もちろん、調理場もたいそう不潔だった。
流し台には使用済みの食器が山積みで、小バエも飛び回っているし、もとが銀色の作業台は油で黄色っぽく変色している。
しかし、少女はそれらが目に写らなかった。ようやく、自分が大きな責任――彼らの命を背負っているのに気づいたからだ。
少女は、この本丸に自分のために来ていた。もちろん諦めるつもりはなかったが、万一そうしたらどうなるか、よく考えたことがなかった。
(つまり……わたしが乱ちゃんたちを殺すんだ)
そう考えると、あまりの恐ろしさに足が震えてくるようだった。彼女は両手で自分自身を抱きしめ、必死に弱い心を押し殺そうとした。深く息を吸って、彼女を守ってくれるものを想像した。粗末だけど温かいベッド、ページが抜けるまで読んだ本、誰より素敵なお姉ちゃん……。
そのとき、とつぜん寄り掛かっていた扉が開き、後ろ向きにひっくり返った。少女は痛みに耐えるよう目をつむったが、いつまで経ってもそれは訪れなかった。代わりに、どこか懐かしい香りの手が彼女を支えてくれた。
「これは驚いたな。小さいの、どこから迷いこんだ?」
「ええと……」
少女は思わず言葉を失った。彼があまりに美しかったからだ。瑠璃色の狩衣に霞色の袴。青い瞳には、不思議な三日月模様が映っている。男が初めて見るような目でこちらを見たので、少しがっかりした。
「わたしは新しい審神者です。まだ認めてもらえてないけど……」
「そういえば鶴丸たちがそんなことを言っていたな――いじめられたか?」
「いいえ」
審神者は急いで首を振った。
「ただ、失敗したら取り返しのつかないことがあって、それがこわくなったの。自分がやっていることが、大変なことだとわかったから」
「フム。では、諦めるか?」
「まさか!」
「うん。一度始めたことは最後までやりとげるべきだ。そうだろう?」
男は優しい笑顔で、頭をなでてくれた。彼女はうっとりして目をつむった。そんな風になでてもらったのは、子どもの頃以来だったのだ。できればずっとそうして欲しかったが、乱との約束を思い出しようやく自制することができた。
その後、乱所望のロイヤルミルクティーを作るのは困難を極めた。
そもそも腐っていない牛乳がコップ一杯分。使う小鍋のほとんどは穴が開いていたし、そうでないのはたいていネズミが快適そうに眠っているのだ。少女は悲鳴をあげながら調理場を走り回り、男は手をたたいて笑っていた。
やっとミルクティーと呼んで差支えないものができたのは、それからさらに三十分ほど経ったあとだ。少女は作業台横の椅子に疲れ果てたように座っていた。
「信じられない。無事な――食べても辛うじて死なないって意味だけど――食材がほとんどなかった」
「仕方ないさ。だれも気にしなかったんだろう」
「そうかもしれないけど……」
審神者は食材を戸棚にしまうと、ピーナッツ・バターを一瓶、男に押しつけた。
「これは?」
「相談に乗ってもらったお礼。片づけた権限で、一つくらいもらっても罰は当たらないと思う」
「――ふうん」
男は青いフタのガラス瓶を矯めつ眇めつしていたが、やがてにっこりほほ笑んだ。
「ありがとう」
その温厚そうな笑みを見ると、彼女はすっかり幸せになってしまうのだった。
西日が差しこむサンルーム。
鶴丸たちは不機嫌そうな顔で、それぞれの定位置についていた。
薄緑の籐椅子で片ひざを抱える加州、その横の大和守。三日月が退屈そうに窓辺に立っている。鶴丸ははす向かいのカウチから、二人の蒼ざめた顔を見つめた。
「あの女、主の後釜に座るつもりなんだ。早く追い出さないと……」
「だからって傷つけることないだろ。あの娘、まだ子どもだよ」
「わざとやったんじゃない!」
加州が震える声でさけんだ。
「なかに何か入っているなんて、考えもしなかった」
「もう少し頭をつかえよ。人間なんてちょっとしたことで死んじゃうんだ」
「わかってるよ!」
鶴丸はため息をついて、大きく手を叩いた。
彼らの口ゲンカはコミュニケーションの一種だが、ときどき度を超えてしまうのだ。いままでは別の人間が二人を諌めていた。しかし、彼女はもうどこにもいなかった。
「やめろ二人とも。例のチビは、乱が面倒をみてる。大事ないそうだ」
「――乱の裏切り者」
「やめなよ。ぼくが頼んだんだ」
大和守が咎めるよう言うと、加州は真っ赤な目で彼をにらんだ。
「お前も主を忘れるわけ? 乱も安定もどうしてそんな風に切り替えられるの? 主はあんなに素敵な女の子だったのに。おれは忘れない。新しい審神者なんて、ぜったい認めるもんか」
「勝手にすれば。でも、出口はそっちじゃないよ」
「便所!」
肩をいからせサンルームを出て行く加州を見送り、二人は顔を見合わせた。お互いの気苦労を労わる視線。やがて大和守は立ち上がり、外の花畑を見つめた。
