三日月と出会ってからというもの、あやめの生活は一気に変わりました。学校から帰ったとたん、三日月がいる書斎に直行してその日あったことを話します。
三日月はときどきひどい意地悪を言いましたが、同じくらいあやめも我がままを言ったのでお互いさまです。二人には、いままで友だちというものがいなかったので、それぞれが友だちになったことにちっとも気づきませんでした。
その日、あやめは三日月と一緒に近所のスーパーで買い物をしていました。冷蔵庫の中身が、ついに空っぽになったのです。
あやめは、買い物カゴの重さにうんざりしてため息をつきました。
「ねえ。あんたは親切って言葉を知らないの?」
「べつに手伝っても構わぬぞ。ただし、おれが持つとカゴが浮く」
「もう! どうしてあんたは他の人に見えないの!」
あやめは、舌打ちしながら棚の後ろにある牛乳を取りました。賞味期限が長いものは、たいてい奥のほうにあるのです。
「何度も言ったが、お前の力が足りないせいだ」
「それでも見えるんだから、わたしはすごいのよ!」
「いいや。時が経てば、お前にだって見えなくなる」
「どういう意味よ!」
「おそらく、おれが見えるのは未通女のうちだけだ」
あやめは、首をかしげました。
「未通女……?」
三日月が嫌そうな顔で黙ります。考えこむような間があり、しぶしぶこたえました。
「つまり、結婚していない女のことだ」
「なら心配いらないわ! わたし、一生結婚しないもの。だから、あんたとはずっと一緒ね」
「ぞっとする未来だな」
あやめはしかめ面で、三日月を小突きました。
そのとき、五歳くらいの女の子が走って来て、三日月にぶつかりました。勢いのあまり、床にひっくり返ってしまいます。彼女は、驚いた顔で三日月を見上げ、彼の袴にしがみついて泣き出しました。
ときどき、こんなことが起こります。つまり、三日月はあやめだけに見える存在ではありませんでした。
街を歩いていると、子どもが彼を指さしたり、話しかけてくることだってあるのです。その度、あやめはうれしいような腹立たしいような複雑な気持ちになりました。
子どもは三日月の袴を引っ張って、どこかに連れていこうとしています。三日月は無表情で、その手を払おうとしました。
「何してるのよ!」
「子どもに縋られても困る」
「あのねえ、あんたには親切心ってものがないの?」
あやめはため息をついて、子どもの前にしゃがみました。
「どうしたの?」
「風船、飛ばしちゃった」
「風船?」
子どもが、泣きそうな顔で天井を指しました。豚の影絵が描かれている看板と赤地に黒で肉のジャンボ市!と書かれたのぼり。その二つに挟まれるようにして、青い風船がひっかかっています。
あやめは、爪を噛んで考えました。自分の身長では肉が置かれた台によじ登っても風船には届かないでしょう。ため息をついて、三日月を見上げました。
「三日月、あの風船に手が届く?」
「さあな。やってみなければわからぬ」
「じゃあ、やって」
三日月は眉をひそめました。瞳のなかの三日月が細くなり、怖くてたまりません。しかし、あやめは子どもが悲しむのを知らんふりするのはいやでした。少し口ごもったあと、ぼそぼそつけ加えます。
「お願いします。取ってあげてちょうだい」
「お願いお兄ちゃん!」
沈黙。
三日月は無言で二人を見比べると、猫のような身軽さで台に登りました。縁をつかみ、大きく背伸びします。
一度、手が空を切ってバランスを崩しそうになりました。二度目、今度は無事に風船を掴むことができます。三日月は青い風船を片手に、音もなく着地しました。
「受け取れ」
少女は、満面の笑みで風船をもらいました。右手に風船、左手に三日月の袴を掴んで幸せそうです。
そのとき、隣りの鮮魚コーナーから若い女性が走ってきました。女の子を見て安心したように、息を吐きます。彼女は、少女を叱りつけると、あやめに向かって頭を下げました。
「ご迷惑をおかけしました」
「そんなことないです」
「きれいなお兄ちゃんが、風船を取ってくれたのよ」
「ばかね。かわいいお姉さんでしょう」
女性は、申し訳なさそうにあやめを見ました。しかし、あやめは全く気になりません。女の子が言っているのは、三日月のことなのです。
女の子はお母さんと手を繋いでスーパーを出ていきました。去り際、三日月を振り返って「ありがとう、お兄ちゃん!」とお礼を言います。自動ドアが二人の姿を隠すように閉まりました。
「奇妙な女の子だ。道具に礼を言ったぞ」
「それはそうよ。だって、いまのあんたは人間のように見えるもの。それに、助けてもらったらお礼を言うのは当然だわ」
「お前には、言われたことがないな」
あやめは、唇をとがらせました。三日月の言うことが正しかったからです。本当は何度か試そうとしたのですが、いままでお礼を言ったことも言われたこともなかったので、どんな風に言えばいいかわかりませんでした。
「わたしだって、お礼くらい言えるわ」
小声でつけ足します。
「たぶん」
三日月は探るような目つきであやめを見ていましたが、そのうち興味をなくしたようにそっぽを向きました。
スーパーからの帰り道、あやめは荷物を持たない三日月に文句を言いながら早歩きしていました。お父さんがいなくなってから、お母さんはずっと塞ぎこんでいます。そのため、夕食を作るのはあやめの担当でした。
