のばらの子どもたちact 001

 イギリス北西部の都市ランカスターをウィンダミア湖に向け北上したオールドハットンにアーリーズスクールはある。

 名門のパブリックスクール進学希望者が数多く入学し、過酷な管理社会で暮らすため学業・精神面で準備を進める。そこは間違いなく英国リーダーシップのゆりかごといっても過言ではなかった。

 ウィークリーボーダーの子どもたちがスクールバスに乗って憂鬱な月曜を迎えるより早く、コマドリが騒々しく朝を告げている時刻、アーリーズスクール前の停留所に一台のバスが止まった。

 間抜けな音とともにドアがしまり、茶色の皮鞄を抱えた東洋人が降り立った。彼は学園に続く一本道と紅葉した木々を見回し大きく伸びをした。

 北部の典型的な田園地帯だ。周囲を見回して菊は思った。一段高い石畳からはヒースの丘とその向こうに点在する小さな林を望むことができる。鳥のさえずりもかわいらしいし朝の空気はとても美味しい。こんなところで過ごす子どもたちは肺のなかから浄化されるんじゃないだろうか。きっとみんないい子ばかりだ。

 菊は新しく赴任する学校への期待を高めた。諸事情で前職を辞した彼は友人の伝手を頼りにアーリーズスクールへと流れついた。友人の祖父が理事を務める学校で、ちょうど校医の空きが出たというのだ。

 はじめは名門中の名門アーリーズに東洋人の自分が採用されるとは思わなかったが、実際理事と面談すると彼がとんでもなくアバンギャルドな人物だということがわかった。

 そして信じられないほど簡単に菊は合格の通知を受け取り、ロンドンから学園に近いランカスター郊外に引っ越すことになった。事態は菊が想像するより、はるかにうまく行ったのだ。

(運命の女神はいま私にほほえんでくれているのですね)

 菊は野ばらをハミングしながら、学園に続く石畳を進んでいた。
 とつぜん、何羽もの鳥があわただしく頭上を通り過ぎた。

 それから背後で朴訥とした風景には釣り合わない文明的な音(具体的にはロールス・ロイスファントムのクラクション!) が響いたと思うと、目の前に幅員ぎりぎりの高級車 (ロールス・ロイスファントム!) が迫っていた。

 菊は思わず絶叫して、石畳の道を転がり落ちた。

 幸いなことに落ちた先は下草が生い茂っている草はらでケガひとつなかった。ただ問題なのは、おろしたてのジャケットが見事無残になったことだ。そのとき、バタンという音と誰かがかけ下りてくる気配がした。

 やってきたのは天使のようにまばゆい少年だった。朝日を受けてきらめく金髪と大理石のように白い頬、そして熟れたリンゴのように真っ赤な唇。彼は絵画から抜け出したクピトのようだった。

 その少年は袖と襟もとを白くふちどった黒ジャケットとそろいの半ズボンを着て、首もとから臙脂のリボンをのぞかせていた。もし菊がその制服に見覚えがなかったら、カバンに入っているカメラで彼を激写していただろう。

「だいじょうぶですか?」

 彼はポカンとした菊を見て困ったように首をかしげた。

「クソッ、通じねえのかよ」
「いえ。だいじょうぶ。通じています」

 一瞬ひどく下品なスラングが聞こえた気がしたが、気のせいだと言い聞かせる。こんな天使のような子がF*ckなんていうはずがない。
 彼は驚いたように目を見開くと、やわらかく笑った。

「すごい。英語、お上手ですね。お怪我はありませんか?」
「いえ。平気です」
「よかった。ここには観光で? この先は学校があるだけで、他はなにもないですよ」

 そう言ってそばに落ちていたカバンを渡し、菊のケガがないか上から下まで観察した。そしてまったく無事であるのを確認すると、カバンを拾ったとき汚れた手を菊の上着で拭った。オフホワイトのジャケットにべっとりと茶色い手形がついた。

