へし切長谷部は、審神者から借りた眼鏡をかけ、帳簿をつけていた。彼の正面では、審神者が『のーとぱそこん』を使い、政府に提出する書類を準備しているところだ。長谷部は、そろばんを何度も弾いて、あることを確認すると目の前の少女に視線を向けた。
「長谷部、なにかあったか?」
「はっ、お仕事中申し訳ありません。ただ、少し玉鋼の減りが目立つように思いました」
「目立つか」
「はい。忠義のないやつは、妙な邪推するかもしれません」
「わかった。以後気をつけよう。長谷部がいて助かるよ」
「もったいないお言葉です」
審神者は満足そうにうなずくと、再び『のーとぱそこん』に向かった。おそらく、いま作成している書類もいくらか内容を偽っているのだろう。
彼女は、ときどき本丸の資源をどこかに横流ししているのだ。長谷部は、審神者がだれにそうしているか知らないが、おそらく敵方に違いないと考えていた。彼女は甘いところがあるので、彼らに同情したのだろう。しかし、長谷部はそれを咎めるつもりはなかった。
長谷部は、天井を見上げて眉間をもんだ。長時間事務仕事をしたせいで、眼が疲れているのだ。
「長谷部、蒸しタオルだ」
「ありがとうございます」
審神者からタオルを受け取り、両目にあてた。ほどよい温かさが張りつめた筋肉をほぐしてくれる。彼は、しばらくその気持ちよさを堪能していた。
「長谷部、質問していいか?」
「なんでもどうぞ」
彼女はテーブルの上にひじをついて、長谷部を見つめていた。
「あなたは、わたしのしていることを理解しているね。何故、なにも言わないんだ?」
「おれは他の無礼者と違って、いかなるときもあなたに従うからです」
「たとえ、わたしが間違っていても?」
「いいえ。主のすることで間違えはありません」
「長谷部」
審神者は困惑した顔で、首を振った。
「たとえばの話しだ。わたしが間違っていたら?」
「主は決して間違えません」
「あのなあ……」
長谷部は、彼女を真っ直ぐ見て伝えた。
「つまり、主の行動はすべて正しいんです――少なくともおれにとっては」
彼女はしばらく沈黙し、長谷部の言いたいことを正確に理解したようだった。どこか寂しそうに微笑み、うなずいた。
「あなたは、すばらしい臣下だな」
「ありがとうございます」
長谷部は深く礼をしていたので、審神者が空っぽな笑みを浮かべたのに気づかなかった。しかし、万一顔を見ていても、それが彼女の苦しみの表出だとは理解できなかっただろう。
それ以来、審神者は長谷部を近侍にすることが多くなった。古参のメンバーはそれを訝しがっていたが、さっぱりした気性の刀剣が多いため、それほど問題にはならなかった――一人をのぞいて。
ある日の夕方。長谷部が愛読書を居間に置いてきたのに気づいて、廊下を歩いていたときのことだ。ちょうど審神者の私室の前を通りがかったとき、開けっ放しの障子から言い争う声が聞こえてきた。
かん高い少女の声は主で、もう一つ、やわらかな男の声は鶴丸国永のものだ。しかし、珍しいことにそれはいつもの飄々とした響きではなく、どこかいらいらしているように聞こえた。主を本丸の壁に押しつけ、何ごとか迫っているようだ。
「鶴丸国永。即刻主から離れろ」
恫喝しながら入って来た長谷部に、鶴丸は口笛を吹いた。おそらく、自分が廊下にいたことも気づいていたに違いない。
「こりゃ驚いた。男女の修羅場に首つっこむのは無粋ってもんだぜ」
「男女?」
「おれと主さ」
鶴丸はわざとらしく審神者にしなだれかかったが、彼女は素早くその腕から逃れた。そして、私室の障子を全開にすると、廊下を指さした。
「出てって」
「長谷部が?」
「あなたがよ!」
審神者はいまにも地団太を踏みそうだった。
「いますぐ行って。そして、もう二度とわたしを惑わさないで」
「惑わしていないさ。そう感じるのは、内心、おれのほうが正しいと知っているからだ」
「あなたと話していると、頭がヘンになりそう」
「きみはいま、間違った道を歩んでいる。だから、“ヘン”になるのは正しいってことさ」
鶴丸は悠然と障子の前まで歩いて来ると、彼女の横で立ち止まった。
「気づいていなかったら驚きだ。きみは、きみが思うよりずっとおれが大好きなんだぜ」
鶴丸は、意味ありげな流し目を送り、彼女の髪から垂れ下がっているリボンに口づけた。そして、障子がしまる音が響き、室内には長谷部と審神者の二人きりになった。
気づまりな沈黙。
やがて、審神者がおずおずと口を開いた。
