のばらの子どもたちact 006

 月曜日の午後五時。菊は図書館に続く渡り廊下を急いでいた。彼に好印象を持つ少数の生徒があいさつするたび、笑顔でそれを返したが通り過ぎるとすぐ無表情になった。

 アーリーズスクールの図書館はイギリスらしい尖塔がめだつ灰色の建物だ。
 高さが同じブロックの間に背の低いブロックが挟まれた格好で、両端の二つのブロックはフォークの先のようにとがっていた。菊はアーチ型の入り口をくぐり、陰鬱な図書館に入って行った。

 カビ臭いにおいがじゅうまんする尖塔の最奥。本の分類でいえば、近代美術のスペースにアーサー・カークランドはいた。

 彼は菊の身長の数倍はある窓のさんに座って、ゴヤの画集を開いていた。その窓からは菊が通ってきた校庭や渡り廊下を見下ろすことができる。菊は内心、彼がこの来訪に気づいていたのでは、と予感した。

「カークランドくん」

 アーサーは菊の声が聞こえているはずなのに、それをきれいに無視した。周囲の目がない場所では自分を偽る気がないらしい。

 菊はため息を吐いて、窓の近くにある小卓まで歩みよった。小卓には百合の形をしたランプがほそぼそと灯りを点し、薄暗いスペースで唯一の光源になっていた。

「どうして私がここにいるか、貴方にはわかりますね?」

 アーサーは黙って画集をめくった。

「先週の金曜の件です。放課後、貴方を私の部屋によびましたが、来ませんでしたね。そのせいで貴重な時間を時計を確認して過ごす羽目になりました。……さて、私はあなたに二つ言うべきことがあります」

 菊はアーサーから目をそらさず話した。

「最初に、貴方の差別的な発言は許せるものではありません。教師としても私個人としてもです。貴方は私に謝罪し、人種差別について十枚レポートを提出すること。もちろん、そのひねくれた考え方については今後徹底的に指導します」

 菊はそこで言葉をつまらせた。小卓のうえに視線を落とし、そこに数冊の画集が積まれていることに気づく。アーサーはだいぶ長い間ここにいたようだった。沈黙のあと、菊は迷いながら口を開いた。

「そして、私は貴方に謝らなければいけません。この前の時間、私は配慮が足りませんでした。知らなかったとはいえ、貴方を傷つけて本当にごめんなさい」

 ギルベルトに示唆を得て、今朝、早速ハワードに確認をとった。彼はなんでもないことのように教えてくれた。それはオールドハットン一帯では新聞にのったほど周知の事実だったらしい。二年前、彼の父親は交通事故でなくなっている。

 菊は心から反省した。菊が引き取ったギルベルトは義父のフリッツを慕っており、彼が亡くなったとき、本当に打ちのめされていた。いくら時間がたとうとも、肉親の死は古傷のように残り続ける。ひょんなときに顔を出し、私たちを苦しめるのだ。

 しばらくアーサーは驚いた顔で菊を見つめていた。おこりのように肩をふるわせると、その痙攣はあっという間に全身に広まった。アーサーが苦しそうに画集に顔をうずめる。菊は自分の言葉が悲しみを思い出させたと感じ、慌てて彼に近づいた。

「ばあか」

 菊はあっという間にアーサーに引き寄せられていた。彼はさんの上から手をのばし、菊の襟首を捕まえていた。

「余計なお世話だハイエナ野郎! あんまり面白いジョークだったから笑っちゃったぜ。父親が死んでショックを受けてるかわいそうなかわいそうなアーサー・カークランド?」

 小さな手がタイを引いて、キスする寸前まで顔が近づく。彼の緑の瞳はらんらんと光り、威嚇するように菊を見下ろしていた。

「せっかくだから教えてやる。おれはあいつが死んでくれて生まれて初めて神に感謝したぜ。神よ、あの男を殺してくれてありがとうございます。でも、もっと苦しめてくれたらさらによかったのですがってな!」
「カークランドくん……」

 アーサーは憎悪に歪んだ瞳で菊をねめつけた。

「あいつのことは二度と口に出すな。うす汚れたアジア人め! おれはあんたをどうすることだってできるんだ。二年前、あの男にしてやったみたいにな!」

 呆然とする菊を突き飛ばすと、アーサーは狂乱が嘘のように冷めきった顔をした。そして歪んだタイを直し、菊を一瞥もせず去っていった。


 フランシスは、談話室に飛び込んで来た友人を見て目を見開いた。一見するといつもと同じ『優等生』アーサー・カークランドだが、長い付き合いのフランシスは彼の怒りがマグマのように燃えたぎっているのを感じた。

「どうしたの。アーサー? 鏡に映った顔にびびって逃げ出した? すごーく残念なお知らせだけど、その歯をむき出したロバにそっくりなやつ、お前なんだ」
「うるせえ!」

 アーサーは暖炉の前でくつろぐフランシスを通り過ぎ、オーク材のテーブルにあったものを全て床に落とした。談話室のなかに花瓶がわれるショッキングな音が響き渡り、フランシスは顔をしかめた。

「本当にどうしちゃったの? ずいぶんとゴキゲンじゃない」
「うるさい! いまおれに話しかけんな!」
「できればそうしたいけどね。どっかの赤ちゃん怪獣がここを破壊しつくす前に止めるやつが必要だろ」
「なんつった?」

