むかしむかし、あるところにあやめという女の子がいました。彼女の家は、特別お金持ちでも特別貧乏でもないごく普通のお家です。
しかし、彼女の家には普通でない点がいくつかあります。そのうちのひとつは、あやめの両親についてでした。
彼女のお父さんは、古い刀がこの世のなにより大好きです。お気に入りの刀を身近で見るためには、外国で学芸員になってしまうほどでした。お父さんの頭は、いつも刀のことばかり。家に帰ってくることはほとんどありません。
そして、お母さんは少しだけ悲しみやすい心の持ち主でした。お父さんが家にいないと弱虫になって、自分の苦しみに夢中になってしまうのです。日中の間、お母さんは居間に座ってぼうっとしています。
そのときは、身の周りのことについて深く悲しんでいるときです。あやめが、何を言っても聞こえないでしょう。そこで、声をかける代わりに、洗濯物を畳んだり、お昼ご飯を作ったりしてあげます。
すると、あとでお母さんが済まなそうに抱きしめてくれるので、それほど面倒なことではありません。
ある日、あやめが学校から帰ってくると、お父さんが玄関で靴を履いていました。傍らに大きな銀色のケースを置いて、いまにも外に出そうな雰囲気です。
「お父さん、どこにいくの?」
「少し遠くに行ってくる。あやめ、お母さんをよろしくな」
「わかった。いってらっしゃい」
「頼りにしてるよ。お前は本当にすばらしい子だ」
お父さんが、あやめのうなじをゆっくり撫でました。くすぐったくて、少し笑ってしまいます。そのとき、何かが落ちるような音がして、お父さんがあわてて手を離しました。急いでドアをしめ、外で車が走り去る音が響きます。
あやめは、ため息をつきました。お父さんが家を出ると、お母さんはとても悲しむからです。彼女は、お母さんの様子を見に居間に向かいました。
居間は、玄関から廊下をまっすぐ進んだところにあります。そこここに、服や読みかけの本が散らばっていました。それは、おとぎ話しのようにお父さんの部屋に続いています。
あわてて用意したせいで落としてしまったのでしょう。書斎のドアだって開けっ放しです。いつもは、鍵をかけてだれもいれてくれないのに……。
あやめは、しばらくドアの前で立ちすくんでいましたが、結局好奇心に負け、おずおずと部屋のなかに入りました。
四方を本棚に囲まれた小さな部屋です。刀に関する本や実際に鍔を収集した袋が、床に乱雑に置いてあります。
壁際の棚には、刀型のフィギュアや模造刀がほこりひとつなく並べてありました。なかでも目を引くのは、机のうえにある白い布です。まるで、その下の刀が一番大事なのを証明するようでした。
あやめはおそるおそる刀に近づくと、ゆっくり布を取り去りました。そして、思わず息をのみます。もちろんその刀はとても美しかったのですが、驚いたのはそれが理由ではありません。
何故なら、刀から藍色の煙が出てきたのです。それは、金色の鱗粉をまき散らしながら、ゆっくり形を形成しました。純白の足袋に、草履。次に、灰色の袴が現れ始めます。
最後に不思議な文様が描かれた狩衣が形作られると、そこにはあやめと同じくらいの少年が立っていました。髪に金色の飾りを差した、美しい子どもです。
でも、ちょっと意地が悪そうね、とあやめは思いました。彼は、見下すような目つきでこちらを見ていたからです。
「そこな醜い女(め)の子。ここはどこだ。平安の世ではないな」
「平安じゃなくて、平成よ!」
あやめは、いらいらして大声を出しました。クラスの誰より美しい少年に醜いと言われたのがショックだったのです。ちなみに、あやめはまだ八歳だったので、平安時代のことを知りませんでした。
「豚のような男がおれを盗みおったわ。お前、彼の男に少し似ておるな」
あやめは、顔を青くしました。お父さんが、持っていた銀色のケースを思い出したからです。そして、男の子は刀から姿を現しました。
「つまり……あなたは刀のおばけ? でも、ここにあんたがいるってことは、お父さんは何を持っていったの?」
「あの男は、間違いなくおれの本体を盗んでいったさ。ただ、女の子には奇妙な力があるらしいな。模造刀を形代に、おれを呼び出すとは……」
男の子はあごに手をあて、考えました。
