道路沿いに並ぶ店や街灯にオレンジ色の灯りがつき、かろうじてアーサーを追うことができる。その金髪がなかったら、きっとすぐ見失っていただろう。彼は目的地に迷いがないようで、身軽さを生かし人ごみをすいすいと進んでいた。
何度も見失いそうになりながらその背を追っていると、いつのまにか大通りから外れた場所に出ていた。菊はアーサーを大声で呼んで引きとめたのだが、人ごみのなかで菊の声など蚊の鳴くようなもので、ついに恐ろしく治安の悪そうな道にたどり着いた。
その小道に踏みこんだとたん、菊はうめき声をあげハンカチで鼻と口をおおった。下水と腐臭がたちこめる貧民窟のような路地裏だ。道を歩く人間を圧迫するように(もしそんな奇特な人間がいるとすればの話しだが)両側にそびえ立つアパートや倒れて中身が飛び出したダストビン、そこに頭をつっこんでゴミを漁る黒猫。菊は思わず気が遠くなった。
ここはどう控えめに見ても十一歳の子どもにいい影響を与える場所ではない。アーサーが勧められるがままに怪しげな葉っぱを吸う姿を想像して、菊は血の気がひいた。
彼が確信に満ちた足取りで入ったのはRose&Crownというイングリッシュ・パブだった。そこは赤いマッチ箱のような建物で、灰色の建物が立ち並ぶ路地では明らかに浮いている。とはいえ上階のアパートは周囲と同じ年季の入ったねずみ色だ。
マッチ箱のうえには黒地に金色のプレートで店名が飾られていた。そして店からつきだすように赤ら顔の男がサムズアップする看板が下げてある。
菊はとほうに暮れた顔でパブの前に立った。ドアがないタイプの入り口が誘いこむように口を開けている。
店の奥は薄暗くて、どんな様子かここからでは判別できない。もしできたとしても菊が期待するようなお上品な光景を見ることはできないだろう。菊は心の底から、こんな不気味で悪趣味な店には入りたくないと感じていた。
けれど、聖職者としての義務感とアーサーに対して芽生えかけていたある感情が菊を引きとめた。
しばらくして、赤いマッチ箱のなかに小柄な東洋人が消えていった。
まず最初に、菊はさらにきつくハンカチで鼻と口をおおわなければならなかった。できれば肺を取り出して洗浄したいくらい、店内には煙草のけむりがじゅうまんしている。きっとなかには煙草以外のいかがわしい煙も交っているだろう。
ポツポツとランプの光があるほかは薄暗く、そこかしこから粗暴な笑い声が響いていた。菊は置いてきたギルベルトの顔を思い出して、彼が危険な目にあってないことを願った。
できれば彼のためにも一刻も早くここを立ち去りたいのだが、そのためにはアーサー・カークランドを見つけなければならない。
しかし、いくら探してもフロアにアーサーの姿はなかった。菊は焦りを感じてパブのなかを見回した。百合模様のベージュの壁紙にそこからせり出るように造られた椅子。ジョッキを交わす白ひげの老人たち。カウンターで煙草を吹かす赤ら顔の中年男。
ふいに、菊の視線がカウンターのわきの階段で止まった。
美しいブロンドの少年が勢いよく下りてきて、赤ら顔の男にぶつかったのだ。
「カークランドくん!」
間違いなく、アーサー・カークランド本人だった。彼は自分の倍はある腹に吹き飛ばされ、パブの床に尻もちをついた。そしてそんな目に合わせた肥満体の男をにらみつけると、腕を腰にあてて文句を言いはじめた。
菊は真っ青になって二人の間に割り込んだ。アーサーの手をつかみ、自分の背中に隠す。
「すみません。うちのアーサーがご迷惑をおかけしました」
彼が驚いたようにセンセイとつぶやいた。
菊はアーサーがぶつかった中年男に見覚えがあった。というより、つい先ほど吊り看板で見たばかりだ。おそらく彼がここのオーナーなのだろう。その証拠に丸々としたビール腹にRose&Crownと書かれた赤い前掛けをつけていた。
「あんただれだ? 一応いっとくがここは託児所じゃねえぞ」
