のばらの子どもたちact 004

 菊が憂鬱な顔でエントランスに向かう回廊を曲がったとき、出口の柱にもたれる人影が見えた。

 彼は紫苑のリボンを髪に垂らし、両手を胸の上で組んで菊を見つめていた。見た目だけなら完ぺきな美少女だが、その賢しさを見たあとでは微塵も感動を覚えない。菊はにこやかにほほ笑む彼を真正面から見返した。

「だからあいつは一枚上手だって言ったのに」
「そうですね。ですが、あとで彼にはきちんと謝っていただきますよ」
「センセーって雑草みたいな根性だよねえ。そんなところもチャーミングだよ」
「貴方ほどではありません。カークランドくんは一緒ではないのですか?」
「あいつはあいつのラ・メルに呼び出されてるよ」

 そのとき一瞬だけ、フランシスが苦み走った表情をした。
 菊はそれに興味をひかれたが、フランシスもそれに気づき仮面のような笑顔をはりつけた。美しい笑みだったが、その瞳は氷点下に似た冷たさだった。

「センセーもこの学校に長くいたいでしょ? アジア人がうちみたいな名門私立の校医になれるなんて早々ないしね」
「私を侮辱しているのですか? ボヌフォワくん。私はご家族に連絡して貴方の中間休暇を取り消すこともできるのですよ」

 菊は怒りを抑え、できるかぎり冷静な口調で言った。

「無実です、センセー。気に障ったなら謝るよ。ただ、おれが言いたいのは、センセーの定規でおれたちを計らないでほしいってことなんだ」
「貴方が言いたいこともわかります。けれど貴方たちの言動が常軌を逸した際、解決に外部の手が不可欠な場合もあるのですよ」
「そうですか。じゃあもっと率直に言いなおしますと、他人の事情に首つっこむな!」

 フランシスが柳眉をひそめ、菊を見上げていた。

「身の程をわきまえてよね。センセー。おれ、ブンフソーオーな人ってきらいなの」
 唖然とした菊を置いて、フランシスは踵を返した。そして、回廊のなかほどまで進み、ふり返る。
「そうそう。アーサーはあいつに謝らないよ。そうする必要がなくなるからね。センセーもその件で頭を悩ませることはなくなると思う。では、ボンヌ・ニュイ!」

 フランシスはウィンクをして、回廊の奥に消えた。人のざわめきも届かない薄暗いエントランスで、菊はそれだけが希望のようにギルベルトの笑顔を思い浮かべていた。


 フランシスの言葉の意味を精確に理解したのは、その翌週、菊が不定期の講義のためにアーサーたちの教室に入ったときだ。

 菊が教室に入っていくと子どもたちのざわめきが引き潮のように静まった。それ自体は普段と同じことだったので、出席を確認しようとクラス内を見回す。しかし、教壇に立っても、いつもは続く内緒話が聞こえなかった。教室は不気味な沈黙が落ちていた。

 多くの生徒がうつむくなか、アーサー・カークランドとフランシス・ボヌフォワだけは愉快そうな顔で菊を見つめていた。菊は不吉な予感がして、問いかけるように二人を見つめた。

 アーサーは鼻で笑って菊を無視し、フランシスは楽しそうな顔で黒板に目配せした。

 菊は黒板いっぱいに描かれた絵を見て一瞬呼吸をとめた。
 そこには子どもらしい無邪気な筆致である動物が描かれていた。

 「彼」は台にのぼって天井からぶら下がるバナナを必死にとろうとしている。全身がもじゃもじゃの毛に覆われ、その動物的本性をむき出しにしたように歯を見せる――サル

 サルは眼鏡をかけ、身の丈よりだいぶ大きい白衣をはおっていた。バナナに向け必死に手を伸ばし、届かないことに不満そうな顔をしている。その風刺画は白衣を着て眼鏡をかけた東洋人――菊をあてこすったものだと誰が見てもあきらかだった。

