モノノ アハレact 001

もの‐の‐あわれ〔‐あはれ〕【物の哀れ】

1 本居宣長が唱えた、平安時代の文芸理念・美的理念。対象客観を示す「もの」と、感動主観を示す「あわれ」との一致するところに生じる、調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したもの。その最高の達成が源氏物語であるとした。
2 外界の事物に触れて起こるしみじみとした情感。
(デジタル大辞泉より)


 初春の昼下がり。
 ボストンバッグを抱えたおさげの少女――審神者がえっちらおっちら坂を上っていた。幅が広い一本道で、両側は広大な草原。風になびく菜の花やその遠くに、未だ雪を被った尾根を見渡すことができた。

 ウサギが菜の花畑から顔を出し、風の音をきくように耳をぴくぴくさせる。しかし、彼女に気づくとどこかに逃げてしまった。

「驚かせちゃってごめんなさい!」

 審神者は早口で謝罪して、再び長い坂道を上り始めた。しかし、その歩調は先ほどよりずっと軽やかだ。この土地は美しい。審神者は“降りた”瞬間からここが大好きになった。

 だから、こんな美しい土地に住んでいる人もすぐ好きになるだろうと思ったのだ。
 もちろん、それは大きな間違いだった。


 高い天井の広間に通され、審神者は脱いだベレー帽を強く握った。

 お屋敷は煉瓦造り、高い尖塔が連なる洋館風だ。広間も吹き抜けで、右側には黒檀製の長いダイニング・テーブル、左側には真っ赤な絨毯に百合模様のソファが設置してある。
 そこで白っぽい髪の青年が偉そうにふんぞり返っていた。

「ええと……素敵なおうちですね。本丸って言うからてっきり、日本のお城を想像しちゃいました」
「最初はそうだったけど、主が改装したんだ。外国の建物に憧れたんだって」
「乱!」

 青年がぴしゃりと言った。すると乱はいたずらっぽく微笑み、ソファに寝そべった。

「だいたい予想がついているが、一応尋ねるぜ。きみはどうしてここに来たんだ?」
「ここの審神者さまが……」

 少女は唇を舐め、その言葉を言う勇気を出した。

「亡くなったので、わたしが派遣されました。一日でも早く一人前になるよう頑張ります。よろしくお願いします!」
「そうか。ぜひ、頑張ってくれ――お帰りはあちらだ」

 青年はいかにも興味なさそうに指を振った。しかし、いつまで経っても動こうとしない審神者に眉をひそめた。

「聞こえなかったのか――お・か・え・りは、あちらだ」
「わたしは、帰りません」

 審神者が硬い声で言った。

「三人目だから。あなた方が追い返した審神者は、わたしでちょうど三人目なんです」
「だから?」
「だから、このまま帰れば、本丸の刀剣(あなたたち)が刀解処分になっちゃうんです!」
「そりゃいい。サイコーだ」
「ええ。サイコーですよね……なんて言ったの?」

 青年は冷ややかな目で少女を見下ろした。

「刀解処分、おおいに結構と言ったんだ。おチビちゃん。おれたちは彼女だけの刀剣だ。きみを主にするつもりはない」
「つまり……つまり、そのために死んでもいいってこと?」
「だから、そう言ってるじゃん! 鶴丸、そんなヤツ早く追い出しちゃってよ!」

 吹き抜けから身を乗り出して、黒髪の少年がさけんだ。紅玉色の目に中性的な顔立ち、長い髪を一つにまとめている。彼は慌ただしく階段を降りてくると、審神者の全身を胡散臭そうに見分した。

「あのひとと全然ちがう。チビだし、ソバカスだし、野暮ったいおさげだし! おれのほうが、ずっとかわいいじゃん」
「ええと、すみません」

 審神者は素直に謝った。実際、前審神者はとても美人だったのだ。しかし、それが彼の機嫌を余計損ねてしまった。

「なんで謝るの? お前にプライドってものはないわけ?」
「もちろん、あるけど……」
「すぐ謝るヤツは信用できない。どうせお前も練度が高い刀のほうが扱いやすくて楽だと思ってるんでしょ」
「ちがいます」
「ち・が・わ・な・い!」
「加州、子どもっぽい真似はよせ」

 鶴丸が眉間のしわをもみながら言った。

「とにかく、十分ご理解頂いたと思うが、おれたちはきみを歓迎しない――永久に」
「歓迎してもらわなくて、だいじょうぶ」

 やわらかな微笑。

「認めてもらえるよう、勝手に頑張るもの」
「ああそう……少なくとも、おれは新しい審神者なんてごめんだぜ」

 鶴丸は鋭い目つきで審神者をねめつけると、早足で広間を出て行ってしまった。

「おれもごめんだね。あのひと以外の主は、認めない」
「加州くん。待って!」
「お前なんかに、名前を呼ばれる義理はないの」
「お願い。ちゃんと話しあえば、わかりあえるはずだよ」
「しつこいってば!」

 加州は素早くソファに視線を走らせると花柄のクッションを投げつけた。しかし、小さな衝撃を感じて、審神者はその場にうずくまってしまった。クッションのなかの異物が額にぶつかったのだ。

 加州はぼう然とした顔で、自分の手と少女を見比べた――そんなつもりはなかったから。
 しかし、目があうとみるみるうちに蒼ざめ、薄暗い廊下へ走っていってしまった。

「清光!」

 彼女が加州を追う前に、紺色の着物の少年が二階から駆け下りてきた。彼は少女の額を見て、気まずそうに目を伏せた。

「誤解してほしくないんだけど、お前を悪いひとだと思ってるわけじゃないよ。でも、だからこそ、出て行ってほしいんだ――乱、手当てしてあげな」
「はーい」

 審神者は混乱して、広間を去っていく背を見つめた。悪人だと思われていないなら、どうして出て行ってほしいのだろう……?