「その服、とってもお似合いです」

 にっこり笑ってそう言い残すと泥まみれの菊を置いて、ロールス・ロイスファントムは目の前で出発した。

 何が起きたかもわからず、ヒースのうえにぽつねんと立っていた菊はしばらくして叫んだ。

「く、クソガキーーーー!!!」


 菊が絶叫したちょうど二十分後、当のクソガキはアーリーズスクールのチャペルにいた。

 朝拝が始まるより一時間早く来てステンドグラスを見上げる。厳しい表情で十字架を望む姿は敬虔な信徒そのものだったが、彼の碧の瞳は祈りを捧げるには少々冷めきっていた。

 チャペルの一番後ろにある細長い礼拝椅子がガタンと音を立てる。それでも彼は顔をあげなかった。

「アーサー、なにお祈りしてんの? おれにも教えてよ」

 前列の背にだらしなく両足をかけ、少女めいた容貌の少年が笑った。薄紫のリボンを髪に添え、半ズボンさえはいていなければ誰も彼が「彼」とは気づかないだろう。

 アーサーは彼に見向きもせず、氷のような声で言った。

「今日もオカマの顔を見なくちゃならないおれを救ってくださいって祈ってたんだ」
「ひどいわ! おれはおれが一番美しく見える格好をしてるだけなのに!」
「だまれ変態(フランシス)」

 すげなく言ったアーサーにフランシスが泣き真似をする。けれどそのしおらしい態度とは裏腹に彼が相当悪らつなことをアーサーは知っている。自分の美貌が男子校でどんな有利に働くか見抜き、たった十一歳でクラスメイトはおろか教師まで骨抜きにしていた。

 きれいなきれいなフランシスくん。お姫様みたいなフランシスくん。

 ばかばかしい。面の皮一枚に騙され、こいつがどれだけロクデナシか見抜けないやつが多すぎる。やっぱり大人はばかばかりだ。

「あーあ。つれないねえ。せっかく面白いニュースを持ってきたってのに!」
「はあ?」
「新しい校医のセンセイが来るんだって……それも、外国人の!」
「キウィ、フロッギー、オウシー。どれだ?」
「ぶっぶー。驚くなよ。なんと、アジア人だぜ!」

 アーサーは思わずふり返った。フランシスはその反応を予測していたのか、チェシャ猫のような笑顔でこちらを見つめている。それを癪に思う前に思わずアーサーは怒鳴っていた。

「ふざけんな! アジア人ってよく厨房で皿洗ってるやつらだろ!?」
「そんなにいやなら前のやつを追い出さなきゃよかったのに。先生はお前の家庭教師じゃないんだよ。首にしたって思い通りになるわけないじゃん」
「そ・れ・を、お前が言うのか?」

 アーサーがどすのきいた声を出すと、フランシスは狡猾な娼婦のような笑みを浮かべた。

「ああ! 美しさはかくも罪深い! でも、おれは愛を与えているだけで自滅するのは彼らの勝手よ」
「性悪。本命もいないくせに、あちこちコナかけるから面倒なことになるんだ」
「なにばかなこといってんの。おれの愛はみんなのものなの。つまり、みーんな、おれの本命なわけ。まあ、でも? おれ、ちょっと天の邪鬼なところがあるからキライが一回転すると好きになっちゃうかもね。ヒトを嫌いになったことないからわかんないけど――ってことで、おれはアジア人がセンセーでもぜんぜん気になりません」 
「ねーよ! そもそもあいつら文字読めんのか!?」
「そりゃ読めるし、しゃべれるからうちに来たんだろ」

 冷静なフランシスの言にアーサーの頭も冷えてくる。

「ばーか。カクシキの問題なんだよ。教師にアジア人がいると知ったら学校の質が疑われるだろーが」
「そうかな。おれはアジア人がいても面白ければいいと思うよ」
「フロッギーに英国の伝統は一生理解できねえよ」

 アーサーは吐き捨てるように言うと、爪を噛んだ。この学校はいわば自分の庭だ。だから、自分が認めない者は侵入させない。庭は快適で美しくあるべきだ。花を荒らす害虫は駆除する必要がある。

「おい、フランシス。三カ月だ」
「三カ月? おいおい記録更新じゃない。できんの?」
「やるっつったらやるんだよ。休暇までに、そのアジア人を学園から追い出してやる。とにかく、お前は黙って従ってればいいんだ」
「出たよ。お坊っちゃん」

 フランシスはあきれたようにため息をついたが、なんにしろ面白ければいいとティンクのように微笑んだ。

 本田菊はしゃちほこばった表情で廊下を歩いていた。

 あの見た目だけは天使のクソガキに汚されたジャケットは白衣の下に隠している。いま、彼はハワードという若い歴史教師に校内を案内されていた。

 校門で顔を合わせたハワードは菊を見て「今朝早く霧雨がふりましたから」と気の毒そうに苦笑した。まさかそこで、お宅の生徒のロールスに驚いて転がり落ち、あげく泥で手形までつけられましたと申告するほど、菊は大人げなくなかった。

