『はい。フランソワーズですが……』
執事を名乗る男が奥さまに変わりますと言って、出たのはフランスなまりの艶やかな英語だった。その気だるげな響きに息子と同種のものを感じ取り、菊は彼女がフランシスの母親であることを確信した。
「お忙しいところ、お電話して申しわけありません。私アーリーズスクールで校医をやっております本田と申します」
『あら、こんばんはホンダさん。いい夜ね。でも保健の先生がなんのようかしら? 生憎、うちの息子は殺されても死にそうにないくらいピンピンしているのだけれど』
「いえ。今日はフランシスくんではなく、アーサーくんの件で」
菊がおずおずとこたえると、電話口から軽く息をのむ声が聞こえた。それからさきほどの艶のある声音をかなぐり捨て、彼女は焦ったように菊を問い詰めた。
『彼、見つかったの? どこで? ホンダさんといま一緒にいるのかしら?』
「え、ええ。私の家にいます。最初は、彼の保護者の方に連絡しようと思ったのですが……」
『ダメよ』 フランソワーズが厳しく言った。『ぜったいダメ』
「ええ。アーサーくんもご自宅に連絡するのをいやがりまして。そこで彼が週末お世話になっているというボヌフォワさまにお電話したのです。ご迷惑をおかけしました」
『迷惑なものですか! 彼はもううちの子みたいなものです。夕方に出かけたきり、帰ってこなくて本当に心配していたの』
フランソワーズはため息をついてそう言うと、ふいにほこ先を変えた。
『ところで、ホンダさんとアーサーってどんな関係なの?』
「生徒と講師の関係ですが……?」
『ばかね。そんな化石みたいな答えをききたいわけないでしょ。あの意地っ張りな坊っちゃんが私のことを話すなんて懐いてる証拠だわ。あの子は自分の殻に籠りがちなの。なんでも、一人でできると思いこんで、不幸にもそれをやってのける力があるのよ。だから周囲は彼を持ち上げこそすれ、理解する必要はないと思う。彼は完ぺきな子ども、アーサー・カークランドだからってね。そんなわけないでしょ。あの子、まだ十一歳よ? それに彼の親の件もあるし』
「親? 二年前、お父さまが亡くなった件ですか?」
『ちがうわ。私はいまの話しをしているのよ。ムシュー・ホンダ』
そう言って、フランソワーズはがっかりしたように続けた。
『あの子、お母さんのことを話してないのね』
「ええ。貴女ほど信用してもらうのは時間がかかりそうです」
『あら、そんなことないわよ。これは私の予想だけれど、貴方とアーサーって相性がよさそうだもの。それにあの子は私を信じてるわけじゃないわ。ただ、私が身近で一番まともな大人だっただけ。お願い、ホンダさん。彼のことを気にかけてあげて。あの子の母親はとても、社交的な人だから』
「社交的?」 菊は電話越しに首をかしげた。
『ええ。とくに男性と踊るのが好きなの。ダンスフロアでも、ベッドのうえでもね。彼女は恋に生きてる。でも、愛を知らないのよ。自分のことで精一杯で、息子の愛し方がわからないの』
「それは」
『虐待ね。はっきりいえば。いま風に言うと、ネグレクトとかいうのかしら? 私がウィークリーボーダーの彼を招くのはそれが理由。本当はフルボーダーを勧めたんだけど、当時はお父さんがご存命でいらしたから』
「ボヌフォワさん! その、彼のお父さまは厳しい方だったのでしょうか? たとえば、アーサーくんをきつく叱ったり……」
『ふだんは優しい方だったと思うわ。……なぜそんなことをきくの?』
菊はフランソワーズの言葉にある含みを感じた。うそはついていないが、本当のことも言っていない。その艶やかな声は菊に対するけん制だった。
前に見たサトゥルヌスの絵は、アーサーの父親がただの「優しい男」でないことを示している。それに、アーサーは自分が彼になにかをしたと取れることを口走ったのだ。菊は彼の死にアーサーが関わっているのを予感していた。
『ホンダさんがなにを考えているかは知らないけど、一つだけ確かなことがあるわ。アーサーは父親を愛していた。彼のためなら、自分を犠牲にしても厭わなかったでしょうね。……そういえば貴方、少し彼と感じが似てるわ』
「冗談でしょう」
『いいえ。だから、あの子と相性がいいと思ったのかも。あの二人、本当に仲が良かったから。ならホンダさんも気をつけたほうがいいわね。相性がいいって、必ずしもいいことばかりじゃないから。いくら相手を好きでも、一緒にいると良くないことが起こる縁ってあるものよ』
それから話題がアーサーの迎えに関するものに変わっても、菊の耳にはフランソワーズの忠告が残り続けていた。
菊の背中を見送ると、アーサーはマグを置いてソファからとびおりた。トルコ風のじゅうたんがしいてある広間を抜け出し、少しでも物音がすると注意深く周りを見回した。彼は廊下の奥で菊の話し声が聞こえるのを確認し、忍び足で玄関に向かった。
