ライラックに殉死せよact 002

 数日後、事態は急転直下を迎えた。第一、第二部隊が出払っている間、本丸に遡行軍が大挙して現れたのだ。

 長谷部はやっとのことで主殿を抜け、土蔵に何重もの鍵をかけて審神者と籠城していた。しかし、少し前から土蔵の扉がにぶい音をたて軋んでおり、突破されるのも時間の問題かもしれなかった。

 唯一幸運なのは、審神者が恐慌状態を起こしていないことだ。彼女は、冷静な面持ちで揺れる扉を眺めていた――ついさっきまで。
 いまや彼女は緑色の冊子を見て、肩を震わせていた。そこには、力強い筆文字で『忠誠マニュアル』と書かれている。それが、長谷部の愛読書であり“忠誠”の指針でもあった。

 彼はいつもそれを持ち歩いていたので、今回も懐に入れっぱなしにして忘れていたのだ。ところが、大立ち回りをした際落とし、審神者に拾われてしまったのだった。彼女は冊子をめくり、随所随所でこらえきれないように噴き出していた。長谷部は隣りでそれをぶすっとした顔で見つめていた。

「それほど面白いですか」
「悪い。ばかにしているわけじゃないんだ。ただ、この本は少し誇張されているぞ」
「どこがですか?」
「たとえば、“人間には最適な睡眠時間が決まっているので、一秒も遅れず適性時間に起こすこと”とか」
「そうだったのですか……」

 長谷部が目を丸くすると、審神者は年相応の女の子のように笑った。それを見て、彼はびっくりした。彼女がそんな風に笑うのは、たいてい鶴丸と一緒にいるときだったからだ。

 しかし、今日は長谷部が彼女をそんな風にした。そう思うと、不思議と胸のあたりが温かくなり、無意識に頬が緩んでしまう。ただ、その感情は自分らしくない気がしたので、彼は必死になんでもないふりをした。

 少女はひとしきり笑ったあと、再び審神者らしい顔を取り戻した。

「ごめんなさい」
「なぜ謝るんですか?」
「いつか、このような日が来るとわかっていたからだ」

 彼女は遠くを見るような瞳で言った。

「妹が敵方の人質に取られている。彼女を生かすには、物資を融通するしかなかった」
「そうだったんですか」
「ああ。だが、わたしはもう用済みらしいな。どちらにしろ、こんな騒ぎになってはおしまいだ」
「おれたちは、どうなるんです」
「安心してくれ。引き取り手は決まっている。新しい主は、あなたが仕えるに足るすばらしい人間だ――わたしよりずっと」

 彼女は、後任者の経歴を簡単に説明してくれた。審神者の言う通り、申し分のない人間だ。また、この譲渡は彼の主の不始末によるものなので、長谷部の矜持を傷つけることもない。

 いつもの自分ならば、表面上固辞しても彼女の人事に異論はないはずだった。むしろ、自分の忠誠にふさわしい主のもとに行くことを喜んだだろう。しかし、実際そう考えようとすると、何故か審神者の無邪気な微笑を思い出して二の足を踏んでしまうのだった。

 そのとき、ひときわ大きな音を立てて、土蔵の扉が軋んだ。彼女はそれを一瞥し、覚悟を決めたように長谷部を見つめた。

「だから、これから言うことは、あなたの主としての言葉ではないぞ。いいか?」
「はい」

 少女は、肩の力を抜いて笑った。

「ずっと言いたいことがありました。長谷部さんには、色々な経験をしてほしいってこと!」
「色々な経験?」
「苦しみを癒す方法は、“主”への忠誠だけではないということです」
「――どういう意味です?」
「長谷部さんに、恋をしてほしい」
「はい?」

 長谷部の顔が盛大に引きつった。

「そして、友だちを作ってほしい。愛も友情もきっと心を豊かにするから」
「それになんの意味があるのです? 過去は変わらないのに」
「その通りです。でも、過去に負った傷は癒せるし、愛や友情はその特効薬です。きっと長谷部さんを助けてくれると思う」
「おれには、わかりかねますね」
「だいじょうぶ」

