深夜。
加州の予言通り、外はひどい豪雨になっていた。階段上の窓を雨粒が激しく打ちつけている。少女はできるだけ足音をたてないようにしながら、一段一段降りて行った。
まるでだれかに導かれているかのように、三日月の居所がわかっていた。
広間を抜け、廊下の突き当たり。ガラス張りのサンルームだ。昼のうちは裏手に広がる薫衣草を見渡せるが、いまや紫色の美しい花は暗闇にとけてしまっている。
三日月宗近はそこで、こちらに背を向けて立っていた。
「来たか」
彼はほのかな笑みを浮かべて振り返った。
「三日月さん、なに食べてるの?」
「お前がくれただろう。これは味がするから、気に入った。主が隠れてから、なにを食べても砂をかんでいるようだったからな」
「わかるよ」
少女は彼に一歩近づいた。
「わたしもお姉ちゃんが死んでから、なにもする気になれなかった。そんなとき、こんのすけから連絡が来たの。わたしを指名した本丸があるって。三日月さん、あなただよね」
「何故そう思う? おれは、お前が邪魔なのに」
想い人から中傷に、少女は一瞬傷ついた顔を晒した。しかし、すぐ唇を噛んで強い気持ちを呼び起こした。
「本丸の主導権を握っているのは、あなたと鶴丸さん。鶴丸さんは、わたしが来るのを知らなかった。さらにわたしとお姉ちゃんの関係を知ってるのも、あなたと大和守くん。最後に、わたしが審神者になれると知ってたのは三日月さんだけだよ」
「――はて、そうだったか。覚えていないな」
「そうだよ」
また一歩近づく。
「だから、わたしはここで、お姉ちゃんの跡を継ぐ」
「それは弱ったなあ。おれは彼女に殉じるつもりなのだが……」
「お姉ちゃんは、そんなこと望まない」
「お前になにがわかる?」
「それくらいわかるよ」
少女は思わず怒鳴りつけた。
「わからずや! お姉ちゃんは好きな人にあとを追ってほしいなんて考えない。それも本丸中を巻きこんでなんて……三日月さん、天国から蹴り返されちゃうよ!」
「これは驚いた……」
三日月は珍しく本気でびっくりしたらしい。三日月の瞳を見開き、おさげの少女をじろじろ観察した。
「千年近く生きてきたが、女子(おなご)に謗られたのは初めてだ」
「わたし、本気なんだから。確かにお姉ちゃんに比べたらダメダメだけど、あなたたちの主
に――家族になりたいの!」
「断る」
三日月はぴしゃりと言った。彼はもはや微笑みを消し去り、冴え冴えとした美貌で彼女を見下していた。
「主は身も心も玉のように美しい人間だった。素地からして違うのだ。お前ごときがおれの主になるだと……片腹痛いわ!」
「そうかもしれない」
少女も負けじと言い返した。
「でもわたしは、あなたたちの家族になりたいの!」
「疾く現世に帰れ」
「いや!」
「そうか」
三日月は音もなく腰の刀を抜いた。
「なら死ね」
雨音響くサンルームに、軽いものが落ちる音がした。切られたおさげを結ぶトンボ玉が、床できらりと輝いた。
「何故避けない?」
三日月は少女の首筋に刀を当てたまま尋ねた。
「死ぬのがこわくないのか?」
「こわいよ。でも、三日月さんが本心から望んでいないことだから」
「なにが言いたい?」
審神者は真っ直ぐ三日月を見つめた。
「三日月さんは、わたしを殺せない――優しいひとだから」
「ばかを申すな、人間め」
三日月はせせら笑った。
「おれは加州清光を唆し、お前を川に落としたのだぞ」
「でも、あとで心配になって見に来てくれたよね。文鎮の件もそう。わざと紋入りのものを選んだんだ。自分に気づくように……。本丸に呼んだのも、妹のわたしがばかな真似をしないため。そして、あなたたちをとめるため――三日月さんは迷ってる。本当はとめてほしいから、わざと異常な行動を取ってるんだ!」