「――女の子、おれの世話をせよ。光栄に思うといいぞ」
「いやよ!」
あやめは叫びました。
「自分の面倒は自分で見るべきだわ」
「お前の父親が、おれを盗んだ。つまり、お前がその責任を取るべきではないか?」
「どうして、わたしがお父さんの責任を取らなくちゃいけないの。自分のことは自分でなんとかしなさいよ!」
あやめは勢いよくドアを閉め、その場にうずくまりました。ぼた雪のような涙が盛り上がり、床を濡らしていきます。
「わたし、醜くなんかないもん」
しばらく、自分に言い聞かせるようにつぶやきます。少しして、袖で涙を拭いて立ち上がりました。今日は、午前授業なのでお昼はあやめが作らなければいけません。
居間の扉を開けると、案の定お母さんは泣いていました。机に両肘をついて、その間に額をつけています。
このポーズのときは、お母さんが自分の苦しみにふけっている証拠です。あやめはできるだけ、彼女を刺激しないようにキッチンへ向かいました。
「だれか来てるの?」
「ええっと」
あやめは驚いて言いよどみました。まさか、お母さんに話しかけられるとは思わなかったのです。そのとき、罰の悪そうな顔の少年が居間の前に立っていました。
「クラスの子だよ」
「どこにいるの?」
「居間のドアのところに立ってるじゃない」
「ふざけないで。誰もいないでしょ」
おかあさんがうんざりしたようにため息をつきました。
「あなたまでお母さんをばかにするのね。悲しいわ……」
「違うわ。よく見て。ちゃんといるわ!」
「いい加減にして!」
お母さんは、燃える目であやめをにらむと、うつむいてブツブツつぶやき始めました。「いつものことよ」とか「もう、うんざり」とか言う声が聞こえます。
あやめは呆然とその姿を見ていましたが、やがて乱暴な足取りでキッチンに入りました。冷蔵庫の前の台に登ってなかを確認します。開けっ放しの牛乳のにおいをかぎ、うめき声をあげ流し場へ。
そして、他にいくつか異臭のしたものをゴミ箱につっこみ、最終的に卵とチャーハンの素を抱えて飛び下りました。
炊飯ジャーを開け、冷ごはんを確認します。お茶碗二杯分くらいでしょうか。これで、お昼ご飯はなんとかなりそうです。
あやめは、フライパンに油をしき手早く調理を始めました。
十分ほど経つと、キッチンはチャーハンの香ばしいにおいでいっぱいになります。あやめは、カップに熱湯を注ぎ、即席のかき玉スープを作りました。
それらをお盆に載せ、居間に持っていきます。本当は自分のぶんもお母さんに前に置こうと思ったのですが、それはできません。
あやめは、横目でキッチンを伺いました。冷蔵庫の前の台に、青い狩衣の少年が立っています。
彼は、見よう見まねで冷蔵庫を開けようとしているのですが、ワンタッチ方式のドアを引くばかりで、一向に開きません。やがて、踏ん張りすぎたせいで、台から転げ落ちてしまいました。
あやめは、先ほどの少年の態度を思い出し、必死に気の毒に思わないようにしました。しかし、よろよろ立ち上がって台に登る姿を見ると、どうしてもそう思ってしまうのでした。
それに、少年は失礼でしたが、間違ったことは言っていません。残念ながら、お世辞にもあやめは可愛くないし、父を引き留めなかったことにも責任がある気がするのです。ただし、本当に彼は無礼でしたが……。
そのとき、少年がまた台から落ちそうになったので、反射的に彼を受け止めてしまいました。床に折り重なって倒れます。
「触るな。無礼者め!」
「じゃあ助けないほうがよかった? 痛いほうが楽しかったとか?」
皮肉っぽく言うと、少年が悔しそうに目をそらしました。どうやら、彼は育ちがよさそうなので、逆らわれるとうまく対処できないようです。
「お腹が減ったの?」
沈黙。
少年が、あやめを無視しました。腹は立ちましたが、ここで怒っても何も変わりません。
「わたしのチャーハンを分けてもいいわよ」
「その飯はとっくに冷めているではないか。冷めたものは飯とは言えんな」
「じゃあ勝手にしなさい!」という言葉が喉奥まで出て来ます。しかし、あやめはそれを必死に飲み下しました。ため息をついて、冷凍庫にしまってあるご飯を出します。
「おにぎりでもいいかしら?」
