閉まりかけたドアに滑り込み、あやめたちはなんとか終電を逃さずにいられました。曜日と線路のおかげか、乗っている人はほとんどいません。二人は、ドアにほど近い向かい合わせの席に座りました。
「ねえ、どうしてそんな難しい顔をしてるの?」
あやめは、しかめ面の三日月をのぞきこみました。駅につく前までは普通だったのに、いつの間にか何か考えるように黙ってしまったのです。三日月は、険しい顔のままつぶやきました。
「さっきの女は、おれの姿が見えていたようだ」
「それが? 結婚してなかったんじゃないの」
「いいや。あれは生娘ではない」
「そう。でも、素敵な発見だわ! だって、それなら結婚しても三日月を見ることができるでしょう」
三日月が能面のような顔でこちらを見ました。
「結婚するのか?」
「わからないわ。いままでは、ぜったいしたくなかったけど、最近いいなあって思うようになったの」
「なぜ?」
「だって、結婚するってことは、わたしのことを気にしてくれるわけでしょ。世界に一人でも、自分を気にしてくれる人がいるって素晴らしいことだわ」
三日月が鼻で笑いました。窓枠にひじをついて、馬鹿にしたように言います。
「女の子の戯言だな。もっと実現できそうな夢を見よ」
「うるさいわねえ。じゃあ、いいわ。わたし、お金持ちになる!」
「どうしてだ」
「だって、お金持ちになったら、たくさん召使ができるでしょ。つまり、その人たちはわたしのことをいつも気にしてくれるはずだわ」
「なら、疾くおれを顕現させろ」
三日月が優しい声で言いました。
「いまのおれは往時の半分以下の力しかない。平安の世をようやく思い出せるくらいだ。しかし、本来の力を取り戻せば、お前の願いなど簡単に叶えられよう」
「べつにいらないわよ!」
「そうか。人の姿なら、してやれることも増えると思うのだが」
あやめは目を丸くして三日月を見つめました。そして次に顔を真っ赤にして怒りだします。
「あんたって本当にいやなやつ! そう言えばわたしが、頑張ると思ってるんでしょう」
「さあな」
「だいっきらい!」
そう叫んで、窓の外に目をそらします。オフィス街を過ぎ去り、ちょうど住宅地の横を走っているようです。ときどき光る踏切りの赤いランプが、不安を増長していきます。あやめは思わず、両腕をさすりました。
「寒いのか?」
「そういうわけじゃないの。でも、きっとお父さんがいるところは寒いわね。風邪をひいちゃうわ」
「そうはならないだろうな」
「なんでよ? 言っておくけど、わたしはばかじゃないからね」
「ああ。お前には、おれの狩衣を貸してやろう」
あやめは、思わず半眼になりました。先ほどから、この少年はどうしたのでしょう。
「なに企んでいるのよ。どうして、急に優しくなったの?」
「そうだったか?」
三日月は、不思議そうな顔をしました。
「おれはなぜ、お前に優しくするんだろう?」
「知らないわよ!」
「教えてくれ」
「わからないってば。でも、普通は嫌われたくないからでしょう」
「ちがう」
三日月は首を振りました。
「おれは、お前に嫌われても困らない」
「あ、そう。じゃあ、わたしが寒くて死んだら、困るからじゃないの!」
「――そうか。確かに、この目が二度と開かなくなると、困る」
黒手袋の大きな手が、驚くほどの慎重さであやめの頬を撫でていきます。まるで自分の手に、あやめの頬の感触を覚えさせるような熱心さでした。
胸のなかに、またあの甘やかでしっかりした気持ちが湧いてきます。いまのあやめは、この気持ちがなんなのかよくわかっていました。なので、この時間だけ三日月の手にうっとりするのを自分に許したのでした。
桜木町駅からしばらく歩いた鉄橋のうえで、あやめは震えながら両腕を擦っていました。少し前に三日月がここで待っているように言ったのですが、なかなか戻ってこないのです。
まさか、わたしを置いていったわけじゃないわよね、とあやめは不安になりました。初めて会ったときよりだいぶマシになりましたが、三日月はときどきひどく意地悪なのです。
オレンジ色の街灯に照らされ、少年が歩いてくるのが見えました。胸に三日月紋のある狩衣を着ています。あやめは、思わず彼のもとに駆け出しました。
「もう! いったいどこ行っていたのよ!」
「そう怒るな。受け取れ」
少年は涼しい顔でそう言い、あるものを手渡しました。缶入りのコーンスープです。外気との差が激しいせいで、缶からは湯気が立っていました。
「あんた、お金持ってたっけ?」
「持ってない」
「じゃあ、これ、盗んだの!?」
「盗んでない。持って来たまま返さないだけだ」
「それを盗んだって言うのよ!」
あやめは大声を出しましたが、三日月は知らんぷりです。ちゃっかり自分のぶんまで持ってきて、蓋をあけていました。
その飄々とした姿を見ていると、怒っているこちらがばからしくなってきます。結局、あやめはため息をついて、あとでお金を払いにいこうと決意したのでした。