 アーサーがどす黒い怒りをたたえフランシスをふり返った。

「癪にさわることがあったからってものに当たるのは、生まれたての赤ちゃんみたいでちゅねーって言ったんだよ」
「このオカマ野郎……!」

 フランシスはアーサーのこぶしをひらりと避け、ため息を吐いた。

「ねえ、ホントどうしちゃったの。そんな余裕ないお前久しぶりに見たよ。なにがあったわけ?」
「なんもねえ!」
「ウソつくなよ。鏡見ろって。沸騰したヤカンみたいな顔してるから」
「なんもねえっつったらねえんだよフロッギー! おれに話しかけんな!」

 アーサーはそう頑固に言い張り、きつい目でフランシスをにらんだ。彼はこれ以上踏み込むと余計にこじれると気づき、両手をあげ肩をすくめた。

「わーかったよ。いまのお前になに言っても無駄なことがね。ひとこと忠告しておくと、そこの局地的地震を隠したいなら、三十分以内に片付けたほうがいいよ。もうすぐ寮監が点呼に来る時間だし」

 返事の変わりに蝋燭たてが飛んできた。フランシスは軽々とそれを避け、談話室の階段を上って行った。

 談話室には、肩で息をするアーサーだけが残された。彼は遠ざかっていく足音が聞えなくなると、うなだれるように大窓に額をあてた。


 ときを同じくして、菊はすっかり暗くなった図書館で大型本を開いていた。温かな太陽が沈んだせいで、辺りは無情な闇と寒さに満ちている。

 彼は小卓のランプを頼りにアーサーが見ていたゴヤの画集をめくっていた。他はすべて図書館所蔵のものだったが、この本だけは蔵書印がなく、代わりにA・Kとサインがあった。菊はその端正な字を知っていた。つまり、この本はアーサーのものなのだ。

 菊は人の本を盗み見ることに罪悪感を感じたが、不思議な直感でこの本に何かが隠されていると予感していた。

 けれど、いまのところわかったのは、これがただの画集であることと、解説がもったいぶっていて非常に読みにくいこと、そして、これが菊の生まれる前に出版されたことぐらいだ。菊は勘が外れたと思い、ゴヤの迫力ある絵に夢中になった。

 なのでそのページを開いたとき、驚きで画集を落としかけた。菊は耳元で響く鼓動を落ちつかせ、再びその絵に視線を落とした。

 「彼」は狂気に満ちた目を菊に向けていた。

 やせ衰えた身体でなにかに駆り立てられるように幼児の肉体を食らう男。流れ出る血は思わず目を背けるほどのリアリティがある。菊はこの絵を見たことがあったので、その残虐性に驚いたわけではない。

 彼が本当に驚いたのは、幼児を食う男に子どもっぽい筆致で無数のナイフが刺されていたからだ。そして、首がない子どもの身体に幼い字で“It’s Me !”と矢印が向けられていたからだった。

 その絵は『わが子を食らうサトゥルヌス』

 将来、自分の子どもに殺されると知った神サトゥルヌスがわが子を食い殺すさまを描いた作品だ。しかし、結局サトゥルヌスはひそかに助け出された末子のゼウスに殺されてしまう。

 菊はこの暗喩に満ちた作品を困惑して見つめていた。
 しかし、なにかを決意したように本を閉じると、窓の外の無明の闇をにらみあげた。

 
 その週の日曜、菊はギルベルトとランカスターの街に買い物に出かけていた。夕方の六時を周って、西日に照らされた尖塔の影が長くのびていた。ギルベルトはソフトクリームを舐めながら、上機嫌で鼻歌をうたっていた。

「ギルベルトくん。そんなに走ったら転んでしまいますよ」
「だれに向かって言ってんだジジイ! おれ様がんなダセー真似するかっての! あー、バニラ美味しすぎるぜー!」

 菊はその様子を微笑ましく見守っていた。
 どれほど仕事から疲れて帰って来ても、その笑顔を見るだけで次の日もがんばろうと思えた。いまになっては、ギルベルトと出会う前、自分がなにを生きがいにしていたのか思いだせない。菊にとって家族はなによりも大切な生きる糧なのだ。

 一方、家族を憎む人間もいる。菊はサトゥルヌスの絵と激昂したアーサーを思い浮かべた。あれ以来、菊はアーサーと接触をとろうとしていた。

 しかし、こんなときにかぎって講義はなく個人的な問題で教師の権限を使うのも気がとがめたので、今週はついに彼の顔を見ることができなかった。

 菊はため息をついて、愛車が待つ駐車場の角を曲がった。そのとき見覚えある金髪が視界をよぎって、人ごみのなかに消えていった。
 必ずしも「彼」とは言い切れなかったが、その世にも珍しく美しいブロンドに菊は奇妙な確信を覚えた。

(日本では噂をすればなんとやらといいますしね)

「ギルベルトくん! 車のなかで待っていてください!」
「おい! なんだよ、ジジイ!」

 アーサーらしき少年がグレスト精肉店の角を曲がっていくのを見て、菊は車のキーと荷物を全部ギルベルトに押し付け走り出した。