のばらの子どもたちact 005

 ギルベルトは何度呼んでも菊の返事がないのをいぶかしく思い、リビングに入った。

 そこではソファのうえで寝息をたてる菊の姿があった。湯気をたてるマグカップがソファの前の小卓に置いてあり、テレビもつけっぱなしになっている。

 時計を見ると十時時を少し回ったところだった。ギルベルトはテレビを消し、マグカップを持ってキッチンに戻った。

 ギルベルトの義父は温かい紅茶にブランデーを垂らすのがお気に入りだった。

 それはギルベルトが義父から初めて教わった“料理”だ。彼はギルベルトが作るブランデー風味の紅茶を絶賛し、息子ほど美味しい紅茶をいれるやつは世界中どこにもいないと言うほどだった。

 以来、ブランデー入り紅茶は義父だけのメニューになった。彼が死んだあと、ギルベルトはこれから一生それをつくることはないと思っていた。菊に出会うまでは。

 ギルベルトはいつでも菊と初めて会った日を思い出せる。

 一月の粉雪が舞い散る陰鬱なロンドンだ。

 ギルベルトは親戚に連れられ、義父の別邸に来ていた。親戚たちは、彼がどこからか連れてきたギルベルトを蛇蝎のごとくきらっていた。

 ギルベルトの父親はドイツで有名な名士の一族だった。しかし、彼はカビが生えた因習を厭い、若いころ単身ロンドンにやってきていた。そこで信頼できる仲間を集め会社を設立し、アジアとの貿易でひと山当てた。のちのち思うことだが、彼はここで菊と知り合ったのではないだろうか。

 そして四十歳なかば、とつぜん小さな男の子と住み始めた。誰がきいても母親の名前は言わず、子どもも彼とは似ていなかったので、親戚たちは金持ちの道楽だと噂していた。この子どもこそ、ギルベルトである。

 彼らはギルベルトに対してひどく悪意のある噂を流したが、ギルベルト当人は全く気にしていなかった。むしろ義父のほうが怒り狂っていたくらいだ。

 義父は親戚が来るといつも奴らの言うことは気にするな。お前は私の子どもだとギルベルトに言い聞かせた。ギルベルトは義父にそう諭されるのが好きだったので、内心噂を歓迎していた節すらあった。

 そう、彼らがやってくるたび聞こえる悪口は、風が樫の木をゆらす程度の騒音だった。

 それが覆ったのは義父が死んでからだ。
 彼らはギルベルトたちの家に土足で踏み込み、家探しでもするように値打ち品を掠め取っていった。暴れるギルベルトを庭に放りだし、胡散臭い弁護士と邸宅にこもった。

 テイトウとかリケンとか知らない単語が聞こえてくる。彼らがなにを言ってるのかはわからなかったが、この屋敷を奪い取ろうとしているのは感じる。

 ギルベルトは怒りに燃え、狼のように吠えた。しかし、いくら叫ぼうとも事態は変わらなかった。彼は自分の背の何倍もある鉄の扉にすがりつき、手がかじかみ感覚がなくなるまでその扉を叩いた。

 思いつくことは全部やっても、扉は開かなかった。ギルベルトが絶望に座りこんだとき、背後から温かいコートがかけられた。真っ赤に腫れた手が温かでやわらかいものに包まれた。「彼」はギルベルトの手を痛ましそうに見ると息を吹きかけ、その手をもんだ。

 それは、ギルベルトとはちがうオリーブ色の手のひらだった。警戒を顕わに見上げても、彼は穏やかにほほ笑むだけだった。春の日射しのように慈しみ溢れた笑みだった。

 ギルベルトは、スピネルに似た神秘的な目に見とれた。彼の目は今まで見たどの瞳の色より、魅力的に見えた。

 青年は二十歳くらいの小柄なアジア人で、西洋では珍しい絹のような黒髪につるりと人形みたいな顔をしていた。グレーのピーコートの前が開き、白いセーターにコットンパンツというラフな格好が見える。

 ちなみにその服一式はいまギルベルトのクローゼットに入っているものだ。これも後で思ったことだが、菊は相当急いで彼のもとにやってきていたのだろう。

 でなければ、礼節を重んじる菊が身のみ着のままで親戚連中たちに顔を出すわけがない。そして、彼がそれほど急いだのはギルベルトのためだった。

 ギルベルトは慌てて自分の格好を見下ろした。両手は扉を叩いたせいで汚れ、コートは暴れた拍子にかかったテレピン油のにおいがしていた。その粗暴で不潔な姿に彼は生まれて初めて羞恥という感情を味わった。

 しかし、青年はギルベルトの汚物のような格好を全く気にしなかった。それどころか、一向に温まらない手のひらを自分の頬におしあて熱を分け与えさえした。

 しばらくして、彼は何かを思いついたように悪戯っぽく微笑んだ。ポケットから四角くて白い袋を出すとギルベルトに渡し、両手でギルベルトの手ごと包み込んだ。

 信じられないほど温かかった。

「さすが日本製のホッカイロ。あったかいですねえ」

 確かに不思議な袋は熱を伝えたが、ギルベルトが本当に温かさを感じたのは彼自身の存在だった。

 もしかしたら、彼は悲しみに気が狂った自分の幻想かもしれない。現実に、それもギルベルトの目の前に、彼が毎日祈りを捧げるマリアのような人が現れるとは思えなかった。

 それでも、彼は幻想を振り払う呪いをしなかった。もしそうすることでマリアが消えてしまったら、今度こそ自分はどうにかなってしまう気がした。

 青年は長い間、ギルベルトの手を包み目をつむっていた。それは神に祈りを捧げる姿に似ていた。ギルベルトはとつぜん、馬鹿げた考えにとりつかれた。

 彼の目が開いたら、今度こそ彼は消えてしまう。彼はギルベルトの手を温めるためだけに神が遣わしてくださった奇跡なのだ。開けるな。お願いだから、目を開けないでくれ!