「ええ。わかっております。ここはとても……」
菊は一瞬言葉をつまらせた。視界のはしで老人が黄ばんだ歯をむき出しにして菊に笑いかけた。
「独創的ですから」
菊はそれに引きつった笑みを返し、同時に背中から飛び出しかけたアーサーの尻をつねった。
「わかったなら、とっとと帰れ」
「ええ。行きますよ。アーサー」
菊は早くこの場を離れたい一心でアーサーの手をひいた。残してきたギルベルトのことが心配なのだ。しかし、そうする前に考えを変えた店主が菊を引きとめた。
「ちょっと待て。あんた」
「なんでしょう?」 と、菊は渋々ふり返った。
「あんた、このお坊ちゃんのなんだ? つい見送っちまいそうになったが、あんたが人攫いじゃねえとは言い切れないからな」
「その」
どう答えようか迷い、菊は唇をかんだ。教師だと名乗らなかったのは理由がある。しかし、面と向かってたずねられると答えに窮した。
店主は気のいい笑みを浮かべ、菊の後ろにいるアーサーを見下ろした。
「なあ、坊っちゃん。もしよかったら、おれがママのところに電話してやろうか。なに、うちにいたってことはバラさねえよ」
その瞬間、アーサーの手が固くこわばった。驚いて振り向くと彼の顔は強張り色を失っていた。それは初めて見るアーサーの弱った姿だった。少しの逡巡のあと、菊はその手をやわらかく握りしめた。
「結構です。私がアーサーと一緒に帰りますから」
「だからお前さんが信用ならねえんだよ」
「貴方に信用していただかなくても結構です」
「心配しなくても、お前の取り分は減らしゃしねえよ」 と、彼が耳元でささやく。菊はそれを振り払い毅然とした声でいった。
「ええ。もちろん心配はしておりません。私は彼の関係者ですから」
「使用人か?」
「いいえ。家族です」
店主は間抜けな顔をして、すぐに吹き出した。
「って、アジア人の兄ちゃんが言ってるがね、坊っちゃん? さあ、心配しなくてもおれがちゃんとママを呼んでやるぞ」
菊は祈るような気持ちでうつ向いたアーサーを見た。ここで使用人や教師と言おうものなら、彼は余計な“親切心”を発揮して彼の家族相手に小遣い稼ぎをするに違いない。
それで済むならまだいい。彼がアーサーの家を知れば、もっと欲を出す可能性もあるのだ。
そのとき、アーサーが小声でなにか言った。店主は揉み手する勢いで彼をのぞきこんだ。
「ん? どうした? 早くママに会いたいよな」
アーサーは顔をあげると、憎悪に燃える緑色の瞳で彼をねめつけた。
「うるせえんだよ! 生ごみ臭え口でおれに話しかけんな!」
「あ、アーサーくん!」
菊は大慌てで彼の口を閉じた。それから、天使のような少年から飛び出した暴言にあっけにとられている店主をおいて彼らは急いでパブから逃げ出した。
「あんなパブ初めて見ました。あるところには、あるんですねえ」
二人はRose&Crownのあった路地を抜け、大通りのすぐ近くまで戻ってきていた。下水のにおいと腐臭は薄れ、フィッシュ&チップスやグレービーソースのにおいが漂ってくる。どうやら、菊がはじめにいたスーパーのあたりに戻ってきたらしい。
「離せ!」
それまで手を引かれるがままだったアーサーが不満そうに腕をふった。しかし、菊は厳しい表情でそれを断った。
「あの店主は本当に親切な方ですね。パブで見た顔が数名こちらをうかがっています」
「パブで見た顔って……。五十人はいたぞ。お前、そいつらを一瞬で覚えたっていうのか?」
「人の顔を覚えるのは得意なんです。だから、あと少しだけ手を繋いでおきましょうね。アーサーくん」
アーサーは不貞腐れた顔でそっぽを向いた。路地を照らす街灯が手を繋ぐ二つの影を長くのばしている。菊はそれを見下ろして、教師としてきかなければいけないこと思いだした。
「どうしてあんな場所に?」
予想していたことだが、答えはもちろん返ってこなかった。