 少女は、反論しようとした長谷部の手を両手で包んだ。

「わかります――あなたなら」

 彼女のやわらかい笑顔を見たとき、長谷部の身体に奇妙な現象が起きた。心拍がとつぜん激しくなり、少女の顔を見るのが恥ずかしくてたまらない。しかし、それと同じくらい彼女を見て、彼女の声を聞き、彼女に声をかけてもらいたかった。

 ただ、その衝動は生まれたのと同じくらい急に消えた。蔵の扉が悲鳴のような音をたて始めている。長谷部は、先ほどまでの甘やかな気持ちを捨て、少女の前に立った。

「お守りいたします」
「ありがとう」

 少女は強張った手つきで短刀を取り出した。

「わたしもあなたと自分を守る」
「冗談でしょう?」
「冗談ではありません。むしろこの状況で、武器を持たないほうが危険だと思います」
「主が帯刀しているとは知りませんでした」
「――大好きな人がくれたんです」

 彼女は、赤いリボンを出し柄と手を結びつけると、手の甲の布に口づけした。その仕草は、ある人物を彷彿とさせる。長谷部はわざと厳しい声を出した。

「来ます。構えてください!」
「はい!」

 錠が砕け落ちたとたん、遡行軍が扉を破って押し入って来た。


 薄暗い土蔵のなかで、白い衣装を血に染めた青年が横たわる少女に触れている。
 まるで硝子細工に触るときのように繊細な手つきだ。少女の頬に飛ぶ血痕を繰り返し擦る姿は、いっけん彼女を慰めているようにも見えたが、実際はその躯に縋っているだけだった。

 長谷部は土蔵の壁に寄り掛かり、鶴丸が連れてきた増援が勝ちどきをあげるのを聞いた。

「よくもこれほどの短時間で、支援部隊を呼べたものだ」
「そりゃあ、これが遠征の目的だったからな」

 鶴丸は少女の顔から目をそらさずこたえた。

「主は、自分の過ちを告白して刀剣男士の保護を求めるつもりだった。昨日、“何者”かが歴史修正主義者の手から主の妹を助け出したから、連中に従う必要はない――罪悪感と肉親の情の板挟みに苦しむことも……」
「なぜわかる?」
「わかるさ。ずっと見ていたから」

 鶴丸は、苦しそうな声で言うと彼女の腰に手を回して抱え上げた。そのまま、土蔵を出て行こうとする。

「待て……!」

 長谷部は慌てて身体を起こした。

「どこに行くんだ!? 本丸の浄化が終わり次第、すぐ後任の審神者が来るんだぞ!」
「関係ないね。おれの主はこの女だ」
「……『二君に仕えず』というつもりか?」
「ちがう」

 鶴丸は、彼女が抱えている短刀と解けないように巻かれたリボンを見下ろして悲しそうな顔をした。ゆっくり顔を近づけて、触れるだけの口づけ。

「惚れた女と添い遂げるのさ――ああ、やはり講談のようにはいかないものだ」

 彼は、眠る少女と額を合わせてつぶやいた。

「幾千、幾万の夜をともに過ごそう。きみが微笑みかけてくれるまで、夜明けは来ない。おれの……」

 そう言って、彼は長谷部の主を抱いてどこかに消えてしまった。伸ばした手は空を切り、あとには、ただちぎれた髪紐が落ちているだけだ。長谷部は、床を這いずりながらそれを拾い、目元に押しあてた。

 彼は自分が想像以上にショックを受けているのが不思議だった。彼女は、長谷部に相応しい主ではなかったからだ。前の主に比べて非力だったし、情が強すぎる。

 次に迎える主のほうがずっと自分に相応しいはずだ。早くこの土蔵を出て、新しい審神者のために――自分の地位のために本丸を整えておかねばならない。

 しかし、目蓋の裏に少女の子どもっぽい微笑みばかりが浮かんで、立ち上がることすらできなかった。主が、鶴丸によって連れて行かれてしまった。

 いずれ彼の神域で目を覚ますのだろうか? もちろんそんなことはない。彼女は死んでしまったのだから、鶴丸は静かな躯の横で永久のときを過ごすはずだ。長谷部は、そうなればいいと思った。彼らが幸せに笑いあう姿なんて、ぜったい見たくない。たとえ、彼女が長谷部の主でなくても……。