「うわあ、赤くなってる。そこ、座って!」

 乱はソファを指さすと、ガラス戸棚を開け、次々中身を引っ張り出していった。

「打ち粉は、ちがう。手入れ札もちがう。玉鋼は……もっとちがう!」

 審神者の足元に長方形の桐箱が飛んできた。丸型文鎮が行儀よく窪みにおさまっている。しかし、五つのうち、一つだけ欠けていた。

「これは……?」

 審神者は文鎮を手のひらにのせて見分した。陶器製でそれぞれ色合いも違う。よく見ると中央に家紋のようなものが彫ってあった。乱はソファに積んであったアルバムを蹴落とし、彼女の隣りに陣取った。

「主がくれたんだよ。元旦に書初めをしてるらしくて、みんなのぶんがそろってるんだ」
「らしい?」
「ボクは参加したことないから」

 乱はそっけなく言うとピンセットで脱脂綿をつまんだ。

「加州のこと、嫌いになった?」

 彼はおっかなびっくり、傷ついた額を拭った。それがあまりに優しい手つきだったので、審神者はひそかに驚いた。乱も当然、自分に出て行ってほしいのだと考えていた。

「ううん。優しいひとだと思う」
「優しい!?」

 審神者は小さく悲鳴をあげた。驚いた拍子に乱がピンセットを押しつけたのだ。

「ごめんね……でも、なんでそう思うの?」
「だって、加州くんはわざわざクッションを投げたんだよ。ソファには、硬いアルバムもあったのに」
「重しが入ってるのに、気づいてたのかも」
「そうは思えないけどなあ」

 乱がため息を吐いて、少女の鼻を弾いた。

「あなた、すごーく間抜けだよね。そもそも本当に優しいひとは、審神者を追い出さないし、物も投げないの!」
「乱ちゃんみたいに?」
「そう! ボクみたいに!」

 二人は顔を見合わせて笑い合った。親しくなり始めた者がそうであるように、不自然なほど大きい笑い声。しかし、二人はもうお互いが気の置けない友人になれるとわかっていた。


 白いレースのベッドに寝そべりながら、乱が大声をあげた。

「ねえ。掃除、まだ飽きない?」
「飽きない」
「ボク、紅茶飲みたくなっちゃった! “はろっず”の“ろいやるみるくてぃー”ね!」
「あとでね!」

 審神者は口に巻いたタオル越しに、大声でこたえた。本丸に精通する乱に、空いた客室を案内してもらったのだ。

 しかし、どの部屋も蜘蛛の巣や得体のしれない染みばかり! 一番マシな部屋を選んだが、そこもホコリがたっぷり積もっていた。

(廊下もネズミが行列で歩いていたし、このお屋敷を全部キレイにするのに、どれくらい時間がかかるんだろう!)

 少女はホウキと雑巾を抱えて、お屋敷を走り回る姿を想像した。きっとひと月やふた月ではすまないはずだ。

「もう休憩にしよう。ボク、退屈しちゃった」
「はいはい。わかりましたよ」

 審神者はため息をつくと、タオルを外して割烹着のポケットに押しこんだ。乱は歓声をあげて、おしゃべりする体勢を取った。少女は、彼の反応が少し不思議だった。

「もしかして、乱ちゃんはわたしに出て行ってほしくないの?」
「当たり前だよ!」

 乱は拗ねるように頬を膨らませた。ベッドにひっくり返り、間延びした声で言う。

「正直に言うと、あなたの前の二人だって出て行ってほしくなかったよ。みんな、悪いひとじゃなかったもん」
「そうだったの?」
「うん。それなのに、あの三人が追い出して……」
「待って。三人って、鶴丸さんに、加州くんに――あの男の子?」
「大和守?」

 乱が軽く頭を振った。

「ちがうよ。あいつは加州に振り回されてるだけだもん。審神者を追い出したいわけじゃない」
「じゃあ、だれのこと?」
「そのうちわかるよ」

 乱はそのことについて話したくないようだった。彼は言葉を選ぶように何度か唇を湿らせたあと、ふて腐れた口調で言った。

「そもそも、どうして刀が主に執着するわけ? それで使えなかったら、不良品だよ。意味ないよ」
「きっと、それが好きってことなんだよ」
「へーえ!」

 乱が鼻で嗤った。

「人間みたい」

――気づまりな沈黙。

 しばらく彼は毛布のフリンジをいじっていたが、ぼそぼそした声でつけ加えた。

「あのさ、ボクはこの本丸で一番顕現が遅いんだ。主が死ぬひと月前かな。あまりつき合いがないんだよ。だから、あいつらみたいに“彼女”に執着できない。ちょっと妬ましいよ」
「うん」
「だからね、あなた頑張ってよ! ボクは刀解なんてごめんだ。せっかく現世に顕現したんだもの。目いっぱい楽しみたいでしょ!」

 審神者は大きく目を見開いた。乱の言葉で、あることに気づいてしまったから。彼女は何食わぬ顔でうなずくと一階の調理場に逃げこんだ。