それからしばらくの間、あやめにとって幸せな日々が続きました。三日月は相変わらず意地悪でしたが、あやめの話しをきいて反応を返してくれる存在がいるのは素晴らしいことです。
そのため、彼女は父親のしたことを誰にも言いませんでした。そんなことをしたら、三日月がいなくなってしまうかもしれません。二人で生活するのが当たり前になったいま、再び一人ぼっちの生活に戻るのは何より辛いことでした。
土曜日の朝。ご飯を食べてすぐ、洗濯物を取りこむのがあやめの日課です。本当は掃除機も一緒にかけたいのですが、お母さんが昼頃まで眠っているのでできません。
あやめは洗濯カゴを抱えて、縁側から居間に入りました。テーブルにひじをついた三日月が退屈そうにテレビを見ています。彼はあやめに気づくと洗濯カゴを奪い、代わりに運んでくれました。
たたんでいなかったタオルをテーブルに置き、無表情でこちらを観察します。あやめはうんざりして、ため息をつきました。
「礼を言わないのか?」
「言わないわよ! 一緒に住んでる以上、家事を手伝うのは当たり前のことなの!」
「そうか」
三日月は、さして残念そうな顔もせずうなずきました。
あやめは、彼との生活をとても気に入っていましたが、嫌な点がないわけではありません。
そのうちのひとつが、何か手伝うたび、お礼を求められるようになったことです。とはいえ、彼が求めるのは物ではなく、言葉なのですから、意地を張ってお礼を言わないあやめも悪いですね。
二人が黙々と洗濯物を畳むなか、テレビの音だけが響きます。あやめがノルマを畳み終わって隣りを見ると、三日月の手が止まっていました。
「ちょっと、ちゃんとやりなさいよね」
「おい、女の子」
三日月は、あやめを無視してテレビを指しました。
「あの二人はどうして口吸いをしているのだ」
「口吸い?」
意味が分からず画面を見ると、男女の濃厚なキスシーンが目に飛び込んできます。あやめは奇声をあげて民放のニュースに切り替えました。
「朝からなんてもの見てるの!」
「さあ。やっていたからつけた」
「変なもの見ないでよ。恥ずかしいでしょ」
「口吸いは恥ずかしいか。だが、『てれび』のなかの人間は喜んでしていたぞ」
「それは、好きな人同士でしてるから!」
「好き?」
三日月は、首をかしげました。
「それはどういう心持ちなんだ?」
「それはつまり……」
あやめは口ごもって目をそらしました。そのことについて説明するのも照れくさいのに、よりにもよって三日月に言うのはひどく恥ずかしかったのです。しかし、彼女はなぜ自分がそう思うのか、よく考えませんでした。
「とても温かい気持ちだと思うわ。そして、この世界の何より、自分よりも相手を大切に想うの」
「じゃあ、お前はどんな男が好きだ?」
「あんたには関係ないでしょ!」
沈黙。
あやめは顔を真っ赤にすると、できるだけなんでもないようなふりをしました。
「優しい人が好きよ。いつも穏やかに笑っているの」
「お前とは正反対だな」
「ぜったい、いまみたいな意地悪を言わない人!」
三日月は鼻で笑うと、あやめの頬に触れました。それは意外なほど丁寧な仕草でしたが、どこかいらだっているようにも感じました。
「お前も、いつかだれかを好きになるのだな」
「そんなの知らないわ」
「人の子とはそういうものだ。誰も愛さずにいられまい」
そう言って、冷たい手があやめの目じりをこすりました。
「そのときが来たら、餞別に目玉をもらっていくぞ。手のひらにのせて、ずっと眺めていよう。お前が、おれを見ているようだから」
青い瞳のなかの三日月が、浮かび上がるように輝きます。それが、あまりに美しかったのであやめは息を止めて彼に見惚れました。
だれかが身体をくすぐっているようなむずがゆい感覚。このまま彼の目を見ていると、自分がなにか別のものに変えられてしまいそうです。
しかし、やがて少女は目を閉じ、黒手袋の大きな手に頬を寄せるのでした。
とつぜん、部屋のなかに大きくインターホンが響きます。あやめは、我に返って三日月を突き飛ばしました。
「お客さんだわ。行かなくちゃ!」
少し駆けだして、振り返ります。
「あとで、三日月に言いたいことがあるの」
「いま言えばいい」
「こういうのは、ちゃんとした雰囲気で話したいのよ!」
あやめは無邪気に微笑むと、玄関に走っていきました。そして、ドアを開けたとき、彼女の微笑は凍りつきました。
幸せな生活に、ついに終わりが来たとわかったからです。
夜。暗い部屋の中心で長い巻き毛の少女が三角座りをしていました。居間は、椅子が倒れ、割れた食器が散らばり、まるで泥棒に荒らされたようです。
そして、何よりおかしいのは、彼女の家が静まり返っていることでした。いつもは、この時間になるとお母さんが居間のテーブルに座って、ドラマを見ている時間帯なのです。しかし、そこにはだれいませんでした。
黄金の燐光を放つ少年が、うずくまる少女の後ろに立っています。長い間、見ていましたが、彼女がいっこうに泣き止まないのでそっけない声でききました。
「いつまで泣いているつもりだ?」
「あっち行け!」
あやめは、落ちていたタオルを投げつけました。しかし、三日月は眉をひそめてそれを受け止めると、彼女の頭に被せました。
「泣いても弱い気持ちになるだけだろう。強くなるのではなかったのか?」
「無理よ! だって、お母さんが連れて行かれちゃったのよ!」
「これは、面妖なことだ」
三日月が冷たい声で言います。
