けれど、その講義は菊の心配が嘘のように順調だった。
それどころか、菊が説明につまるとアーサー・カークランドはさりげなく質問の手をあげ、問題の論点を明瞭にしてくれるのだ。まるで十一歳とは思えぬ聡明さと気づかいに内心菊は舌を巻いていた。なので、講義が終わったあとアーサーから校舎案内の申し出があったときも迷いなく了承した。
(今朝のことは私の勘違いだったのでしょうね)
先頭を歩くアーサーのつむじが左巻きなのに気づいて、菊はくすりと笑った。
二人は本校舎を過ぎ、別棟と呼ばれる旧校舎に到着していた。別棟には第二音楽室や美術室があり、放課後クラブ活動に励むものの聖地になっている。
いいかえれば、放課後にならなければめったに人が来ないということだ。昼休みを利用して校舎案内を行っているいま、別棟はアーサーと菊以外誰もいなかった。
「わざわざ案内をありがとうございました。けれど、もうだいじょうぶですよ。私は校医なので、こちらに来ることはめったにないでしょうし」
「そうですか。でも、あと一部屋だけセンセイに見せたい場所があるんです。一緒に来てくれませんか?」
午後に講義が入っているので早く自分の部屋に戻りたかったが、しょぼくれた犬のような顔をされるとどうも罪悪感が勝った。菊はではあと一部屋だけ、とアーサーの後ろについていった。
別棟の奥へ奥へ進んでいくと、薄暗い回廊に出た。古い石造りの壁に等間隔で石像が並んでいる。M・ウィリアムズ1825〜1898など刻まれた石像からは当時ここで生きた人間の息使いを伝えてきた。しかしそこで感じるのは親しみより不気味さだ。菊は彼らと決して目を合わせないようにして、アーサーの背中だけを見つめていた。
「ここです」
アーサーが急に止まったので、その背中に鼻をぶつけそうになった。
そこは教室というには狭いおどろおどろしい雰囲気の小部屋だった。
中世の映画に出てくる罪人が閉じ込められる檻のようだ。
アーサーはその扉を開こうとして、不思議そうな声を出した。
「開かない」
「カギでもかかっているんでしょう。カークランドくん、残念ながら、私がこの部屋を気にいる可能性は太陽が西からのぼる確率より低いようです。ここは結構ですよ」
「でもセンセイ、開かないんです」
扉を開けるのに夢中になっている彼にため息を吐くと、菊はカークランドを押しのけドアに手をかけた。カギがかかっているのを証明してやればいいと思ったのだ。けれど、予想に反して菊が軽く力をかけたとたん、戸はあっけなく開いてしまった。
「どうして……」
そのとたん、背に砂袋がぶつかったような衝撃をうけ、菊は扉のなかに倒れ込んだ。悲鳴に似た音をたて戸がしまる。
「カークランドくん! なにをしているんですか!?」
木造の古びたドアを叩くと、外からかん高い笑い声が響いた。
「ひとつ教えてやるよ、センセイ。そこはつい二十年前まで現役で使われていた懲罰牢さ。夜になると、昔鞭で打たれた生徒のすすり泣きが響くっていわくつきのな」
「いますぐここを開けなさい!」
「やなこった! アジア人の分際でおれの庭に来たことを存分に反省しろよ。放課後、覚えてたら開けに来てやるぜ」
「カークランドくん!」
笑い声は徐々に遠ざかり、そしてまったく聞こえなくなった。
菊は深いため息をついて、周りを見まわした。彼の言によると、ここは数十年前まで懲罰牢として使われていたようだ。それを裏付けるように窓がなく、中にいるものを威圧するような高い石壁に囲まれていた。
唯一出入り口だけが変色した木でできており、最悪の場合、あそこを壊せば出られるはずだ。
菊は両膝を抱え、子どものように背を丸くした。晩秋のオールドハットンはロンドンより気温が低く、懲罰牢のような部屋では鳥肌がたつほどの寒さだった。そこで、菊は温かいものを想像することにした。コマドリの厚い羽毛やタンポポの綿毛、羊毛の毛羽立ち。
そうすると、徐々に一人の少年の笑顔が浮かんでくる。
菊は安心したように瞳を閉じ、しばらくすると緩やかな寝息をたてていた。
菊が目を覚ましたのは、枯れ木が風でしなるような音がしたからだ。初めは空耳だと思ったがその音はだんだん近づき、最終的には木戸を蹴ったような衝撃に変わった。
「あれ、誰かいるの?」
声変わりする前の澄んだ声が聞こえ、菊は思わず叫んだ。
「います! ここに!」
「だれ? もしかして、ここでお楽しみだった? ならおれも仲間に入れてよ」
「違います!」
「こんな狭くてほこり臭い場所でほかにやることなんてあるかなあ?」
