横浜、山手。
雲一つない青空に、セミの鳴き声が響いている。
大きな尖塔が対称に聳える洋館を見上げて、少女は息をのんだ。
両手で色あせた写真を握りしめている。小さな女の子が二人、古い大時計の横で歯を見せて笑っている。一人は黒髪にセーラー風のワンピースの少女。もうひとりは、色あせたフラミンゴのTシャツを着た自分だった。
施設の近所にある洋館は入館無料で、子どもの頃、姉と一緒によく探検したものだった。
自分でもなぜここに来たかわからなかったが、環境が変わる前に思い出の場所を見ておかなければ一生後悔すると思ったのだ。
正面のスロープをのぼり、少女はゆったりした足取りで玄関ホールに入っていった。洋館の内部は、記憶とほとんど変わっていない。
薄緑を基調にしたサンルーム。レースのベッドと大きな出窓が目立つ客室。黒檀製のダイニング・テーブルがある食堂にやわらかそうなソファ。
広間を通り過ぎ、廊下をまっすぐ進むと調理室だ。
(よかった。ちゃんとキレイにしてるみたい)
銀色の洗い場に汚れた食器ひとつないのを見て、彼女は小さく笑った。
そして、そう感じた自分を不思議に思った。当たり前だ。いくら子どもの頃何度も見て回ったとはいえ、実際にここの厨房など使ったことがない。
「きっとなにかの勘違いだよね」
小さな違和感にフタをして、彼女はガス台の横に近づいて行った。塗装のはげかけたベージュの扉、金メッキのドアノブに『通り抜けできマス』という札がかけてある。それを開けると、腐敗臭に似た湿った風が頬をくすぐった。
同時にセミの合唱が始まる。
彼女は、慎重に扉をしめ、屋敷の裏手に出た。
石段を下ると、そこには見事な刈りこみ庭が広がっている。
チェスの駒のように、一見なにかわからないトピアリーもあれば、キリンやゾウ、いまにも飛んでいきそうなワシだっている。
庭は緑を刈って迷路風になっており、子どもの頃、姉とよくここで走り回ったことを思い出した。
普段はここで写真をとる人や洋館をスケッチする人がいるのだが、平日のせいか辺りにはだれもいなかった。
少女は不思議な気持ちになりながら、迷路を進んで行った。進むにつれ、水の流れる涼しげな音が近づいてくる。そして、最後の角を曲がり、ちょっとした空間に出た。
公園によくある黒い大時計と薫衣草の花壇。それらの中央には白い円形の噴水が設置されている。
そこに、だれかがひざを立てて座っていた。
日の光で目がくらみ、彼が記憶のなかの誰かと重なった。
「お前、こんなところでなにやってんだ」
しかし、彼がこちらを向いたとたん、期待は一気にしぼんだ。
同じ園にいるひとつ下の男の子だ。瑠璃色と白のタンクトップにカーキの短パン。彼はズボンのポケットに手をつっこみながら、ふて腐れた声でたずねた。
「園を出るってマジかよ」
「うん」
少女はあっさりうなずいた。
「学校の先生をしているんだって。背が高くて優しそうなの」
「けど、ドクシンだろ。チラッと見たけどロース・ハムみたいおばさんじゃん。指なんてソーセージみたいに太いの。お前のことベタベタ触って、そっちの気があるんじゃねーの」
「失礼なこと言わないで。いい人だったもん。わたし、家族ができるんだ――とってもうれしい」
「本当にそう思ってんの?」
彼は見透かすような目でこちらを見つめた。
「最近ずっと上の空だったじゃん。しゃべるキツネを見たとか、だれもいないのに声が聞こえるとか……あの女のところに行きたくないから、もっとマシなウソついたら?」
「ちがうよ」
少女は向きになって言い返した。
「本当に見たし、聞いたんだもん」
「あいつが死んで以来、ヘンだぜ。そもそもあの一週間、どこでなにやってたんだ。先生に聞いても誤魔化すばかりで、なにも教えてくれねー」
「ごめんね」
少女はいつの間にか短くなっていた髪を耳にかけた。男の子がそれをじっと見つめている。
「本当に、覚えてないの。でも、とてもいいところにいたんじゃないかな」
「なんでそう言えるんだよ」
「なんでだろう」
考え込むように唇をなぞった。
「でも、そんな気がする。できるなら、もう一度帰りたい」
「うちよりもか」
「うち?」
「うちより、その“どこか”のほうがいいって言うのかよ!」
少女はしばらく遠くを見つめていたが、やがて誤魔化すように微笑んだ。さすがにその先を言うのはためらったのだ。
彼女は、そのことについてこれ以上話したくなかった。少年から目をそらし、洋館のほうを見つめる。
「邪魔してごめん。わたし、あっち行くね」
「待てよ」
後ろから急に腕を掴まれ、引き寄せられた。
抗議の声をあげる前に、熱くてやわらかいものが口に押しつけられる。彼は掠れた声でなにかささやくと乱暴な仕草で突き離した。
あとには、薫衣草のうえで腰を抜かした少女だけが残っている。彼女は少年の背中が遠くなっていくのを見つめながら、世界が変わったような衝撃を味わっていた。
突然、後ろから恨みがましいヒソヒソ声が聞こえてくる。
「驚いた! あの男、オール丁だぜ。おれのほうが百倍かっこいいな」
「主の唇を穢すなんて……あの男、末代まで祟ってやる」
「そう言うな。廓裂きにして鈴が森引き廻し――あと磔ぐらいで許してやろう」
少女がこらえきれずに両手で口をおさえた。
振り向くと、忘れていたのが不思議なほど懐かしい面々がそろっている。
白い羽織の男に、黒いジャケットの青年。そして、瑠璃色の狩衣を着たこの世のものとは思えないほど美しい男性。
本当に、狂おしいほど懐かしかった。
少女は、彼らに向かって震えながら手を伸ばした。
「みんな……」
そして、困ったように口を閉じた。あまりに胸がいっぱいで、なんと言えばいいかわからないのだ。
「おかえり」
と、鶴丸が笑って腕を広げる。
「――ただいま!」
少女は“家族”のもとに勢いよく走り出した。