雨がやみ、長い夜が明け始めている。白みはじめた星空で、三日月が薄く輝いている。
少女は薫衣草のうえに足をのばして座ると、月を見上げた。
「きれい」
「天の海に、雲の波立ち、月の舟、星の林に漕ぎ隠る見ゆ……だな」
傍らで、大の字になって倒れている三日月が言った。
「美しいな」
「うん」
「この度は、お前をひどく傷つけた――許せよ」
三日月はゆっくり顔をこちらに向けた。いつも美しく整えられている髪がぼさぼさで、髪飾りは妙な場所にささっている。審神者は思わず吹き出してしまった。
「いいよ」
「そして、あれはウソだ」
「あれ……?」
「ああ」
三日月は審神者の頬に優しく触れた。
「お前は美しい」
少女の顔がみるみるうちに赤くなる。そして、それを誤魔化そうと早口で言った。
「三日月さんは覚えていないと思うけど、あのときはありがとう。審神者になれば、お姉ちゃんに会えるって。本当だったよ」
「そうか? お前は主の死に目に会えなかった」
「会えたよ」
少女は遠くでふざけ合っている加州たちを見つめた。
「ここには、いまもお姉ちゃんがいる。鶴丸さんや加州くん、三日月さんのなかに、お姉ちゃんがいるんだよ」
「そうか……」
「うん」
「覚えているさ」
三日月は少女の輪郭を指の背でなぞった。
「曲りなりにも主の妹を忘れるはずないだろう。まさか、こんな形で再会するとは思わなんだが……世話をかけたな」
意外にたくましい腕が少女をひき寄せた。かき抱いたまま、ゆっくり髪を梳いてくれる。のどの奥から熱いかたまりがせり上がって来て、少女は血を吐くような声でたずねた。
「わたし、三日月さんの家族になれた?」
「ああ――今日から、我らは家族だ」
「なら、うれしいなあ」
「いいこ、いいこ」と三日月があやすようにささやいた。
「だがよいか。審神者になるとは、年ごろの娘らしいことができなくなる。主は身体が弱く、複数の刀剣を勧請することができなかった。しかし、お前はちがう。数多の刀を率い、血なまぐさい覇道を進む覚悟があるか?」
少女は三日月の肩に頬を擦りつけた。
「……あるよ」
「お前にとって、現世に他の幸せがあるとしても?」
「そんなの知らないもん。わたしは、三日月さんたちと一緒にいられるならなんだってできる」
しかし、そこで髪を梳く手が止まり、困り顔の三日月が少女を見下ろした。彼の手がまろい頬に滑りおり、親指で確かめるようにあごの形をなぞった。
「鶴丸!」
クヌギの枝に腰かけ、月見をしていた男に向かってよびかけた。
「なんだよ」
「……すまんな」
そして、二人の影が重なった。
三日月の唇は氷のように冷えていたが、彼女にとっては火傷するほど熱かった。
後頭部を掴まれ、少し開いた咥内に小さな生き物がさしこまれる。それはゆっくり少女の歯をねぶり、粘膜を擦りつけてきた。苦しくなって背中をたたくと、咎めるように下唇を食まれる。
遠くで乱が囃したてる声がした。そして、鶴丸が力づくで二人を引き離したとき、彼女は糸が切れたように崩れ落ちてしまった。
鶴丸が、意識をなくした審神者を抱えていた。羽織らせた上着で少女をつつみ、早朝の冷えから守ってやる。飾りの金物が頬を擦らないよう、そっと着物の位置をずらした。
ぽってりした唇が濡れて艶々と光っている。目をそらしながら、わざと乱暴な仕草でそれを拭った。
「三日月さん、正気?」
加州が殺気立つ鶴丸を横目でうかがいながら尋ねた。
「こんな子どもに手を出して……大問題だよ」
「では、お前に手を出したほうがよかったかな?」
「そっちのほうが大問題だよ!」
大和守が白けた顔で口を出した。