「妙なものを見せて悪かった」
「いいえ」
と言ったものの、長谷部はがっかりしていた。彼の主君が、鶴丸国永の前でつまらない小娘のように振る舞っていたからだ。長谷部の主は、いつも尊大な態度で、だれにも心を開くべきではない。
「あなたの主として相応しくない行動だった。お詫びと言ってはなんだが、なにか願いごとはあるか? わたしにできることならなんでも叶えよう」
長谷部はもちろん、いいえと答えようとした。けれど、彼女の髪を結ぶ臙脂色のリボンを見ると急に考えが変わった。
「おそれながら、一つお願いがございます」
「うん。言ってくれ」
「髪紐を変えてください」
「これを?」
「はい」
審神者は一瞬名残惜しそうに触れたが、それを振り切るように勢いよくリボンを解いた。なびく黒髪を撫でつけ、袴の袂を漁る。彼女は、望むものが見つからない様子で眉をハの字型にした。
「なにをお探しですか?」
「代わりの髪紐を探しているんだ」
「でしたら、こちらをお使いください」
長谷部は、万屋でオマケ!と押しつけられた髪紐を差し出した。藍色のガラス玉があしらわれた紫苑色の紐だ。
審神者は礼を言って受け取るとさっそく髪を結び始めた。しかし、髪紐を使い慣れていないせいで、なかなか上手くできない。そのうち、見かねた長谷部が代わりに彼女の髪を結ってやった。
「失礼ですが、主は鶴丸国永を寵用しているんですか?」
「寵用?」
「特別な感情から、彼を格別の臣として扱っているのですか?」
「まさか」
化粧台に映る彼女が笑った。心から面白がっているような笑みで、嘘をついているようには見えない。
「あいつは、ぜったいわたしに従わない。それに格別の臣下なら、もういるからいいんだ」
「だれです?」
長谷部の胸に焦りが生まれた。彼が彼であるために、たとえ主がどんな人間でも一番の臣下でなくてはいけないからだ。しかし、少女は長谷部が結んだ髪紐に触れ、鏡ごしに優しく微笑んだ。
「あなただよ」
「――ありがとうございます」
一瞬、心臓が耳元で鳴っているかのように大きく響いた。それは、長谷部の硬質な心が少し溶け、やわらかな部分がのぞいた証拠だ。
しかし、彼は無防備な顔を晒したことを恥じ、二度とそんな気持ちになりたくなかった。
しばらくののち、茶色がかった髪の男が頭を下げ、審神者の私室を出た。そして、すぐそこの柱に寄り掛かる男に気づいて、顔を歪めた。
「鶴丸国永か」
「よっ、驚いたか」
彼は相変わらず内心のうかがえない笑みを浮かべ、長谷部を見つめていた。
「盗み聞いていたのか」
「そんなつもりはないぜ。ただ、ここにいたら『偶然』聞こえてきたんだ」
「この逆臣め」
「おっと。そいつはおれのセリフだ。きみは、主が何をしているか気づいているだろう。なぜ止めない?」
「おれは主の命に従うのみだ」
「こいつは驚きだ」
鶴丸は、ため息を吐いた。
「一期や歌仙が近侍になりたがっても断られるわけだな」
「そんなはずがない。彼らは近侍の地位に執着していないように見えた」
「もし本心から言ってるなら、大馬鹿野郎だぜ」
「なんだと?」
鶴丸があきれたように肩をすくめた。
「近侍を外されて、不満のない刀剣がいると思うか?」
「だが、外されたからには理由があるのだろう。自業自得だ」
「彼らは資源の横流に気づき、主のためにそれをいさめた――きみとちがって」
「だからなんだ? 主命を果たすのは臣下の務めだ。分不相応なことをするから、罰をうける」
鶴丸は目をすがめて、長谷部を見た。いつの間にか、本丸の提灯に灯りが入り、彼らの影を長く伸ばしていた。
「自覚がないなら教えてやるが、きみは主のためではなく、自分のために忠誠を捧げているんだ」
「おれが刀に手をかける前に消えろ。鶴丸国永」
「だから、きみは彼女がなにをしても従っていられる。主が道を違えようと正さない。何故なら本当の忠義とはなにか、きみは知らないから」
「消えろ!」
長谷部が刀を振り下ろしたとき、鶴丸はもうそこにいなかった。驚くほど大きな満月を背にして、庭先に立っていた。
「率直に言うと、他の本丸で、他のきみが、他の主に、なにをしても関係ない。だが、おれの主を傷つけたら、八つ裂きにして骸を厚樫山に吊るしてやる」
鶴丸は驚くほど冷たい視線をこちらによこすと、庭の奥に消えていった。彼の姿が見えなくなったとたん、長谷部は手の甲で首回りを拭った。あまりの殺気に冷や汗が流れたのだ。
彼は悔しそうにこぶしを握ると、勢いよく柱を殴りつけた。