「ここは学生街で治安もいいですが、物事にはすべて例外がつきものなのですよ」
菊はため息をついて続けた。
「とにかく。この件は保護者の方に連絡します。貴方を家までお送りしないといけませんから」
「やめろ!」
とつぜん、アーサーが大声をあげた。彼は悲壮な表情でうつむき地面をにらみつけていた。菊は一瞬息をつめたが、それを悟られないよう深く息を吐きだした。
「ではどうするのです? このまま夜が更けてもまだ外に居続けるつもりですか? いま私が手を離せば、貴方は間違いなくさっきのパブに逆戻りですよ」
「そっちのが百倍マシだ」
「そうですか。きっと彼らは諸手をあげて貴方を歓迎するでしょうね。そして貴方が段ボールみたいな味のカビたプディングを食べている間に、とある親切な方がアーサー・カークランドをブッ殺すとお母さまにお伝えしていることでしょう」
ぴしゃりと言い返すと、アーサーはすねた顔でだまった。そろそろ本当にスーパーが近いのか、にぎやかな雑踏や車の音が聞こえてきた。路地の終わりが見え、まるでそこだけ切り取られたように楽しげな人々が歩いている。
菊は厳しい顔をやわらげ、うつ向くアーサーをふり返った。
「とりあえず人を待たせているので、そこまで一緒に行きませんか」
オレンジ色のおんぼろ車にもたれかかり、目つきが悪い銀髪の少年がアーサーたちを睥睨していた。彼はねずみ色のジャケットにジーンズというアーリーズの子どもたちがまずしないような格好で、上着のポケットに行儀悪く両手をつっこんでいた。
年ごろこそアーサーと同じくらいだったが、斜に構えたような雰囲気と子どもらしからぬ迫力で、スラムにいる孤児のリーダーのような風格があった。
アーサーはすぐ彼とは気が合わないだろうと直感した。まず服の趣味からしても自分とは正反対なのだ。アーサーはああいう輩とは関わり合いになりたくないと思い、菊の手を引いた。
しかし菊はそれに気づかず、あまつさえ親しみのこもった笑顔を浮かべると彼に向って大きく手を振ったのだ。
「ギルベルトくん!」
「遅えぞジジイ!」
「寒いからなかで待っててくださいと言ったのに。ああ、鼻まで赤くして……」
「おれ様はおれ様の好きにするぜー! ってか、いつまでそいつと手繋いでんだよ!」
彼は二人の間に割り込むように手を切ると、アーサーをものすごい目つきでにらんだ。
「おい、だれだよこいつ」
しかし、すぐあきれた視線を菊に向けたので、アーサーはそれを勘違いだと思うことにした。
「アーリーズの生徒さんですよ。さっき彼が迷ってるのを見つけて保護したんです」
菊はアーサーに向けてうなずいてみせた。そういうことにしておけということらしい。アーサーも詳しい事情を話す気はなかったのでとくに口出しはしなかった。
それより菊と少年の関係が気になる。明らかにアジア系の菊とゲルマンのにおいがする少年にどんな接点があるのだろう。不思議そうにしていたのに気づいたのか、菊は照れ臭そうに笑って、彼は私の家族ですよと言った。銀髪の少年はそんな菊をからかうように見つめていた。
二人の間には人種の壁をものともしない強い絆がある。彼らの様子を初めて見たアーサーでもそれがわかった。同じ人種の、さらに同じ国籍を持つものの間でもそんな絆を育むのは難しいのに……。アーサーはとたんに銀髪の少年が憎らしくなった。
菊は彼からキーを受け取り車のドアを開けた。一番に助手席に飛びこむ少年を叱り、隣りで立ち尽くすアーサーを見つめる。
「乗ってください。家までお送りします」
アーサーはなにも言わなかった。菊からもの言いたげな視線がつきささったが、すべて無視した。
アーサーはあんな場所に戻りたくなかった。もし、菊が彼を無理やり連れて行くつもりなら、なにをしたって逃げる覚悟だった。
「教えてください。アーサーくん。貴方のお家はどこですか?」