 それに、彼はアーリーズスクールに全く関係ない子どもで、偶然アーリーズスクールの制服に似た服を来て、偶然アーリーズスクールのほうに向かっていたとも考えられるのだ。

 彼がさっき、こっちには学園の他はなにもないですよと言っていたのは忘れることにする。

「ホンダさん、そんなに緊張する必要はありませんよ。学園の子どもたちは礼儀正しく、目上の人間を敬います。貴方もすぐリラックスして、アーリーズに来た幸運を神に感謝するでしょう」
「だといいのですが」

 そうため息を吐くと、ハワードが励ますように笑った。

「心細いときは監督生に任せなさい。今年の監督生は優秀だから、だいたいのことは内々で処理してくれますよ」
「さすがにそれは不味いでしょう」

 菊が反論すると、ハワードが突然口にサルミアッキを詰め込まれたような顔をした。

「そういえばホンダさんって寄宿制の学校は初めてでしたっけ?」
「ええ。前はロンドンの公立学校にいましたから」
「では、寄宿学校の『伝統』を知っておいたほうがいいですね」
「伝統、ですか?」

 ええ、とハワードがうなずいた。廊下の真ん中で二人は立ち止まる。

「彼らは子どもですが、それぞれ自立した人間です。そこで寄宿学校では、生徒の自主性を育てるため彼らの問題は極力彼ら同士で解決するよう指導しています」
「それはスクールのパンフレットで拝読しましたが」
「ではお分かりになるでしょう。生徒の問題が自分たちによって解決するのが普通になると、大人の介入をきらうようになります。そして私たちの介入を許した場合、『犯人』へのバッシングが始まる。つまり、ここで生徒が先生に頼りきる『告げ口』は、最も忌むべき行為とされているんですよ」
「そんな……無茶苦茶です。先生方はなにも対策されていないのですか?」

 顔をしかめる菊にハワードは慌てて訂正した。

「もちろん大きな問題を抱えていると判断した場合は、親身に対応しますよ。ただ、ホンダさんに知ってほしいのは彼らが事情を抱えていても無暗に聞き出してはいけないということです。彼らを余計追い詰めてしまいますから」
「他の先生はそれで納得を?」
「もちろん。ここに勤める方は数十年前ここで学んだ方が大半です。寄宿学校の『伝統』を皆さんよく理解し、そして支持しています。なので、子どもらの告げ口を厭う先生も多いのですよ」

 菊は絶句した。プレッブスクールに勤めると言った自分に、友人が寄宿学校は完全にクローズドな世界だからといったのを思い出す。ここは菊の常識が通じない世界なのだ。

 そのとき、ハワードがここですと言ってクラスのドアを開けた。

「もうお聞きになっているとは思いますが、ホンダさんには校医のほかに不定期で異文化交流について講義していただきます。今日はその初回ということで、だいじょうぶですか?」
「はい」
「だからそう緊張しないでも平気ですって。みんないい子たちばかりです」

 ハワードは笑うと、菊を伴って教室に入った。
 教室に入ってすぐ檻のようだと思った。

 年季が入りヒビが入っている白壁にかこまれ、木製の二人がけの机がいくつも並んでいる。
 離れ小島のようにぽつぽつと空き席が見られるほかは、生徒たちが少し窮屈そうな姿勢で椅子に自分の身体を押しこんでいた。

「そうそうホンダさん。彼ですよ。困ったことがあったら、監督生アーサー・カークランドくんに声をかけなさい」

 小声でハワードが示したほうを見て、たちまち菊の思考が止まった。

「彼の母君は理事会のメンバーでいつも学園に多額の寄付をして下さるんですよ。おかげで彼が在学してから学寮は人権という言葉を知りました。以前の寮館は本当にひどい有様で。あれならロンドン塔で寝起きしたほうがマシですよ。それに彼の父君の家系は代々……」

 菊はハワードの言葉をすべて聞き流し、今朝会った天使のようなクソガキ――アーサー・カークランドを見つめていた。
 彼は視線を感じたのかいぶかしげに菊を見て、大きく目を見開いた。それから、涼しげな顔で笑いかける。

「ホンダさん、生徒たちに一言どうぞ」

 いつのまにか教壇にたっていたハワードが急かす。菊は呆然としながらその隣りに並び、アーサー・カークランドを見下ろした。間違いなく、今朝会ったクソガキだ。

「ホンダさん? 一言を」

(チェンジ!!!!)

 菊は内心で本日二度目の絶叫をあげた。