「ああ」

 土蔵の床に寝そべり、腕で溢れる滴を覆い隠した。

「そういうことか」


 しばらくして、二振りの刀が足りないのを不審に思った審神者が土蔵の扉を押し開けた。しかしそこには、敵の刀の残骸が転がっているだけで探している刀剣男士の姿はない。彼は、首をひねりながら、他の場所に走って行った。

 結局、本丸が元通りになっても件の二振りは見つからず、そのまま永久に行方知れずになってしまった。


「長谷部さん!」

 目を覚ますと、夢より少し幼い少女が勢いよく彼を抱きしめた。長谷部は咄嗟に彼女を受け止め、ここがどこだか思い出そうとした。

「ああ、よかった! 長谷部さんと鶴丸さんが前田くんたちを庇って重傷だと聞いたときは息が止まるかと思いました」
「すみません……」

 そこで、ようやく長谷部はいままでの経緯を思い出した。とつぜん見たこともない敵が、彼らの前に現れたのだ。連中は鶴丸や長谷部の練度でようやく倒せるような相手で、短刀が攻撃されたら一たまりもない。

 もちろん長谷部は弱いものは折れても仕方ないと考えていたのだが、そうなると目の前の少女が泣いてしまう気がした。不思議なことに、彼はぜったいに少女に泣いてほしくなかったのだ。

 腕のなかの主は夢の彼女のように男らしい口調をしていなかったし、少し小さかったが、長谷部は二人が同じ少女だとわかっていた。あの夢は、もしかしたら神の力が見せた“可能性”なのかもしれない。
 長谷部は、彼に抱きついたまま肩を震わせる少女に尋ねた。

「鶴丸国永は、もう起きましたか?」
「はい。一時間くらい前に。でも、神気の乱れがひどくて、ついさっきまで一緒でした。優しい人だから、前田くんのことが恐ろしかったんだと思います」
「――ああ。なるほど」
「長谷部さん、ありがとうございました」

 彼女は長谷部の胸に顔を押しつけたまま言った。

「前田くんを助けてくれてありがとう。そして、ごめんなさい」
「なにを謝るんです?」
「あなたの優しさに気づけなかったこと」
「お言葉ですが、おれは優しくなんかないですよ」
「ウソ」

 少女は、いたずらっぽい笑顔で長谷部を見上げた。

「自分より相手を大事にするのは、優しいってことです」

 反射的に、彼女を強く抱きしめていた。喉奥から熱いかたまりがせり上がって来て、その熱で肺が焼けそうだ。彼は我に返って離れようとする審神者を留め、掠れる声でつぶやいた。

「一つ、叶えてほしい願いがあります」
「はい」
「あなたに恋をしてもいいですか?」

 彼女の瞳が、大きく見開かれた。
 長谷部はその目を見つめたまま、ゆっくり顔を近づけていった。

 長谷部の胸には、いまも大きな風穴が開いている。それは誰にも塞げないが、少女は彼の空洞になにか素晴らしいものをたくさん詰めてくれた。それらがあまりに優しい重さをしているので、彼は以前よりずっと冷静に風穴をのぞきこむことができる。

 きっと次に主を失ったとき、忠義とは別のものが死ぬだろう。けれど残酷なことに、彼の心も彼自身もきっと存続し続ける。思い出のなかの少女が、彼の自棄を決して許さないはずだから。


 とある昼過ぎ。
 長谷部は内番の青年たちが集めた木の葉の上に緑色の冊子を放り投げた。“忠誠マニュアル”の上にマッチの火が落ち、瞬く間に燃え広がっていく。

 彼はそれを無表情で眺めていたが、本丸で彼を呼ぶ声が聞こえたとたん、やわらかい笑みを浮かべて、そちらに走っていった。

 木の葉の山の頂点にある冊子は、しばらくの間、風でページがたなびいていた。しかし、そのうちそれすら炎に飲まれ、あとは少しの灰が残るだけだった。