 菊はあまりの侮辱に気が遠くなった。ロンドンでもこれほどあからさまな差別を受けたことがない。けれど歯を食いしばり、教室内を見わたした。

「皆さんがこんな幼稚な嫌がらせをする方々だと知り、とても残念です」

 菊はまっすぐ二人の生徒を見つめて言った。

「恥を知りなさい!」

 けれど、アーサーはにやついた顔で菊をまっこうから見返した。菊はいやな予感がした。その態度によって、彼がまだ何かを隠しているのに気づいたのだ。

「このことはハワード先生を通じて、理事長にもご連絡します。落書きをした生徒は自分の卑しさを理解し、反省しなさい。貴方方がなにを期待したかは存じませんが、今日の講義はこのまま続行します。もちろん絵は消しませんので、残念ながら私たちは一時間この不快きわまる落書きを見続けることになりますね」

 そこでようやく菊は気づいた。アーサーが机を打っていた人さし指を止め、ななめ横の少年を指さした。その少年は誇らしげな顔でアーサーを見つめていた。菊と目があうと、きまずそうな顔をしたが、思い直したように攻撃的ににらみつけてきた。

 菊は彼に見覚えがあった。

 つい昨日、洗濯機から救出した赤毛の少年だ。遠目でもその袖がチョークで汚れているのに気づき、めまいがした。フランシスの言ったアーサーが彼に謝る必要がなくなるとはこのことだったのだ。

 イジメを受けた被害者はときとして加害者にまわる。スケープゴートをさしだし、自分のプライドと地位を復活させたがるのだ。まるで児童心理のテキストのように計算された展開だった。

 菊は深呼吸すると、持ってきたテキストを教壇に置いた。幸運なことに今日の講義は黒板を使わなくても可能だ。そもそも異文化の講義自体、生徒の視野を広めるのが目的なのでとくに形式ばったものではない。

「英国のマナーハウスなどで席次というものがあるように、昔の日本にも同様なものがありました……」

 菊は背後の黒板をできる限り見ないようにしながら、話しはじめた。


 講義も終盤になり、菊はテーブルの好きな位置に友人や家族を座らせた絵を描くよう指示し、椅子に座った。

 菊が描き始めたのは、ロンドンの瀟洒な長テーブルではなく、ランカスターにある二人掛けの小卓だった。彼が前住んでいたロンドンの邸は貴族が住むマナーハウスに似ていて内装も素晴らしかった。

 テーブルもツイスターができるほど大きかったが、菊の記憶にあるかぎりその大きすぎるテーブルを誰かと囲んだことはなかった。毎日、菊の後ろには彫像のような執事が立ち、ナイフとフォークの音だけが寒々しく響いていた。

 現在の家は、菊が初めて見るほどのボロ屋だ。しかしロンドンの家にはない温かさがある。足をのばせば、すぐギルベルトにぶつかってしまう小さいテーブルは幸せとぬくもりのシンボルだった。

 菊は木製のテーブルに向かい合って座る黒髪の男と銀髪の少年を描いた。
 そのどちらも幸せそうな笑顔を浮かべており、できばえに満足した菊は席を立った。

 机の間を歩き回って、子どもが描いた絵について質問をしたり、その出来栄えの良さに驚いたりする。菊は子どもと同じ視点にたてる珍しい大人だった。

 なので、本心から彼らの絵に関心を示した。初めのうちは鬱陶しげにしていた子どもも心から感嘆する菊に徐々に警戒を緩めていった。

 友人の絵を描いてもいいと指示したにも関わらず、彼らのほとんどが食卓を囲む家族の姿を描いていた。ウィークリーボーダーよりフルボーダーが多いアーリーズではホームシックに悩む子どもが大半だ。たった十一歳で家族から離れ、自立を促されるのはどれほどつらいだろうか、と菊は想像した。

 彼らはここを卒業してもシニアスクールに進学し、親元を離れる寮生活を続けていく。いつかどうあがいても人は一人になるのに、何故目いっぱい誰かに甘えられる時代を奪ってしまうのだろう。菊はそれが心の底から不思議だった。