「キレイだよね」
「ああ」
鶴丸は素直にうなずいた。屋敷までの一本道を囲むように、薄紫の薫衣草(ラベンダー)が咲いている。出陣のない日は、よく主を連れて行ったものだ。いまも目をこらせば、薫衣草(ラベンダー)畑に立つ彼女を見つけられるような気がした。
「主、よくあそこでスケッチしたり絵葉書を書いたりしてたよね」
「うん」
「葉書、だれに宛てたものなのか、結局教えてもらえなかった。鶴丸さん、すごーく気にしてたでしょ」
「悪いか。主があんまり熱心だったから、どこぞの男への恋文かと思ったんだ」
「だろうね。お前、主に恋してるから」
お互いの内心を探るための沈黙。
「――当たり前じゃないか。あんないい女、他にいるもんか」
結局、鶴丸は正直に白状した。大和守はからかうように微笑んだが、それは未だ悲しみの淵にいる鶴丸を慰めるための笑みだった。
しばらくして、彼は再び窓の外へ視線を戻した。
「そういえば、少し不思議な感じがしたんだ」
「不思議?」
「新しく来た女の子。あの子、ちょっと主と似てない?」
「どこが!? 目が二個あって、鼻が一個くっついてるところ? ついでに口と耳の数も同じだし、驚くほどそっくりだな」
「茶化さないでよ。そういう意味じゃなくて、理力の質が似てるってこと。わかるよね」
「ありえない」
鶴丸が吐き捨てるように言った。
「彼女は孤児だぜ。それに――主のほうが、ずっとキレイだ」
「わからずや。いまの鶴丸さんは冷静さを失って、物事をちゃんと考えられないんだ。主が見たら、びっくりするよ。まさか本気で、本丸を巻き込んで心中するつもり?」
「だったら、どうする?」
「べつに……」
大和守は、真正面から鶴丸をにらみつけた。
「ただ、軽蔑する」
西日が、彼の顔をオレンジ色に染めていた。鼻梁が複雑な陰影を描き、大和守を普段より大人っぽく見せている。鶴丸は、彼の平静さが不快でたまらなかった。
(主はもういないっていうのに、どうして取り乱さずにいられるんだ?)
かつて、この本丸はひとつの家族だった。刀剣たちは主を愛し、主もまた彼らを愛していた。しかし、彼らを繋ぎとめていたピースが欠け、いまや家族は崩壊寸前だった。
鶴丸だって、いまの自分が間違っていると理解している。しかし、どうしようもなかった。過ちを正すには、疲れ果ててしまったから……。
「ひどいよ。そこの便所、壊れてるんだもん。おかげで反対側まで行くハメになった――どうかした?」
「べつに」
大和守は戻って来た加州を見るとすぐ、あごでしゃくってサンルームを出て行った。
「なにあれ。どうして不機嫌なの?」
「さあな。追いかけてやれ」
「ええ! でもさ……」
加州は不満そうにその場に残っていたが、鶴丸が強引に背中を押してサンルームから追い出してしまった。加州のほっそりした後姿が徐々に見えなくなっていく。
しばらくののち、鶴丸は窓辺の男に恨みがましい視線を向けた。実は、先ほどから気になって仕方なかったのだ。
「それで三日月。さっきからこっちの話しも聞かず、なに食べてる」
「『ぴーなっつ・ばたあ』というものだ」
彼はガラス瓶に指をつっこんで、ひょいぱくひょいぱくをくり返していた。
「そんなに美味いのか?」
「そうだな――味がする」
「ああ、そうかい。これだから天下五剣ってやつは……」
しかし、鶴丸は彼の変わらぬマイペースに奇妙な安堵を覚えてしまった。それはひどい矛盾だ。
彼は自分の気持ちを誤魔化すように、無理やり手ぬぐいを押しつけた。三日月の口が脂でひどい有様なのだ。しかし、肝心の男は不思議そうな顔でそれを首から下げてしまった。
「お願いだから、口を拭いてくれないか。口を」
「驚いた。てっきり新しいお洒落かと思ったぞ」
「確かに、おれがきみをデコったら驚きだ。それより、その甘ったるいベタベタはどこで拾ったんだ? 腹を壊しても知らないからな」
「もらった」
「だれに?」
「小さきものに」
三日月は一瞬、得体のしれない笑みを浮かべた。しかし、それはすぐ彼特有の朗らかな微笑に変わったので、きっと何かの見間違えのはずだった。
「少し落ちこんでいる様子だったな。やり過ぎるなよ」
「よく言うぜ。きみもあのチビが邪魔だろう――なにが狙いだ?」
「狙い? そんなものはない」
三日月はにっこり笑った。
「すべては虚無だ」
その異常さに、鶴丸はみぞおちに氷の塊を押し当てられたような気分になった。彼はようやく気づいたのだ。三日月があまりに危険だ。少女がいなくなってから、そうなってしまった。もちろん、鶴丸たちもそうだが、不思議と三日月だけはマトモだと思いこんでいた。
鶴丸は新たな恐怖に立ちすくんだ。優しい少女だけではなく、のん気だが頼りになる男もいなくなってしまった!
