のばらの子どもたちact 003

 その日、菊は不定期に行っている異文化の講義もなく穏やかな一日を送っていた。忌まわしい懲罰牢事件のあとも、アーサー・カークランドはごく普通の優等生として振る舞い、あれが幻だったのではないかと思うほどだった。

 一度ハワードに彼に閉じ込められたと相談したが、面白い冗談ですねと笑うだけでまるで相手にされなかった。菊もアーサーを呼び止め注意したが、ひどく礼儀正しい態度でなんのことだかわからないと言われ狐につままれた気持ちになったのだ。

 しかし、一度見に行った懲罰牢には菊が椅子でぶち開けた大穴があいていたし、財布からは修繕費として数ポンドが消えた。あの日のことは間違いなく現実に起きたことなのだ。もしかすると、アーサー・カークランドは二重人格なのではないだろうか? そんな疑いさえ抱き始めていたころだった。

 放課後、菊は寮館でゲロを吐いたという生徒を看た帰りに、子どものすすり泣きをきいた。そこは寮生たちが利用する洗濯場で、無機質な白い洗濯機が両壁に沿ってずらりと並んでいる。

 しかし洗濯場のなかには人っこ一人いなかった。ただ、子どものすすりなく声だけが細く不気味に響きわたっていた。菊は、アーサーからきいた噂話を思い出し鳥肌が立った。

 こわごわ洗濯場を踏み入ると、一番奥の洗濯機だけフタが閉じているのが見える。菊はしばらく立ち尽くしていたが、不意に顔色を変えそのフタを開けた。

 まず燃えるような赤毛が目に入った。洗濯機のなかに閉じ込められた少年は泣き腫らした顔で菊を見上げると、いっそう大きな声で泣きだした。彼を落ち着かせ、誰にこんなことをされたのかと尋ねる。すると少しの逡巡のあと、驚くべき名前を呟いた。


「アーサー・カークランド!」

 食堂を出て、友人と笑いあっていたアーサーを菊は大声で呼びつけた。もはや二重人格だろうが知ったことではない。あの嫌がらせは度を超えていた。

 菊の険しい顔にぎょっとする友人とは逆に、アーサーはひどく静かな面持ちだった。まるで悪びれたところのない面持ちに、菊はさらに怒りを深めた。

「貴方は、なぜ私が呼びとめたかわかりますね?」
「いいえ、センセイ」 とアーサーは礼儀正しく答えた。
「わかりません。おれがなにかしてしまったでしょうか?」
「貴方に覚えがないのは、とても不思議なことですね。カークランドくん。哀れな少年を洗濯機のなかに閉じ込めたでしょう。かわいそうに閉所恐怖症の彼はひどく参っています。さあ、まだしらばっくれるつもりですか?」
「いいえ」
「そうですか。残念です。……なんですって?」
「いいえ、と言いました。ホンダセンセイ、おれは彼を洗濯機に閉じ込め、フタをしました。出てこないでほしいと思ったからです」

 その率直な答えに周囲がざわめいた。
 スキャンダルに飢えた寮生たちが刺激を求めて集まってきていたのだ。ちょうど夕飯どきであったのも災いし、食堂前の廊下には二人の姿を見ようと多くの生徒がつめかけていた。

「どうして出てこないでほしいと思ったのですか?」
「言いたくありません。センセイ」
「言い方を変えましょう。カークランドくん。どうして彼に洗濯機から出てきてほしくなかったのか、答えなさい」
「言えません」

 アーサーは瞳に強い光を宿して菊を見つめた。

 間違いなく菊のほうが正しいことを言っているのに、その堂々とした態度はまるで彼のほうに正義があるように思わせた。聴衆たちも小柄で奇妙なアジア人より、天使のように美しいイギリス人に心動かされているようだった。