「誤解です! いいから、そのドアを開けてくれませんか?」
渋る声に菊は早口で事情を説明した。さすがに生徒相手にアーサー・カークランドの名を出すことはできなかったが、少なくとも卑猥な行為目的ではないことは十分手をつくして説明した。
「そうだったんだ。ホンダセンセーも大変でしたね」
「ええ、そうなんです。だから、その戸を開けてください。きっとつっかえぼうか何かが挟まっていますから」
「いやだよ」
あまりに自然にそう言われ、菊は一瞬のその言葉の意味が理解できなかった。
「そうですか。ありがとうございます。……なんですって?」
「だから、いやだよ。センセーを閉じ込めたのってアーサーでしょ? おれあいつに文句言われるのいやだもん」
彼は同情に満ちた声で言った。
「かよわい女の子ならまだしも、センセーはリッパな大人ですよね。きっと自分でなんとかできますよ。運が良ければ放課後、警備員に見つけてもらえるかもしれないし。ではセンセー、オルボワール!」
「フランシス・ボヌフォワ!」
菊は木戸の上部にある鉄棒の窓から顔を出して叫んだ。すると、足音がぱたりと止み、警戒するようにこちらに近づいてくるのがわかった。
「センセー。なんで、おれを知ってるの?」
「さっき聞いたばかりの声を早々に忘れたりしませんよ。それにこの学校は少人数制ですから、生徒の顔を覚えるのは当然のことです」
「少人数っていっても、五百人はいるんだけど」
あきれたような声に菊は先ほどのクラスを思い出していた。子どもながらすでに王者の風格を持つアーサー・カークランドに一歩も引かず、対等に接していた少年。その少女じみた横顔に菊でさえ一瞬見惚れた。
けれど、扉の奥から聞こえる言葉はその繊細な顔に反して、アーサー・カークランドと並ぶほど悪辣だった。
(これでクソガキが二人ってわけですか)
「いまなら、私に対して失礼な態度を取ったことも見逃します。カークランドくんにも貴方のことは言いませんから、その扉を開けてください」
「センセーのその強気なところ、とってもいいと思うよ。でも、ここではアーサーが一枚上だって理解したほうがいい」
「どういう意味ですか?」
「坊っちゃんには逆らわないほうがいいってことさ。できるなら、さっさと荷物をまとめて、十九時三十五分発ロンドン行きの列車に乗ることをオススメするね」
「ボヌフォワくん」
菊の静かだが、妙に響く声を聞いて、フランシスは黙った。
「貴方はカークランドくんの友人でしょう。彼がこのままで本当にいいのですか? この狭い世界で王者のようにふるまったままでは、外に出て地獄を見るのは彼なのですよ」
「安心しなよ。あいつにとって、この世は地獄さ」
その意図を尋ねようとした菊を遮り、フランシスが陽気な声で言った。
「あいつがイギリス料理を食べ続けてる限りね。じゃ!」
待ちなさいと叫ぶ菊を置き去りに今度こそ、フランシスは去っていった。戻ってくる気配はなく、他にこの回廊を通るものはいないようだった。当然、懲罰室の戸は開かないままだ。
菊は深いため息をついて、身の回りで木戸を壊せるほど頑丈な道具を探しはじめた。
さんざんな目に遭ったアーリーズスクール初日を終え、菊は車で帰宅した。
うす汚れた白い漆喰に黒の横木が目立つ、レンガ色の屋根の家だ。
誰が見ても、その家に積み重ねられた歴史(建っているのが奇跡といえるボロさ)を感じ取ることができる。菊は車止めに駐車すると、おぼつかない足取りで薔薇が咲き誇る庭を横切り、小さなテラスに面した玄関を開けた。
そのとたん、菊はネクタイを引っ掴まれ床に放りだされた。間発入れず小さな影が腹に飛び乗り、低いうめき声をあげる。
「遅えぞジジイ! 予定より三分三十七秒の遅刻だぜ。ギルベルト式訓練法によって晩飯抜きの刑に処す!」
そう言って意地悪い笑みを浮かべたのは銀髪に赤目の少年だった。三白眼ぎみで目つきは悪いが、それを含め人目を惹く見栄えの良さがある。彼はお下がりの羊毛のセーターにコットンパンツという格好で、菊を見下ろしていた。
「勘弁して下さい教官。自分は腹が減って餓死しそうなのです」
「ダメだ。誇り高いドイツ人はたとえ腹が空っぽでも、ロシアへの行軍をやめないぜ!」
「また貴方は変なドラマ見て……」
菊は腹にギルベルトを載せたまま、ため息を吐いた。それを彼が険しい顔で覗き込む。
「なんだ、キク。お疲れかよ?」
「いえ、初日ですから色々緊張したんです。ギルベルトくんこそ、転校先はどうでした?」