翌朝。
審神者は長テーブルの家長席にひじをつき、準備した朝食が冷めるのを見つめていた。
昨晩は、乱と夜遅くまで盛り上がってしまった。そのため、彼が昼頃まで起きて来ないのは予想がつく。しかし、他の刀剣たちはどうしたのだろう。ついさっき、古い柱時計が十回鳴ったのだ。
(もしかして、刀剣男士ってみんな寝坊助なの?)
あきらめて朝食を片づけようとしたとき、階上でなにか大きなものが落ちる音が聞こえた。それはすぐバタバタという音に変わり、審神者のいる広間へ瞬く間に近づいてきた。
「あるじ……!?」
切羽詰まった顔で駆けこんで来たのは、昨日冷ややかな態度を崩さなかった鶴丸だった。
いくら寝起きでもひどい恰好だ。白い夜着がずり落ちて肩がむき出し、髪の毛は好き勝手なほうに跳ねている。そのうえ顔は青白く、ハロー! ぼく、ゾンビ! と言われたら、信じてしまいそうだ。
彼はしばらくぼう然とした表情でこちらを見ていたが、すぐ深いため息を吐いた。
「なんだ。きみか……」
「――鶴丸さん。おはよう」
審神者は、できるだけはきはきと挨拶した。昨日の(おそらく)最低な印象を少しでもよくしようと思ったのだ。しかし、彼は露骨に嫌そうな顔でおはようと返すやいなや、再び階上へ戻ろうとするではないか。
「待って!」
少女は慌てて腕をつかみ、その不健康な細さに驚いた。
「朝ごはんはあとで食べるの?」
「いらない」
彼が不機嫌の塊のような声でこたえた。
「きみの――飯なんぞ――食べるか」
「ごめんなさい。嫌いな献立があった? 教えてくれれば明日からちゃんと注意するよ」
「ちがう。きみの作った飯が嫌いなんだ」
「たとえそうでも、鶴丸さんは細すぎるよ」
審神者はイヤな予感がした。
「もしかして、何日もご飯食べてないんじゃ……」
「――きみには関係ない」
「ある!」
「へーえ」
鶴丸は意地悪な目つきで審神者の全身を見まわした。
「いったいどのへんが?」
「それは……」
少女は彼の袖を掴んだまま、必死に頭を回転させた。
「それは……鶴丸さんがわたしを追い出したいからだよ! いざってとき、お腹が減ってたら何もできないでしょ。わたしを追い出したいなら、元気をつけなきゃ」
「きみくらい、いつでも追い出せるさ。なんなら、ここで証明してもいいんだぜ」
「それじゃあ、現世に戻ってお上に報告するよ。御物の鶴丸国永さんは、ロクにご飯も食べず健康管理ができませんって。もしかしたら、世界中の図録に記録されちゃうかもね。鶴丸国永さんは――」
「チビ、耳もとで大声を出すな。いますぐ追い出すぞ」
鶴丸が本気でイライラしているのがわかり、怖ろしくてたまらなかった。しかし、少女は必死に視線を合わせ続けた。ここで弱さを見せれば、鶴丸に認められる日は永久に来ないだろう。
長い沈黙。
そして、とつぜん辺りに間延びした音が響いた。まるで、だれかの腹の音のような……。
少女は勝ち誇った顔で鶴丸を見た。
「おかわり、たくさんあるからね」
鶴丸は罰が悪そうに目をそらした。