鶴丸は少女の頬から首筋を何度も探るように触れ、やがて地を這うような声で断じた。
「きみ、この娘に呪(しゅ)をかけたな」
「呪?」
「呪いのようなものさ。腐っても神ということだ。おれたちについての記憶を封じた」
鶴丸は挑むような視線を向けた。
「何故だ? ここまで来てこの娘を認めないのか」
「いいや」
意外なことに、彼は少女を案ずるような口調で続けた。
「この女子は人間としての幸せも知らぬ。知らぬまま、おれがこちらに引きずりこんでしまった。本来ではなかったはずの縁だ――現世に帰そう。こちらを選ぶのは、あちらの幸せを知ってからでもよい」
「ちょっと待ってよ!」
加州があわててさけんだ。
「この子を帰したら、おれたちすぐ刀解されちゃうんじゃなかったっけ?」
「そうとも言えないよ」
大和守が唇に手をあてつつこたえた。
「いまはもう三日月さんが本丸の譲渡書を持ってるわけでしょ。それを手にごねれば、即刻取り潰しにはならないはずだよ……いつまで通用するかはわからないけど」
「それより」
鶴丸が低い声でたずねた。
「彼女の呪はどうしたら解ける?」
「簡単だ」
悪戯っぽい微笑。
「だれかが彼女に口づけすればいい」
「それっていったい何十年後なの? おれたちを選んでくれる前に刀解されちゃったら元も子もないんだけど!?」
三日月は呵々と笑った。
「まあ、なるようになる。彼女の幸せを祈ってやろうではないか」
加州たちは彼の罪のない笑顔にため息を吐いた。
空の一方が橙色、もうひとつの端は薄紫。朝の冷たく清浄な風が薫衣草を揺らして去っていく。靡く髪をおさえつつ、乱が出し抜けに言った。
「いいじゃん。刀解されたって」
彼は太い幹にもたれかかりつつ、目を細めて少女の寝顔を見つめた。
「主が幸せになってくれるなら、それで構わないよ。ボク、主のこと好きになっちゃったもん」
「粟田口はこれだからなあ……」
大和守が口をとがらせた。
「でも、そう思わない? 主はボクらのために精いっぱいやってくれたよ。だから今度はボクらの番だ」
「それはそうだけど。賭けの分が悪すぎるよ。ねばるのだって限界がある。それまでに彼女が誰かと口づけるなんて、清光がインド象とキスするくらいあり得ないよ」
「わかんないよ。主はカワイイもん」
乱は、鶴丸の抱える少女が半分白目を剥いているのを見てつけ加えた。
「たまに」
「もうわかったよ!」
加州が頭を抱えてうなった。乱たちを見回し、しっかりした声で言う。
「友だちになるって約束した。なら、この子の幸せを祈るべきなんだ。そうだろ」
「……お前がいいなら、ぼくも構わないよ」
四人の視線が鶴丸に集まった。
鶴丸はそれに気づかないフリをして、少女のまぶたを閉じてやった。
内心、割り切れないものを感じているのだ。三日月の言い分は理解しているし、彼らの決定が思いやりによるものだとわかっている。
しかし、鶴丸もうなずいたら彼女はどうなるだろう。二度と自分の手の届かない場所に行ってしまうのだ。彼はもう、このあどけない審神者を手放すのがひどく惜しい。
鶴丸は家族というには身勝手な感情を持て余して、うなずくことも首振ることもできなかった。
「では早速やつらに連絡をとろう――よいな」
三日月が含みある笑みを浮かべて鶴丸を見つめた。彼は短くなった少女の髪をいじりながら、かすれた声で了承した。
早朝。
雲間から差しこむ光が、朝もやを神秘的に輝かせている。鶴丸はクヌギの幹によりかかり、眠ったままの少女をひざにのせてやっていた。
もやの向こうから、瑠璃色の狩衣の男が悠然と歩いて来る。