「あの女は、お前になにもしなかったではないか」
「それでもいいのよ。お母さんなんだから、そこにいてくれるだけでいいの」
あやめは、膝がしらに頭を埋めてすすり泣きました。今朝のことが、こう水のように蘇ってきます。
とつぜん、黒い背広の男たちが、家に押し入ってきたのです。彼らは、あれよあれよといううちに、二階にあがり、お母さんを捕まえました。
そして、声高にお父さんの行方を尋ねます。お母さんが知っているはずないのに……。もし、知っていたらお母さん自身が探しに行ったことでしょう。
結局、弱気の虫が出て、お母さんは泣き出してしまいました。しかし、彼らはジジョーチョーシュのために容赦なくお母さんを連れていきました。
あやめは、テーブルのうえにあるメモをにらみつけました。そこには、お母さんのお母さんの家の電話番号が書いてあります。ただ、あやめは彼女に会ったことすらありませんでした。世界中で一人ぼっちになった気分です。
「もう、どうすればいいかわからないよ!」
「――父親を探しに行くか?」
三日月が、淡々とした声で言いました。
「無理よ。どこにいるかもわからないのに……」
「おれにはわかる」
「ウソ」
「嘘ではない。お前の父親は、おれの本体と一緒だ」
あやめは、思わず顔を上げて三日月を見ました。いつの間にか、目の前に立っていて、何を考えているかわからない無表情を浮かべています。
「本当に、お父さんの場所がわかるの……?」
「わかる」
「お父さんを説得して、あんたの本体を返せば、きっと全部元通りになるわよね」
三日月は、それにはこたえてくれません。けれど、あやめはみるみるうちに元気を取り戻しました。
「決めたわ。わたし、お父さんに会いに行く!」
品川のホテルで錫婚式の食事をした帰り、急に夫がもよおして、駅のトイレに立てこもってしまいました。次の次に来る電車が、最終です。女はため息をついて、時計台に寄り掛かりました。
結婚して十年のつき合いなので、彼の胃腸が驚くほど弱いことはよく知っています。それに、彼がストレスでお腹をこわしてしまうことも。
実は、彼が今日のためにパールのペンダントを準備してくれたことも気づいていました。しかし、レストランでは周りの目が気になって渡せなかったのでしょう。
絶好のチャンスを逃した自己嫌悪で、トイレにこもっているというわけです。しかし、女はそんな彼の臆病な部分でさえ愛していました。
(あと五分経っても出て来なかったら、電話しましょう)
そのとき、大きなリュックを背負った少女がその重さによろめきながら階段をのぼってきました。
灰色のケープを黒いリボンで結び、下はえんじ色のスカートと濃茶のブーツ。頬にはソバカスが散っていて、妖精みたいな顔つきを引き立てています。
彼女は誰もいないところで栗色の巻き毛を振ったり、地団太を踏んだりしました。そして、女がいることに気づくと、罰の悪そうな顔で近づいてきました。
「すみません。桜木町にはどう行ったらいいですか?」
「桜木町?」
「はい」
女は、長い巻き毛の少女を見下ろしました。おそらく、十歳かそれより少し下くらいです。そんな子どもがどうして、深夜の駅にいるのでしょう。
しかも、こんなに大きな荷物を持って……。女は、心配そうに子どもを見つめました。
「こんな夜中に外に出て、お母さんは知ってるの?」
「いまは、いません」
「嫌なことを聞いてごめんね。じゃあ、お父さんは……?」
「これから、会いにいくところです」
女は、じっと少女を見つめました。嘘はついていないようですが、本当のことも言っていないというところでしょう。そこで、彼女の怯えるような瞳に既視感を覚えました。
しばらくして、女は安心させるように微笑みました。
「なら、安心ね。あそこにある、一番奥の電車に乗ればつくわ」
「わかりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。お父さんによろしくね」
「はい!」
少女は、どこか緊張したような笑みを浮かべて去っていきました。それと同時に、男性用トイレから夫が走って出て来ます。
「ごめんね。ちょっとお腹をこわしちゃったんだ」
「あの子、貴方に会う前のわたしに似ていたわ」
「だれのこと?」
「あの女の子よ」
夫は、彼女が指した方向を見て眉をひそめました。
「まだ小さな子どもじゃないか。親に連絡しなくちゃ」
「いまから、お父さんに会いに行くそうよ」
「こんな夜更けに?」
「ええ。嘘はついていないように見えたわ」
夫は迷うように女と携帯電話を見比べ、やがてため息をつきました。
「あなたの勘が外れたことはないからなあ」
「それにあの子、大人に怯えていたわ。おおかた、親が原因よ」
「親?」
「ええ。親が必ずしも子どもの力になるとは限らない」
「――あなたのように?」
「そう」
女は、少女の背中を見つめながら、うなずきました。
「でも、幸運なことにわたしには親以上にわたしを助けてくれる人がいた」
「ぼくは、あなたを愛しただけです」
「ばかね。愛情は、何よりも強い力を持っているのよ」
そう言って、夫のポケットからパールの首飾りを取りあげました。
女には、少女も近いうち何よりも強い力を得るだろうことがわかっています。青い目の美しい子どもが、少女と話している間、こちらを射殺すような目で見ていたからです。彼は、少女が傷つくことをぜったいに許さないでしょう。
つまり、少女はこの世で最も強い力――愛情を手に入れているのでした。