたしの命令がきけないの?」

 沈黙。

「言うことをききなさい! じゃなきゃ、ひどい目に合わせてやる!」

 大声で叫んだとたん、頬に鋭い痛みが走った。そこから血が滴り、じゅうたんに小さな染みを作る。

「どうして……?」
「わかってるだろう」

 若い男の声。そこには、隠しきれない喜びがのぞいていた。

「ぼくは、きみの名を知っている。つまり、いままでのお礼がたっぷりできるってわけ」
「そんなの許さないわ」
「そうかい。でも、子ネズミのように震えるきみに何ができる?」

 あやめは、地団太を踏んだ。歌仙の無礼な態度のせいで、恐ろしさがどこかに吹き飛んでしまった。

「――できるわよ!」
「無駄なあがきはしないのが賢明だよ。それよりどんな風に死にたい? 可能な限り、風流に殺してあげよう」
「黙りなさい。奴隷のくせに!」

 その瞬間、部屋の寒さが一段とひどくなった。窓硝子の氷が硬い音を立てて、クモの巣状に広がり、シャンデリアからは氷柱が垂れ下がる。まるで地の底から響くような声が、彼女の部屋に響いた。

「このぼくを奴隷扱いするか。首を差し出せ!」

 部屋のすみから、ものすごいスピードの刀がこちらにつっこんで来る。避ける間もなく、それは貫通して、あやめと壁をぬいつけた。

 左肩に稲妻のような痛みが走る。あやめは、うめき声をあげながら歌仙の柄を握った。たちまち、頭のなかがいままで聞いたこともない知識でいっぱいになり、自分がすべきことを理解した。

 彼女は、柄を握りしめたまま目をつむった。そこから紫色の力の塊を感じ取る。そのとたん、あやめは力づくで紫の塊を引き寄せた。不思議なことに、彼女はそのやり方をよく知っていた。

 身体の一番深いところを容赦なく蹂躙される感覚。あやめは苦しげに吐息をもらしながら、やっと二人の道を開通させた。

「ぼくらを繋いだのか?」

 歌仙が怒り狂ったように言った。いまのあやめは、彼の感情を自分のように感じることができる。何故なら、先ほどの術で二人の魂を結びつけたのだから。

「そう。つまり、わたしが死んだら、あんたも死ぬの」
「冗談じゃない」
「もちろん、本気。誰かさんが物騒なことをしたせいだわ」

 と言いながら、刺さった歌仙を引っこ抜いた。それを見ると命の危険を改めて実感し、切り抜けた自分がとても誇らしい。「わたし、すごい力を持ってるのね」

 あやめは、うっとりした。子ぎつねは、自分を侮っていたが、あれは間違えだったのだ。実際、あやめは歌仙に立ち向かい、自分自身を助けることができたのだから。

「あの不思議な術が、気に入ったわ」

 彼女は、言い聞かせるようにつぶやいた。例の術がどこからやって来たか知らないが、あれを使えば多くの刀剣男士を従わせることができるだろう。

 あやめは、微笑んで手のなかの刀に話しかけた。

「歌仙、わたしに謝りなさい」
「いやだね」

 思わず耳を疑った。

「なんですって?」
「いやだと言ったんだ。いまいましいことに、きみに死なれるとまずいらしい。でも、きみの名を知るぼくが何故従わなければいけない?」
「刀を折るって言っても?」
「その前に、刀剣中に本名を広めてやろうか」

 沈黙。
 二人はだいぶ長い時間にらみあっていたが、やがて歌仙が強い口調で言った。

「いいか。つまり、ぼくらは対等な関係なんだ」

 あやめはひどい侮辱をされた気分だった。奴隷と対等だなんて信じられない。しかし、彼の言葉を突っぱねるわけにもいかなかった。そうすれば、また歌仙と争うことになる。今回運よく助かったからといって、次回もそうとは限らないのだ。

「わかったわよ」

 あやめはしぶしぶうなずいた。

「それに、ぼくは奴隷じゃない。刀剣男士だ」
「わかった」
「本当にわかってるのか? 今度そう呼んだら、八つ裂きにするからな」
「わかったってば!」

 二人の言い争いは、召使が夕食を知らせに来るまで、ずっと続いていた。