 菊はこの状況に焦りを感じ、主導権を取り戻そうと口を開く。そのとき、美少女と見まがう少年が群集の輪から進み出た。

「アーサー。ごめん、もういいよ」
「なに言ってんだ。フランシス。あのことは言いたくないって言ってただろ」
「でも、お前に迷惑はかけられないよ」

 フランシスは彼を守るように立つアーサーを退け、菊を見上げた。

「センセー、アーサーはおれを庇ったんです。こいつはなにも悪くありません」
「悪いかどうかは私が判断します。さて、庇ったというのはどういう意味ですか?」
「おれが彼にからかわれたから、アーサーが怒ったんです。おれはこんなだから」

 フランシスがうつむいて、自分の細い体躯を見下ろした。その様はかよわい少女が憂いているようにも見え、群衆の同情を買った。しかし、至近距離にいた菊だけが気づいた。うつむいた彼の口は嘲るようにつりあがっていた。

 アーサー・カークランドの名前に急かされ、事実確認を怠った菊は一瞬のうちに不利に追い込まれたのだ。

「たとえそれが事実であれ、閉所恐怖症の相手を洗濯機に放りこむのが正しい行為とは言えません。ちゃんと話しあって……」
「センセイは何事も話しあいで解決すると考えておられですか?」

 アーサーがフランシスを守るように前に出る。その姿は姫を守る騎士に似ていた。

「いくら注意しても言うことをきかないし、彼は真夜中の部屋で、ある行為に励んでいるんですよ。同室としてフランシスの身を心配してなにが悪いのですか?」
「ある行為って……」
「オナニーです」

 群衆からうめき声がもれる。

 アーサーの潔癖さとフランシスのかよわさは彼らの紳士的な心をおおいにうったようだった。聴衆は完全に二人の味方であり、寮生でもなく、最近赴任したばかりの菊を異分子とみなしていた。

「けれど、確かにセンセイがおっしゃる通り洗濯機に入れたのはやり過ぎたと思います。いま、彼に謝ってもいいですか?」

 アドバンテージを逃さず、アーサーはさらに菊を追い詰めた。

 一見彼は譲歩しているように見えるが、その内実はとんでもないものだ。もしここで赤毛の少年の名をあげたら、彼は寮室で自慰行為をする少年と学校中に広まってしまうだろう。きっと洗濯機に閉じ込められたのがかわいく思えるほど、熾烈ないじめが始まるにちがいない。

 菊は怒りにまかせ、衆人環視の回廊でアーサーを叱ったことを悔やんだ。

 冷静になって職員室に呼ぶべきだったのだ。そうすれば、少なくとも被害者のプライバシーをたてに取られることはなかった。ここはアーサーのホームグラウンドなのだ。

 群衆は新任のアジア人校医に反感を持ち始めていた。彼らにとって寮は自分たちの自治が許される空間だ。そこに土足で踏み入り、アーサー・カークランドという象徴を侮辱した行為は許しがたいものだった。

 たった二人の少年は群衆を操り、これ以上ないほど完ぺきに菊を劣勢に追い込んだ。

 そのとき、食堂から出てきたラテン語の老教師が群集に囲まれたアーサーとフランシス、そして菊に気づくとけげんな顔で辺りを見回した。

「いったいなんの騒ぎだね? 五十年ぶりに懲罰牢の住人になりたくなかったら、部屋にもどりなさい。あそこは最近リフォームしたようだから」

 群衆たちは不満そうな顔をしながら、散り散りに去っていった。
 アーチ型の天井の下に、菊たちだけが残った。ラテン語の教師はきみたちも早く行きなさい、と二人を追い返してしまう。菊が呼びとめようとすると、険しい顔でそれを引きとめた。

「どうして彼らを行かせるのですか? 彼らは間違ったことをした。私たちはそれを正さねばなりません」
「きみが言うことはおおむね正しい。けれど、間違いは自分たち自身で正すものだ。男はいつまでも誰かのいいなりになるべきではない」

 老教師は灰色の髭を触りながら不快そうにつけ加えた。

「それに私個人としては、きみに告げ口をした生徒のほうが気になるのだがね」