「小鳥のようにカッコイイおれ様に死角はないぜー! けど、おっかねえゴリラ女はいた」
菊は真っ青な顔で震えるギルベルトの頭をなでた。どうやら初日はなかなかうまくいったようだ。ランカスターの田舎町は彼の傷を癒す助けになるだろうか。
キッチンのほうから、料理のいい香りが漂ってきた。菊はギルベルトを腹から下ろすとジャケットを脱いでコートラックにかけた。
「せっかくの夕飯が冷めちゃいますね。今日のメニューはなんですか?」
「おれ様特製シュバイネシュニッツェルにブレートヒェン。カルトッフェルズッペだ! ありがたくいただけよ!」
「それはもう。ギルベルトくんのごはんは美味しいですから、本当に楽しみです」
「昼に生ごみ食ってるジジイを労わってやったぜー」
ギルベルトは鍋から黄金色のスープを皿にそそいで、菊に渡した。菊はそれをリビングにある二人掛けの小さなテーブルに置く。キッチンでは木製の台に立ったギルベルトが真面目な顔でシュニッツェルをよそっていた。
かりかりに焼いた豚にシチューに似たソースをとろりとかけると、バターの芳醇な香りが辺りに広がった。
菊は知らず唾をのみ、それを横目で見たギルベルトはにやりと笑った。半分に切った丸いプチパンをあごで示す。
「おい、ジジイ! ブレートヒェンにチーズかスプレッドペーストをお好みで塗りやがれ」
「はいはい。ギルベルトくんはチーズですか?」
「Ja!」
菊がパンにチーズとこっそり野菜を挟んだところ、得意げな顔の彼がリビングにやってきた。湯気がたつボール型の皿を向かい合わせで二つ置き、期待したように菊を見上げる。
「Guten Appetit!」
「いただきます」
さっそくシュニッツェルを切り分ける。サクッという音と一緒に肉汁が滲み出て、ジューシーな肉のうまみが広がった。菊は頬をおさえ、無言で幸せに悶えた。
ギルベルトを引き取ってよかった感じたことは数多くあるが、そのうちのひとつが食生活に大きな幅が出たことだろう。いままで菊は本場のドイツ料理を食べたことがなかった。しかし、いまでは彼が作るシュニッツェルが大好物だ。
「おいしいです! ギルベルトくん、このままお店を開けますよ」
「当然だぜー! おれ様のシュニッツェルは世界一うめえんだからよ!」
「ええ。本当に私は果報者ですねえ」
「だろだろ。もっとおれ様を讃えろジジイ!」
ギルベルトが目を輝かせるのを見て、菊は心からランカスターに来てよかったと思った。ロンドンの薄暗い空の下では、そんな顔を見たことなかったのだ。
けれど、プレッブスクールに勤める菊とは違い、ギルベルトはごく普通の公立校に通っていた。ロンドンの名門スクールに主席で在学していた彼にいまの環境は物足りないのではないだろうか。菊はいつもそのことで頭を悩ませていた。
彼には、ギルベルトをパブリックスクールに通わせる程度の貯蓄はあったが、その準備段階に入れる余裕はなかったのだ。そして、そのようにふがいない自分をひどく情けなく思っていた。
「おい、キク。おれ様特製ズッペを飲んでるときに、しょぼくれた顔すんじゃねえよ」
「すみません。スープはほっぺたが落ちるほど美味しいのですが、少し考え事をしていまして」
「ふうん。なに考えてんのか知らねえが、おれ様はここが気にいったぜ!」
ギルベルトは菊の悩みを見透かしたように言った。
「ジジイをいじめるクソ親戚連中もいねーしよ。いまさら帰りたいっつっても遅いからな! おれ様はここで、おれ様のおれ様によるおれ様のための王国を築いてやるぜー!」
「それは大変ですね。では誰に水曜と日曜のごはんをつくってもらいましょうか。私は貴方が作るシュニッツェルが大好物なのですが……」
「ったく、お前おれ様の飯好きすぎるだろ! しょーがねえ。ジジイのために水曜と日曜は王様をお休んでやるぜー!」
「それは光栄ですね。陛下」
菊はギルベルトの気づかいに心が温まるのを感じた。
彼は間違いなく菊の逡巡に気づき、それを遠回しに否定したのだ。その子どもらしからぬ鋭さに、彼の育った環境がかいま見え、胸が痛む。
けれど、同時にこれからは自分が家族というものを教えていこうと決意した。現に菊とギルベルトは出会って数カ月しか経っていないが、まるで生まれてからずっと一緒にいたように過ごすことができた。
菊はギルベルトが大好きだったし、彼も尊大な態度ながら自分に懐きはじめてくれている。このまま彼と温かい家族になっていきたい。それはいま、菊が心から望んでいることだった。
吹きすさぶ寒風が入り込まない室内で、二人は幸せそうな顔で食卓を囲んだ。