どこかで雷の落ちる音が響いた。少女は首にあてられた刃を掴んだ。手のひらが切れ、腕にどんどん血が滴っていく。
もし三日月が少しでも手を動かそうものなら、簡単に彼女の手を落とすことができる。しかし、三日月は蒼白な顔で固まっていた。息をのみ、掠れた声で反論した。
「おれが彼女を殺したという話しはどうした? 大和守たちが疑っていただろう」
「仕方なかったんだよね」
少女は悲しげにこたえた。
「こんのすけが言ってたよ。審神者になれば理力をつかう。でも、足りなければ、代わりに体力を持っていかれるんだ。身体の弱いお姉ちゃんは、それに耐えきれなかった。気をつかって、鶴丸さんたちには伏せたんでしょう。風邪だと言って誤魔化して」
「ひどい妄想だ」
三日月は窓の外へ目を向けた。
「現に、おれは証拠を消しに主の部屋に行ったではないか」
「消しに行ったのは、証拠じゃない。わたしも探していたから知ってる――本丸譲渡書でしょう。お姉ちゃんはわたしに遺してくれたはずだから。それがあれば、問答無用で譲渡が完了してしまう。だから、お姉ちゃんの部屋に入る機会をうかがってたんだ」
少女は血に濡れた手を三日月にさし出した。
「わたしにちょうだい」
「……そんなもの、とうに捨てたさ」
「ううん」
彼女は笑って首を振った。
「三日月さんは捨てないよ」
「何故そう言える?」
「お姉ちゃんを愛しているから。好きな人のものを捨てられるとは、思えないよ」
三日月が今度こそ顔色を変えた。獣のように歯噛みし、額に刀をつきつけた。
「切るぞ小娘」
「……いいよ」
「やれ美術刀だと侮っているのか? この刀はすでに血の味を知っている。お前の細首をへし切って鯉のエサにしてやろう」
「脅しても無駄だよ。三日月さんには切れない」
刀越しに、彼をまっすぐ見つめた。
「何度だって言う。あなたは、優しいひとだもん!」
三日月の顔がゆがむ。そして、少女は三日月が泣きそうな表情で、刀を振り下ろすのを見ていた。
辺りに金属同士がぶつかり合う鍔迫り音が響き渡った。目の前に白い着物が翻る。
「血迷ったかくそジジイ!」
「鶴丸さん……!」
鶴丸が額に青筋をたててさけんだ。
「きみはおれの言うことを全く聞かないな! その耳はカマボコか?」
「だって……」
「だってもヘチマもない!」
彼は三日月の刀を押し返し、こちらを振り返った。
「髪をどうした? それにその手は?」
「ええと……」
しかし鶴丸は床に落ちた髪紐と三日月を見て委細承知したようだった。素早く上着を脱ぎ、少女に被せる。
「もう大丈夫だ。“お兄ちゃん”が守ってやるよ」
最後に頭を軽くたたいて、彼は三日月に向かって駆け出した。二人は何度も剣戟を重ね、やがてサンルームの窓を破って、外へ飛び出していった。
「待ってよ!」
二人を追って窓際から顔を出し、彼女は固まってしまった。
サンルームから薫衣草が広がる庭まで、三メートルは高さがある。この悪天候では無傷で着地できるとは思えない。しかし、表に回っていけば彼らを見失ってしまうだろう。審神者は短くなった髪を耳にかけ、一歩踏み出した。
「これだから男ってヤダ。頭に血が上ると周りが見えないんだもん」
そのとき、みかん色の髪の少年が窓枠を掴む手を掴んだ。
「あいつら、追いかけるつもり?」
あきれたように目を細くする。
「本気?」
「うん」
「……三日月は、あのひとに惚れてるんだよ。あなたじゃなくて」
「関係ないよ。わたしが好きなんだもん」
「仕方ないなあ」
乱が露骨にため息を吐いた。
「ボクが連れて行ってあげるよ。ねえ、主!」