菊は辛抱強く尋ねたが、再びアーサーは無視した。アーサーは菊が自分を怒鳴るだろうと予想した。もしくは力づくで車に乗せるだろうと。
けれど、菊はその両方をしなかった。代わりに深いため息をこぼしただけだった。
「みんなにはないしょですよ」
そう言うと、後部座席のドアを開けアーサーをうながした。
「ひとまず貴方に住所をきくのはやめます。こんな寒空の下にいつまでもいたら凍ってしまいますからね。なので、話の続きは私の家でしましょう」
その言葉が信じられず、アーサーは菊を見あげた。彼は表情をゆるめ、意地悪そうに言った。
「それとも、つきとばしてカギをかけるほうが貴方らしくていいですか?」
最後に不貞腐れた顔の少年がのりこみ乱暴にドアを閉めると、オレンジのミニバンはゆっくり発進して暗い道路を郊外のほうに向かっていった。
二十分後、菊はアーサーのトレンチコートを預かり、玄関にある古い木製のコートラックにかけていた。ギルベルトは二人を見比べると菊に意味深な目配せをし、おれ様宿題をやってくるぜー! と二階の階段を上っていった。
彼のこういう察しのよいところにはいつも助けられる。
夕飯は好物を多くよそおうと決め、菊はさきほどからだんまりを決め込んでいるアーサーに向き合った。
彼は菊がよくくつろぐテレビの前のソファに座っていた。警戒心が強い野生動物のように両ひざをたて、菊が渡した赤い花がらのマグカップを胸の前で抱えている。
「さて、こうして家に着いたわけですが。アーサーくん、私が言いたいことはわかりますね?」
アーサーは投げやりな表情で菊を見つめた。ひとまず視線があうようになっただけでも大進歩だと菊は評価した。
「いまから、私は貴方のご家族に連絡をするつもりです。いいですね?」
「いいわけないだろ」
アーサーは昏い目で菊をにらんだ。以前、図書館ですごまれたときや、さきほど店主に向けたのと同じ目つきだった。
「あの家に、クソ婆に連絡してみろ。いますぐあんたをぶん殴ってやる」
「クソ婆? 貴方のお母さんでしょう。そんな言い方はいけませんよ」
「お母さんだって!? 母親らしいことなんて一度もしてもらった覚えがないのに!? あんな男と見ればすぐ足を開くインバイ、クソ婆でじゅうぶんだ!」
「アーサーくん!」
菊は目がしらを揉みながら言った。混乱してうまく思考が働かなかったが、どうにか普段の自分をとりもどそうと努力していた。
「あくまで家に連絡してほしくないと主張するんですね」
アーサーは無言でそっぽを向いた。菊は、彼が憤りながらどこか諦めているように感じた。さっき、自分の家に連れて行くと言ったときも心から驚いた顔をしていたのだ。彼にとって大人とは、その意見を無視するだけの存在かもしれない。
はじめは問答無用でアーサーを家に返そうと考えていたが、その様子を見て少し考えを変えた。菊は世の人々のなかには、子どもを育てるのに向いていない人間がいるのを知っている。
「では、代案を提示してください」
「代案?」 アーサーが胡散臭げに菊を見た。
「ええ。貴方はお家に連絡するという提案に反対しましたね。ならば、私を納得させるような方法を考えてください。それに一理あると思った場合、貴方の家に連絡するのはやめます」
アーサーは小卓にマグを置き、考えこむように空をみあげた。それから渋々といった調子でフランシスとつぶやいた。
「フランシスん家に電話してくれ。おれ、週末はあいつの家で面倒をみてもらってるから」
「ボヌフォワくんですか?」
「うん」
菊はまっすぐアーサーを見つめた。近くで見ると、若草色の瞳がひどく澄んでいることに気づいた。その目には嘘をついたときの後ろめたさはなく、菊はひとまず彼を信じてみることにした。
それに、たとえアーサーが後ろめたさを感じないで嘘をつけるタイプでも、すぐボロが出るようなお粗末な嘘はつかないだろうと思ったのだ。
菊はうなずいて、固定電話がある応接間に向かった。