 しかし、当然のことだが青年は目を開けても消えることはなかった。ただ自分を凝視するギルベルトに罰が悪そうにほほ笑んだだけだった。
 そして、彼はギルベルトの手を離し、代わりにしっかりと手を繋いだ。

「挨拶が遅れてごめんなさい、ギルベルトくん。私は本田菊と申します。貴方の家族になりたいのです」

 このとき、ギルベルトは菊が幻想でも構わないと思った。もし彼を害そうとするやつがいるなら、なに犠牲にしても――それがたとえ自分でも、守り抜こうと誓った。


 二階の寝室から毛布を引きずって戻ったときも、菊はまだソファで寝息をたてていた。
 その寝顔はギルベルトよりひと回り上であることが信じられないほど若々しい。

 二人で歩いていると、友だちか? と尋ねられることすらある。そのたび菊はいいえ、家族ですと訂正していた。ギルベルトは菊が菊の声でいいえ、家族ですと言うのが好きだった。

 背伸びしてその身体に毛布をかけると、菊が大切そうに画用紙を抱えているのに気づいた。きっとさっき見せた肖像画だろう。ギルベルトは気分良くなった。画用紙を抱える腕を外し、慎重にそれを抜き取る。しかし、それを見たとたん彼はきつく眉根を寄せた。

 画用紙はまったくの白紙だったのだ。もちろん、ギルベルト会心の肖像画など描かれていない。ギルベルトは不貞腐れながらも、それをテレビの前の小卓に置こうとし、あることに気づいた。

 アーサー・カークランド

 画用紙のすみに気障な筆記体でそうサインされていた。

 灯りに照らし何度も確認するが、それは間違いなくアーサー・カークランドと読みとれた。初めてきく名前だ。おそらく、担当の生徒のものだろう。

 菊はいままで勤め先について極力話さなかった。それがプレッブスクールに通えない自分への配慮だと知っているので特に聞き出すこともなかった。

 それに菊を昼間独占できる生徒がうらやましかった。けれど、そう思う自分はカッコ悪くて、アーリーズスクールの話しをきかないですむのは大歓迎だったのだ。

 だから、ギルベルトは初めて菊が自分の知らない場所で働いているのを実感した。

 そして、二人の家に入り込んできた異物――アーサー・カークランドに野生動物が縄張りを侵されたような不快感を覚えた。

 ギルベルトは気持ちを切り替えるように菊の寝顔を見つめた。黒ぶちの眼鏡をかけ、腕を組んでゆっくりした呼吸に合わせ肩を上下させている。その頬は暖房のきき過ぎかほんのりと赤く染まっていた。

 彼はときどきこの安らかな生活がすべて夢ではないか想像することがあった。本当の自分は義父のいない冷たい邸の庭で倒れているのだ。そうでなければこんな過ぎた幸せを神が与えて下さるだろうか。

 ギルベルトの悪夢を振り払ったのは、菊のうめき声だった。彼は寝苦しそうに空の手を顔に持っていこうとしていた。ギルベルトは彼が眼鏡をかけっ放しであるのに気づき、丁寧な手つきでそれをとりあげた。

 そして、彼は雷でうたれるような衝撃を受けた。

 そっと菊の頬を拭った。指先に濡れた感触が残った。彼の頬の赤さは泣いたのが原因だったのだ。

 一度、ギルベルトは大切な家族を得てそれを失った。そのとき彼は絶望したが、もしいま菊を失ったら自分の心は死んでしまう。だから菊と自分を隔てるようなやつは、そして菊を傷つけるやつは、なにをおいても排除するつもりだった。

「だれに泣かされたんだよ。ジジイ……」

 ギルベルトは宝物に触れるようなおっかなびっくりした手つきで菊の頬を撫でた。その顔はふだんの彼を知る者からすれば驚くほどやわらかい。

 とつぜん、二人の間を裂くように画用紙が滑り落ちた。

 ギルベルトは身体を固くして床に落ちた画用紙を見つめた。
 奇妙な確信が脳裏をよぎる。それは天啓のようなひらめきだった。なんの根拠もないが、ギルベルトはそれが正しいとわかった。彼の勘はここぞというとき、外したことがないのだ。

 アーサー・カークランド

 菊はそいつに泣かされたのだ。

 ギルベルトは菊が見たこともないほど敵意に満ちた顔で画用紙を見つめていた。まるでそれが自分たちの生活を脅かすものだとわかっているように。
 いつまでも、いつまでも……。