東京都西部、多摩川をずっとさかのぼったところに、大嶽鍾乳洞はある。三百メートルほどの小さな洞窟だが、ときどき、いくら歩いても行き止まりに着かなかったという人間もいて、『大嶽には狐が住み着いている』とまことしやかに囁かれていた。
「ま、狐じゃなくて鶴だけどな」
鍾乳洞の“本当の”最深部で、白い着物の青年がつぶやいた。空中に突出した岩壁で、危なげなく片膝をついている。彼の足元には奉納台があり、そこにはひどく古びた太刀が載せられていた。
青年はいつも通り、退屈そうな仕草であくびをした。どうせ、この最深部にはだれも来ることができないのだ――よほどの力を持つ審神者か刀剣男士以外には。残念ながら、この洞窟に来て二百年、そんな愉快なことは一度も起きなかった。
とつぜん、洞窟のなかに小さな火花が散った。それは徐々に大きくなり、やがて藍色の光が煙のように輪郭を作りはじめる。まるで、写真が少しずつ焼きついていくかのようだ。ようやく煙が晴れると、三日月紋の狩衣の男が立っていた。
「久しいな。鶴丸」
彼は黄金色の燐光を惜しげもなくまき散らしながら、微笑んだ。
「こいつは驚いたぜ。じいさん、いつの間に顕現したんだ?」
「さあな。それより、ここがお前の住処なのか?」
「ああ。いーいところだろ」
鶴丸は、皮肉っぽく笑った。
「会えてうれしいぜ。退屈で死にそうだったんだ。悪いが、適当にかけてくれ」
「脇息はないのか?」
「あいにく家具職人は、『すと』中だ」
三日月は面白そうに笑うと、向かいに腰かけた。
(いったい、何を企んでいるのやら)
実のところ、三日月は見た目よりずっと強かなのだ。鶴丸は、穏やかな声で尋ねた。
「何の用だ? まさか、挨拶に来たわけじゃないだろ」
「はっはっは。気づいていたか」
「当然だ。きみが、わざわざ友人の無聊を慰めに来るとは思えないからな」
「そうか。まあ実際、用があって来たのだが」
三日月が微笑を浮かべたまま言った。
「近いうち、ここに審神者が来るだろう。お前には、彼女を見極めてもらいたい」
「見極めるだって?」
「ああ。気に入ったら、力を貸すといい」
「気に入らなかったら?」
「なに、ここは森が深いからな。外から来た女子が迷っても不思議ではないな」
三日月の打ち除けが妖しく輝いている。鶴丸は、彼の仄めかしを正確に理解した。
「おっかねえじいさんだぜ」
「怖がらせてしまったか。すまん」
お互いの腹を探りあうための沈黙。やがて、鶴丸がため息をついた。
「まどろっこしいのは、なしだ。じいさん、何を企んでる?」
「どういう意味だ?」
「こう見えても、おれはきみを気に入ってるんでね。罠をはらずとも、言ってくれれば協力くらいするさ」
「ああ。お前はよき男だな」
三日月は珍しく本心から微笑んだ。そして、遠くをみるような目つきで尋ねた。
「お前に、願いはあるか?」
「願い?」
「そうだ。そのためなら、何をも惜しまず、すべてを犠牲にし、どんなことだってできる願いだ」
「ないね。人間とは違うんだ。じいさんだって、そうだろ」
しかし、三日月は謎めいた笑みを浮かべ、こたえなかった。
「さあな。お前は、いずれ理解するかもしれんぞ」
「そうは思えねえけど」
鶴丸があきれて肩をすくめると、三日月は声に出して笑った。驚くことに、その笑みは鶴丸が知るものよりずっと“人間”らしい。
(おいおい、おれが眠ってる間に何が起きたっていうんだ?)
つまり、三日月が人間らしくなるような何かが。
鶴丸が目を丸くすると、彼は袂で表情を隠した。そのまま、滑るように立ち上がって言う。
「それでは帰るとしようか。鶴丸、例の件を頼んだぞ」
「ああ。驚きの結果をもたらしてやるぜ」
「はっはっは。よきかな」
三日月の姿が、来たときとは逆に徐々に薄くなっていく。輪郭がぼやけ、織物を解くように群青色の煙が渦巻いていった。やがて、彼のいたところに黄金の燐光が残り、それも散って消えた。その光が少し翳って見えたのは、鶴丸の気のせいだろうか。
しばらくしかめ面で考えていたが、彼は疲れたように伸びをし思考を打ち切った。そして、久しぶりに迎える客人を驚かす方法について楽しげに考えはじめるのだった。