チン!と鳴った電子レンジからラップに包んだご飯を取り出し、ちょうどいい量を茶碗に取り分けます。そこに鮭フレークをかけしゃもじでかき混ぜました。
「これは、いつもお前がやっているのか?」
「まあね。お母さんの元気がないときは、いつもわたしが作ってるわよ」
「なるほどな」
少年は底意地が悪い顔つきで笑いました。
「じゃあ、握り飯を作るときの秘訣を教えてくれないか」
「そうねえ。事前に手を何度も叩いておくと麻痺してあまり熱くないわ」
少年は、意外そうに目を見開きました。本当は、よく料理を作るなんて嘘だと思っていたからです。少しして、あやめは手慣れた仕草で梅干しと鮭のおにぎりを完成させました。
そして、折り畳み式の椅子を二脚持ってくると、キッチン台をテーブルに少年と並んで座りました。あやめの前には、冷めたチャーハンとかきたまスープ。少年の前には、サランラップで包んだ梅と鮭のおにぎり。
お世辞にもすばらしいとは言えない昼食に、あやめは少年を伺いました。我がままな少年なら、怒っておにぎりを捨てるのではないでしょうか。
しかし、それは余計な心配でした。おにぎりを一かじりしたとたん、少年は冬眠明けの熊みたいにがつがつ食べ始めたのです。
あやめは驚きましたが、さっきの偉そうな態度よりずっとマシだわ、と考えました。そして、ご飯を食べ終わる頃にようやく、あやめを話す価値がある存在として認めたようでした。
「なんで、お母さんにはあんたが見えないの?」
「お前の力が足りないからだ。いまはほとんど顕現しているが、只人に見えるほどではないということだろう」
「どうしたら見えるようになる?」
「小うるさい女の子だ。そんなこと、おれが知るはずなかろう」
少年が、いら立ったように首をふりました。
あやめは、スポンジで食器を洗いながら考えます。まさか、夢を見てるんじゃないわよね。
しかし、そうは思っても二膳ぶんの食器や無くなった冷凍ごはんは存在するのです。むしろ、彼がお母さんに見えなくてラッキーかもしれない。あやめは、できるだけいい方向に考えるようにしました。
「女の子よ」
とつぜん、少年があやめを呼びました。言いよどむように口を開けたり閉じたりして、ようやく覚悟を決めたように尋ねます。
「何故、おれの飯を準備したのだ? 自分のことは自分で面倒を見ろと言ったではないか」
「でも、あんたは自分でやろうとしたでしょ。だから、作ってあげたの」
「なら、最初から作れ」
「いやよ。少しも努力しない人をなんで助けなくちゃいけないの」
少年は不満そうな顔をしましたが、結局なにも言いませんでした。その姿を見ていたあやめの顔に悪戯っぽい笑みが浮かびます。彼女は、洗い終わった皿と布巾を指さしました。
「つまり、わたしのご飯を食べるためには働かなくちゃいけないってこと!」
「天下五剣で最も美しいと言われるおれに、雑用を命じるのか」
「じゃあ、ご飯も作ってあげないし、おいしいお菓子もあげない! あんたはずっとお腹ペコペコでいるの」
少年は射殺すような目つきであやめをにらみました。しかし、彼女も負ける気はありません。しばらくにらみ合い、根負けしたのは少年のほうでした。深いため息をついて、皿を拭き始めます。
あやめは、彼が台所に立つ姿を見て胸が高鳴りました。こんな風にだれかと台所に立ったのは初めてです。それにいままで静まり返っていた家も、彼がいるおかげでだいぶ賑やかになりました。
憎たらしいけど、しばらくなら置いてやってもいいわ、とあやめは考えました。実は我がままな性格のせいで、こんな風にだれかと長く話したのすら初めてだったのです。
「わたし、あやめって言うの。あんたは?」
少年は鬱陶しそうにあやめをにらみつけました。彼の目は冬の氷のように澄んだ青で、その周りを三日月が囲んでいるようです。あまりの美しさにあやめは息をのみました。
「みだりに神の名を問うものではない」
「じゃあ、なんて呼べばいいのよ」
「勝手にしろ」
「じゃあ、名無しの権兵衛って呼ぶわ。いい? 権兵衛」
少年は嫌そうに顔を歪めました。それから、小声で何事か言います。あやめはもちろんそれが聞き取れたので、心からの微笑を浮かべました。
「三日月、これからよろしくね」