 アーサー・カークランドの席に近づくと、彼の画用紙がまだまっ白であるのが見えた。
 菊は声をかけるか迷った。

 一応、絵を回収してコメントを付けるつもりだが、成績に関わるものではなく、誰かとの絆を感じさせるのが一番の目的だったのだ。

 それに、彼に対する個人的な感情も理由のひとつだった。しかし、教師は公私の感情を分けるべきだと思った菊は彼に話しかけた。

「だれを描くか悩んでいるのですか? だれでも大丈夫ですよ。カークランドくんのお友だちやご家族でも……」
「センセイ」

 ぴしゃりとアーサーが菊の言葉を遮った。彼は無邪気な笑顔で菊を見上げた。

「センセイはオレンジが好きですか?」
「いえ。美味しいとは思いますが、特別好きでもきらいでもないですよ」

 菊は素直に答えた。子どもの質問にはどんなものだろうが、極力真摯に答えようと思っている。しかし、その答えにアーサーが頬をゆがめたのを見て、菊は瞬時に後悔した。

「それはよかった。センセイはオレンジを控えたほうがいいと思ったので」

 アーサーは気の毒そうに続けた。

「センセイはその、少し黄色いから」

 菊は自分でも驚くべき忍耐を発揮し、アーサーをぶん殴る衝動を抑えた。

 結局、彼は白紙に流麗な筆記体でサインして提出した。

 その悪びれのない態度はいつもどおり菊を馬鹿にしたものだったが、何故か普段笑顔を絶やさないフランシスが非難するように菊をにらんでいた。


 菊は大好物のチキンシュニッツェルをじっと見つめた。
 正確にいうと、彼は皿の上で湯気をたてる小さなチキンを見つめていたのではなく、己の思考に沈んでいた。咎めるようなフランシスの視線がずっとひっかかっていた。

 そのとき、対面のテーブルから大理石のように白い手がのびて菊の鼻をつまんだ。

「おい、ジジイ! 飯食うときまでしけた面すんじゃねえ!」

 菊が鼻を押さえて顔をあげると、ギルベルトが眉をつりあげ菊をにらんでいた。

「おれ様特製シュニッツェルに文句あっか?」
「いえ。美味しそうだなあ、と見とれてしまいました」
「ケッ、おれ様の目を誤魔化せると思うなよ。お前がジフテリアにかかった犬みたいな顔するのは、たいてい下らねえことで悩んでるときなんだぜ」

 ギルベルトはフォークを菊につきつけると、挑むように言った。

「クソ親戚連中から連絡でもあったのか」
「いいえ。ありません」
「誓えるか?」
「ええ。貴方と私の神に誓って」

 しばらくの間、二人は無言でにらみあった。ギルベルトはフォークをナイフのように素早く回し、シュニッツェルに突き刺した。

「ならいいけどよ」

 不貞腐れた顔でチキンを頬張るギルベルトに菊は息を吐いた。ときどき彼が見せる獰猛な仕草に本気で怯えそうになる。彼とはひと回り以上年が違うが、その瞳は菊と同年代の大人でも持ち得ぬほど鋭く荒んでいた。

「じゃ、なんでそんなに凹んでんだよ。セイリか?」
「ギルベルトくん、食事中ですよ」
「んだよー。小うるさいジジイだな」

 ギルベルトは唇をとがらせた。その口の端に食べカスが着いているのに気づき、菊が身を乗り出して拭うと、彼はくすぐったそうに目を閉じた。

「おい、ジジイ。今日のおれ様の勇姿を語るお時間だぜ!」
「はいはい。なんでしょう」
「クンストの授業で家族の肖像を描いたんだけどな、おれ様はジジイを描いてやった! あとで見せてやっから、ぞんぶんに褒め称えろ!」
「楽しみです。恰好よく描いてくれましたか?」
「なに言ってんだ。実物にチュージツに描くのが肖像だろ?」

 ギルベルトが首をかしげるのを見て、菊はその生真面目さを好ましく思った。いくら粗暴に振舞おうとも、その根底にある真っ当さは彼の大きな美点だ。

「前は家族の絵を描けつった教師がマジで憎たらしかったけど、いまはそうでもねえな。面倒くせえけど!」

 菊は笑顔を浮かべる途中で、それがひきつったのがわかった。

 彼の言葉に自分の行動を思い出したのだ。今日、菊はテーブルを囲む絵を描かせていた。
 一応、家族のほかに友だちの絵を描いてもいいと言ったが、ほぼ全員の生徒が家族の絵を描いていた。あの場で友人の絵を描いたら間違いなく浮いていただろう。

 しかし、ギルベルトのように描きたくても家族の絵がかけない生徒もいる。彼の親はちょうど一年前に亡くなっていた。

 菊は白紙で提出したアーサーのことを思い出し、唇をおさえた。

「なんてことを……」