鉄橋の上に並び、二人で夜景を眺めました。対岸のビルの光が川面に反射し、赤やオレンジ、白と色とりどりに輝いています。
空は不思議なほど大きな満月が出て、その周りを小さな星々が飾っていました。間違いなく、あやめが今まで見てきたなかで一番美しい景色です。
「きれいね」
「これが? 天地の狭間のほうがずっと美しいぞ」
「いいなあ。いつか見てみたい」
「なら、いつかおれが招いてやろう」
「ありがとう」
あやめは橋の欄干を掴みながら、こっそり三日月を盗み見ました。
「もしかして、スープを持ってきてくれたのはわたしのため?」
「人間は寒いと死ぬんだろう」
「場合によってはね」
「駅を降りてから、ずっと手を擦っていた。さっき気づいたが、おれはお前が死ぬのが嫌みたいだからな」
三日月は、温かくも冷たくもない手であやめの手を取りました。それから、無言で歩き始めます。しばらくの間、あやめが何度呼んでも返事をしてくれませんでした。
二十分ほど歩くと、オレンジ色にライトアップされた大きな建物が見えてきました。欧州風の赤レンガ造りで、三階建て。屋根は濃紺、窓には黒い格子がかかっています。
目と鼻の先にある海から、波が波止場に当たって砕ける音が響いてきました。
実は、少し前からあやめの手は小刻みに震えています。それは、寒さのせいだけではありません。心に芽生えた不安が、彼女を押し潰そうとしていたからです。
とうとつに、三日月が立ち止まり、道の先を指さしました。
「ここから十分ほど真っ直ぐ行ったところに、おれの本体がある」
「どうしてそんなこと言うの? わたしたち一緒に行くんでしょう」
「おれは行けない。これから先は、ひとりで行くんだ」
三日月は、繋いだ手を空中に差出しました。それを見て、思わず引きつった悲鳴をあげてしまいました。
彼の手から地面が透けているのです。あわてて両手で、半透明の手を擦り合わせました。しかし、時間が経つにつれ、明度はどんどん上がっていきます。黄金色の燐光が、蛍のように舞い始めました。
「どうして!?」
「お前の父親が、本体に何か仕掛けているんだろう。依代が無事でも本体が壊れては、どうにもできまい」
「いやだ! 消えないで!」
あやめは、思い切り三日月に抱きつきました。青い狩衣からは、お香の香りとほんのり、あやめの家のにおいがしました。
「お願い。わたしを一人ぼっちにしないで!」
「――ようやくわかった」
背中に腕が回され、痛いほど強く抱き寄せられました。やわらかい髪が、あやめの頬をくすぐります。
「おれは、お前に惚れてほしくてたまらないのだなあ」
それは、一瞬の出来事でした。三日月の紅をひいたような唇があやめのものを塞ぎ、勢いよく突き飛ばしました。
不気味なほど大きな満月を背に、三日月が泣き笑いのような表情を浮かべます。
「好きだ」
そして、彼は消えてしまいました。
波止場にあやめの絶叫が響きました。何度も迷子のように三日月の名を呼びます。けれど、そっけない少年は二度とこたえてくれませんでした。あやめは、スカートが汚れるのも構わず、ずっとひざまずいて泣いていました。
どれくらい時間が経ったでしょうか。栗色の髪の少女は、まだ泣きじゃくっていました。
彼女は自分が思っていたよりずっと、三日月のことが好きで、彼を心の支えにしたのです。あやめは、母親と同じように弱気の虫に取りつかれそうになりました。しかし、そのとき三日月の言葉が脳裏をよぎりました。
(お前がお前自身を信じてその様に振る舞えば、どんな風にもなれるんだ)
あやめは、三日月に強くなると誓いました。ここで、泣き虫になるのは三日月との約束を破ることです。落ち着くと、頭がようやく正常に働き始めました。
さっき、三日月はなにか『仕掛けている』と言ったわ。つまり、まだ壊れていないなら、可能性はあるわね。
あやめは、涙をふいて立ち上がります。そして、彼が示した方向に全速力で駆けていきました。
あやめは、走りました。道端の街灯がまるでハイスピードカメラのように、後ろに過ぎ去っていきます。道を間違える心配はありません。三日月の黄金色の燐光が、目印のように行き先を教えてくれました。
ようやく燐光が途切れたのは、住宅街の外れにある木造アパートでした。建てられてから相当年数が経ったようで、表面の白いペンキが剥がれ、コンクリートがところどころむき出しになっています。
あやめは呼吸を静めながら、二階の角部屋のインターホンを鳴らしました。
しかし、いつまで経っても返事がありません。あやめは、眉をひそめてドアノブをひねります。すると、不気味な音をたてて扉が開きました。
彼女はしばらく困った顔で周りを見回していましたが、やがて覚悟を決めたように室内に滑り込みました。
「お父さーん! わたしだよ!」
室内は、なにか饐えたようなにおいがします。あやめは、ハンカチを取り出して鼻に当てました。
暗闇のなか、視界に光るものが映ります。もしかしたら、あれが三日月でしょうか。あやめは、ポケットからスマートフォンを取り出し、部屋を照らします。