彼は審神者を横抱きにすると、勢いよくサンルームから飛び降りた。誰もいなくなった部屋で、白いカーテンが大きくはためいていた。
黄金色のつま先のブーツが、濡れぼそった薫衣草畑に等間隔に足跡をつけていく。乱は小柄な少女を抱きかかえたまま、風のように駆けた。
周囲の景色が、早回しのフィルムのように過ぎ去っていく。急カーブにさしかかっても彼の速度は緩まない。曲がったとたん、クヌギの枝が二人の視界を遮った。
「ぶつかる!」
「しっかり捕まってて!」
乱は片手で枝を掴むと反動をつけ、勢いよく跳んだ。そのまま軽やかに着地し、止まることなく走り続ける。
「大丈夫だった?」
「……心臓が口から出るかと思ったよ」
「ぶつかってたら目玉が飛び出てたかも」
「全然面白くない!」
乱は少女めいた笑い声をあげ、さらにスピードをあげた。やがてカーブが終わり、一気に視界がひらけた。
遮るものがない一面の薫衣草畑。そこで、チカチカと火花のような光が散っていた。さらに近づくと二つの影が目にも見えぬ速さで刃を交わしているのが見える。
一方が足払いをかけたのをもう一人が余裕を持った仕草で避ける。そして彼を正確になぞった動きで足払いをし返した。今度こそ見事に決まって、一人は薫衣草の間に倒れて見えなくなってしまった。
「降ろすよ」
「ありがとう!」
審神者は乱の腕から飛び降り、二人のほうに走り出した。三日月の仄かな灯りが、彼らを照らし出している。
そこでは、倒れた鶴丸に向かって三日月が刀をつきつけていた。しかし、彼も負けず三日月のおとがいに雪のような刀身をあてている。
少女はあまりに緊張にその場から動けなくなってしまった。
「きみは本丸の廃棄を望む一方で、存続も望んでいた」
鶴丸の黄金色の瞳が月光を反射して輝いた。
「だから彼女を呼びよせ、賭けに出たんだな」
「……だとしたら?」
「怒る。何故ひと言も相談してくれなかった? おれたちは、きみの悩みをきくに値いしない存在なのか?」
「相談する?」
三日月が考えこむように首をかしげた。
「考えたこともなかったな……だが、わかった。次はそうしよう」
「またなにかやらかすつもりか!」
「さあ。未来のことはだれにもわからん。来年のことを言えば鬼が笑うよ」
と言って三日月は刀を鞘に戻した。しかし、いつまで経っても鶴丸が刀を納める様子はない。三日月はイヤな予感がして、引きつった笑みを浮かべた。
「鶴丸よ。物騒な得物をひかないか」
「いいや。きみには罰を受けてもらう。おれたちに心労をかけた分。そして、あの娘をいじめた分だ」
「なんだお前、あれに惚れているのか」
着物で口元を隠しながら、勝ちほこったように笑う。
「それは、すまんなあ」
「惚・れ・て・な・い!」
鶴丸が絶叫した。そして、奥の暗闇に向かって呼びかけた。
「きみたち、こらしめてやれ!」
いつからそこにいたのか、月光が浅葱色の隊服や黒赤の上着、紺色のワンピースを照らし出した。彼らはすぐ抜刀できるよう柄を握り、輪になって三日月を囲んでいる。三日月の表情が硬くこわばった。
「待て。さすがに四対一は卑怯じゃないか」
「きみみたいな狸には、ちょうどいいさ」
「――そっちの負けだよ。三日月さん」
大和守があきれ顔で言った。
「あの子はもうぼくらの家族になったんだ。だから、傷つけたら怒られるんだよ」
「……家族か」
きょとんとした三日月の顔に穏やかな微笑が広がり、やがてつきものが落ちたように健康的に笑った。彼は振り返って審神者を見つめた。
「――すまなかった」
「じゃ、おっぱじめるぜ!」
「三日月さん、お覚悟!」
加州たちがにやにや笑いを浮かべながら、彼に飛びかかっていく。そして、三日月の悲鳴が美しい薫衣草畑に響いたのだった。