「誰ぞいるな。客人か」
三日月が無表情で玄関を指さしました。確かに背の低い人影がいくつか見えます。あやめは走り出そうとしましたが、彼らが誰かわかったとたん急ブレーキをかけました。
あやめの家は南欧風の造りになっています。まっ白な壁に、窓を囲む色鮮やかなピータイル。若草色のドアにはドライフラワーのリースがかかり、玄関わきには観葉植物が置いてあります。
あやめと同じ学校の制帽をかぶった少年たちが、玄関に立っていました。彼らは押し合うように固まり、何か企んでいるように見えます。それが何か、あやめはすぐ検討がつきました。
足が震え、呼吸が苦しくなります。それでも彼女は、立ち向かわなければいけません――お母さんを守るために。
「家になんの用かしら?」
あやめが進み出ると、少年たちが歓声を上げました。あっという間に彼女を取り囲み、囃したてます。
「お化け屋敷の子どもだぜ!」
「ぼく、初めて見た!」
「思ったより普通だな」
彼らのなかから、リーダー格の少年が進み出ました。あやめは、彼を知っています。いつも取り巻きを連れては、気の弱い者を甚振る問題児でした。
「肝試しに来たんだよ。あっち行けブス!」
「わたしは、ブスじゃないわ!」
「ソバカスがあるのは、みんなブスだ」
「今日は強気ね。頼りになる取り巻きがたくさんいるからかしら?」
少年は、顔を真っ赤にしました。仲間たちの前でばかにされたのが気に食わないのです。
「母親がいかれてると、子どもの頭までヘンなんだな」
「お母さんは、いかれてなんかないわ!」
「いいや。いかれてる」
少年は、反応されたのがうれしくてにやにや笑いました。
「うちの母さんが言ってたぜ。お前の母親は、ウツビョーで精神病院に通ってるって」
「違うってば!」
「おい、ウツビョーキンが移るぞ!」
彼らはあやめがむきになって否定するほど、面白がるようでした。遠巻きにして嘲笑い、涙目になっていくあやめを囃したてます。
ついにこらえきれなくなって、その場でうつむいてしまいました。コンクリートに、水滴がぽたりぽたりと落ちていきます。
そのとき、ユリ型の玄関ランプにヒビが入りました。そしてラップ音のような音がしたかと思うと、小石が浮き上がり少年たちにぶつかります。彼らは口々に悲鳴をあげ、我先に逃げ帰っていきました。
「助けたつもり?」
あやめは、険しい顔で振り返りました。後ろで、三日月が小石を弄んでいます。
「勘違いするな。お前を助けたわけではない」
「じゃあ、なんであんなことしたの?」
「早く『れいとうこ』に入れねば、おれの『ぱぴこ』が溶ける」
三日月は、本心からそう言っているようです。彼は、三日月の瞳を細くしてあやめを見下ろしました。
「礼を言わないのか?」
「言うわけないでしょ!」
「なぜだ?」
「あんたなんか大っきらい!」
あやめは、地団太を踏みました。八つ当たりの言葉が、口から飛び出していきます。
「あんたみたいにキレイで強い人には、わたしの気持ちなんかわからないよ!」
「なぜ?」
「わたしはあんたと違って弱いから! あっちに行って!」
しかし、三日月は立ち去りませんでした。それどころか、身をかがめてあやめの顔をのぞきこみます。
「女の子、とっておきの秘密を聞かせてやろう」
「いらない」
「聞け」
三日月は珍しく真摯な声で言いました。
「実は、おれはそれほど美しくない」
「――あんたはキレイよ。自分でよく言ってるじゃない」
「ああ」
三日月はうなずきました。
「つまり、おれが言いたいのはそのことについてだ。もし、おれが美しく見えるなら、それはおれが自分を美しいと信じているからだ。自分を信じてそれらしく振る舞えば、全てがその様になる」
「だから?」
「いいか。お前がお前自身を信じてその様に振る舞えば、どんな風にもなれるんだ。つまり、誰より強くなることだって、できる」
あやめは、まじまじと三日月を見上げました。
「わたし、強くなりたい」
「なら、自分がそうだと思いこむことだ」
「やってみる」
あやめは涙を拭いて、いじめっ子たちが消えたほうを見つめました。それから大声で叫びます。
「あんたたちなんか、ちっともこわくないわ! つぎ会ったら、ぜったい後悔させてやる!」
すると、心の重みが少しだけ取り除かれたような気がしました。いますぐ変わることはできませんが、こんな風に練習すればいつか本当に強くなれるはずです。
「三日月」
「なんだ」
「ありがとう。助かったわ」
三日月は、目を丸くしました。そしていままで一番、真剣な表情をします。
「もう一度、言え」
「なにを?」
「礼を」
「ありがとう、三日月」
「……ああ」
彼はしばらくあやめを見下ろしていましたが、やがて有無を言わせず買い物袋を奪い取り玄関の向こうに消えていきました。
その後ろ姿を見ると、いままで感じたことがないような、甘やかでしっかりした気持ちが湧いてきます。春の風や太陽に照らされた日なた、そして、ひな鳥の羽毛のような……。
彼女は、両手で頬を挟み初めて感じる甘やかな気分にうっとりしているようでした。しかし、電線にとまったカラスが鳴くと、首を振って三日月のあとを追いかけました。