近づくにつれ、彼の完ぺきな容貌が明らかになっていった。シュッとした輪郭に高い鼻梁。濡れ羽色の髪が一方の頬を覆っている。眉は優美な弧を描き、瞳のなかに見るものを惑わす三日月がある。
「遅くなったな」
しかし、妖しい美貌に反して、彼は健康的に微笑んだ。
「あと数時間すればこんのすけが迎えに来る。天地がひっくり返ったような大騒ぎで、とても愉快だったぞ」
「きみなあ……なにか仕出かすつもりなら、事前に言えと言っただろう」
鶴丸は審神者の髪を梳きながら、文句を言った。
「だから、呼んだではないか」
「あれじゃ直前すぎるんだ!」
「すまんな――名残惜しいか」
彼は、鶴丸の目をまっすぐ見据えた。
「口づけしてもいいのだぞ」
「するかよ」
ふて腐れた声。
「理屈はわかるからな。確かに、チビは主とおれたちのことしか考えていなかった。不思議な気分だ。思い出してほしいやらそうでないやら……」
「いつものお前に比べれば、珍しく正直だ」
「驚きだろ?」
鶴丸はひとを食った笑みを浮かべたが、すぐ無表情になって目を伏せた。
「とりあえず、相手はおれより上等な男でなけりゃ許さん」
「人の子のほぼ九割はそうだな。問題はなさそうだ」
「……きみ、おれをおちょくってるだろう」
「ばれてしまったか」
三日月は愉快そうに笑うとよっこらしょと言いながら立ち上がった。
「鶴丸、朝露の乗った草花は一層趣深いと思わぬか。おれはいまから散歩に行く。ひょっとすると戻ったときには、彼女の目が覚めているかもれないな。呪をかけたの初めてで、効きが持つかもわからなんだ」
「どういう意味だ」
「なに、お前にだけはその権利があるという話しだ」
三日月は鋭い目で釘をさした。
「後悔するなよ」
「……狸ジジイめ」
鶴丸はもやのなかに消えていく背中に向かって毒づいた。
そして途方にくれた顔で膝に乗せた少女を見下ろした。乱れた髪が頬にかかっている。鶴丸はそれを優しく払ってやるとそっと顔を近づけた。
そこは、天と地の狭間のように美しい世界だった。
満点の星空。
東側は日が登り始めたように白みはじめ、西側は暗闇に星が瞬いている。そして、それらはときどき流星になって広大な地平線に降って来るのだった。
少女はやわらかい薫衣草畑に寝転がって、三日月を掴むように手を伸ばした。
「そんなんじゃ、捕まえられないよ」
はつらつとした声とともに、レースのワンピースの少女が隣りに座った。つぶらな瞳にハート型の輪郭。ほっそりした美少女だ。
「自分から動かなくちゃね」
審神者はぼう然とした表情で少女を見つめた。確かめるように、震える手で彼女の腕に触れた。
「お姉ちゃん……?」
「うん」
少女は労わるように微笑んだ。
「全部見てたよ。よく頑張ったね」
「ウソ!」
審神者は思わずさけんでしまった。
「全然上手くいかなかった。やっぱりお姉ちゃんみたいになれないよ。名前から真逆だもん。満月お姉ちゃんは完ぺきなの。なんでもできるの。だけど、わたしは……」
姉が咎めるように審神者の鼻をつついた。
「キレイな名前だよ。あなたがいなくちゃ、なにも始まらない――だいじょうぶ。自信を持って。みんな、あなたが大好きだから」
「でも……」
「じゃあ、わたしの素敵な家族、あーげない!」
「いや!」
審神者は目に涙を浮かべて、懇願した。
「ちょうだい。お姉ちゃんお願いします。わたし、みんながほしいの」
「しょうがないなあ」
姉は優しく微笑んで、額と額をくっつけた。
「あなたにだったら、あげてもいいよ」
黒髪と茶髪の少女がぴったり身をよせあった。
彼女らを祝福するように、幾千もの流星が降り注ぐ。西の厚い黒雲を割って、まばゆい光が周囲を白く塗りつぶした。