そして、それらを見たとたんうずくまって、胃の中のものを吐しゃしました。
そこは、まさしく刀たちの墓場のようです。六畳ほどの床のほぼ全部に折れた刀が突き刺さり、そうでなくても修復不可能なほどに壊された刀が放り出してありました。
しかも、それらはすべて三日月宗近を模したものです。
あやめは、一刻も早くこの異常な空間から抜け出したいと思いましたが、本物の三日月を見つけるまで逃げるわけにはいきません。
また一歩、部屋のなかに入りました。すると、部屋の角に紫色の座布団があり、その上に抜き身の刀があるのに気づきます。あやめは何故か、ひと目でそれが自分の探していた三日月だとわかりました。
「三日月!」
喜び勇んで彼に触れようとしたとき、後ろからものすごい力で床に倒されました。あやめを縫いとめるように四肢を押さえつけます。
暗闇のなか、犯人がベース型の輪郭であること、ニンニクを煮詰めたような強烈な口臭の持ち主であること、そして豚のように肥えていることがわかりました。
つまり、彼が誰か、あやめはすぐ理解しました。
「お父さん。こんなこと、もうやめようよ」
「あやめ……」
ソーセージのような指が彼女のうなじを撫でました。
「お父さんはね、いまとっても怖いんだ」
「怖がる必要はないわ。警察まで一緒に行ってあげるし、ちゃんと謝れば許してくれるわよ」
「ありがとう。あやめは、強いんだね」
「うん。とても強いの」
「じゃあ、お父さんにあやめの強さを分けてくれないかな?」
暗闇のなか、お父さんの瞳が輝いたようでした。彼の目は血走り、表面にぬるぬるした膜が張っています。うなじから差しこまれた指がゆっくりとフリルのついたブラウスのなかに入っていきました。
「お父さん?」
シィーッと蛇のような音をたてて、あやめをなだめました。
「おれには、あやめとこうなることが昔からわかっていたよ。お前は強いから、きっと受け入れてくれるはずだね……」
大丈夫。大丈夫だから……。お父さんは、何度もそうつぶやきながら、あやめの身体を押し開いていきました。
この世で最もおぞましいことがあやめの身に降りかかったあと、彼女は糸の切れた人形のように全裸で部屋の隅に放り出されました。
美しいケープやブラウスは破られ、ぐちゃぐちゃになって畳のうえに丸まっています。男は、室内を歩き回りながら小声でずっと言い訳をつぶやいていました。
「おれは悪くない。お前が邪悪な強い力で誘惑してきたんだろう。おれは、最後まで抗おうとしたが、負けてしまった。肝心なのは、誘ったのはお前で、お前が、おれよりずっと強い力を持っていたということなんだ。邪悪な魔女め」
彼は、あやめの枕元にある三日月宗近を見つめました。天下五剣ならば、おそろしい魔女も祓うことができるかもしれません。男はゆっくりそれを引き抜き、暗闇に白刃を閃かせました。
小さな部屋で、裸の少女が血を流して倒れています。彼女を切った男は、汚れた刀を床に放り投げたところで時を止めていました。
静止した空間のなかで、一人の男が姿を現します。彼は、あやめの血と嘆きを吸って、顕現することに成功しました。三日月紋の狩衣を着た男は、ごっそり表情の抜けた顔で、あやめを見下ろしました。
彼女は、辛うじて意識があるようでかすれた声で言いました。
「――そこにいるの? 見えないわ。三日月……」
男は、あやめの枕元に立っています。けれど、処女でなくなった彼女には、もう三日月を見ることはかないませんでした。
「寒いよう。お願い、狩衣を……」
そう言って、あやめは静かになりました。震える手が彼女の頬に触れ、温もりを戻そうと何度も必死に擦り続けました。
「あやめ……」
しかし、背の高い男がいくらそうしても、少女の頬はもとの薔薇色を取り戻しません。三日月は子どものように取り乱し、どんな滑稽なことでもいまの自分にできることならなんだってしました。
そして、ようやく悟りました。彼女がこのまま死ぬのだろうということを。三日月は、その場に立ちすくみました。重すぎる絶望が彼の身を蝕み、どうすればいいかわかりませんでした。
彼は、あやめのようにわがままな女を知りません。彼は、あやめのように意地悪な女を知りません。そして彼は、あやめのように無邪気で明るく健気な女も知りませんでした。
彼はもう、あやめのことについてしか考えたくありませんでした。
三日月はようやく衣を脱いで少女に被せると、衣ごとあやめを抱きしめました。彼の涙の一滴があやめの頬に伝って、落ちました。
三日月は、もうとっくに覚悟を決めていました。この歴史は、間違っているのです。彼は愛おしそうにあやめに頬ずりすると、その身体から魂を抜き取りました。
さて、この魂を抱えて、どの時代へ行こう。三日月は、どこでもいいように思えました。彼女が幸せに暮らせて、その傍らに少しでも自分がいるなら構いません。
「おれは、お前のためならなんだってしよう」
それが、嘘つきな三日月のたった一つの真実です。
そういう風に、世界は改ざんされました。