リビングの奥にはカントリー風のカウンターが備え付けられていた。年季の入ったオーク材の台のさらに奥には、自然の木の色を基調としたキッチンが見える。
アーサーはコンロのうえに赤い薬缶がのっているのに気づいた。まだ火がついていて、口のところから絶え間なく湯気が出続けている。
一瞬、彼は迷うように足を止めた。しかし、無理やり薬缶から視線をはがすと玄関に繋がる廊下に出た。背の高い観葉植物の隣りにアーサーの上着をかけたコートラックがある。彼は背伸びしてトレンチを取ると、急いでそのポケットを確認した。
十ポンドと五ポンド紙幣、数枚の硬貨がごちゃごちゃに入っている。それほど心配はしていなかったが、一応中身を取り上げられてないことにほっとする。アーサーはコートを羽おり、扉を開けようとした。
「よう、坊っちゃん。どこにお出かけだ?」
驚いてふり返ると、二階に続く階段の支柱に銀髪の少年がよりかかっていた。彼は腕をくみ、不敵な笑みを浮かべてアーサーを観察していた。
「お前には関係ない」
「ああ。できればおれ様もハンカチ振ってお見送りしたかったぜ。けど、お前がのこのこ出てって事故にでもあったら責任負うのはキクだかんな」
アーサーは彼から視線をそらさないまま、ポケットを漁った。ほこりや飴の包み紙はあったが、アーサーが期待した鉛筆(できれば先がとがったもの)などは入っていなかった。
少年はあきれたように肩をすくめた。
「おれ様に喧嘩売るつもりか? やめとけ。前にお前みたいな鼻もちならないガキを殴ったことがあるんだよ。そしたら、バースデーケーキのロウソクみたいにポキッと鼻骨が折れちまった。厚化粧のババアは喚くしジジイには叱られるし、散々だったぜ」
「ふうん、奇遇だな。おれも人の鼻柱を折るのは慣れてるんだ。……たくさん練習したからな」
玄関に沈黙が落ちた。奥から菊の話し声が響いてくる。アーサーは彼を倒して外にでようとも考えたが、こうして見つかってしまった以上、菊を呼ばれればすぐ捕まってしまうとに気づいた。それに少年の目つきはアーリーズの無害な羊とはまるで違うように感じられた。例えるなら、鎖に繋がれた獣のように……。アーサーは仕方なく、舌打ちしてコートを脱いだ。
「よしよし。わかってんじゃねーか! じゃ、おれ様が直々に風呂場まで案内してやるぜー! さっき家に来たときも手ェ洗ってなかっただろ!」
「いらねえよ! っていうか、触んな!」
少年はアーサーの抵抗をまったく気にせず肩を組むと、鼻歌をうたいながら階段を上っていった。
菊の家の壁紙は色あせた百合の模様で、二階に上がるまでの側面の壁にはいくつもの写真がかけてあった。たとえば、少年が冷たい顔で写っている肖像や菊が愛想笑いをうかべた写真、濃茶の梁が目立つドイツ風の大きな邸宅。
けれど上に行くにつれ、二人が並んで写っている写真が増え、それに比例するように被写体に笑顔に生まれていった。
一番上から一つ手前の写真は二人が山頂にいるものだ。菊は疲れ切った顔で、少年は腰に手をあて無邪気に笑っていた。そして二階についたとき、壁に貼ってあったのはリアリティあふれる菊の肖像だった。
「それ、おれ様が描いたんだぜ。うめーだろ」
「人はみかけに寄らないんだな」
「どーいう意味だ……」
アーサーは内心彼を見直していた。少年の英語は完ぺきなクイーンズイングリッシュというには少々間抜けなドイツ訛りだったが、耳をふさぎたくなるほどではないし、口を閉じていればアーサーさえはっとするほど貴族的な容貌を持っているのだ。
もしかしたら彼はアーサーが敬意を払うに値いする人間かもしれない。アーサーはそう思って軽いジャブのような質問を投げかけた。
「お前、どこの学校にいってるんだ?」
「ああ? おれ様か?」
しかし学校名をきいてアーサーは失望した。それは近所にある公立校の名前で、とてもじゃないが中流階級以上の子どもが通う学校ではなかったからだ。アーサーは自分の勘が外れたことにむしゃくしゃして、いっそう彼がきらいになった。
「こっちだ」
少年のあとについて廊下を進むと、横の手すりからリビングやキッチンの様子を見下ろすことができた。二階にいた彼がアーサーに気づいたのはこのせいだったのだ。
きっと薬缶で湯をわかしていたのは彼に違いない。茶を飲もうと部屋を出たところで、吹き抜けの二階からアーサーの様子が見えたのだ。
少年は二階の一番奥にある扉を開けると、顎でしゃくった。
「ここだぜ。ほら、そこにタオルあるからよ、顔でも手でも洗いやがれ」
「ああ」
ドアの正面に大きな姿見と洗面台が備え付けられていた。アーサーは金メッキの剥げた蛇口をひねり、勢いよく出てきた水で顔を洗った。
「自己紹介がまだだったな坊っちゃん。おれ様はギルベルト。小鳥のようにカッコイイ十一歳だぜ」
姿見にタオルで顔を拭くアーサーと、背後で扉に寄りかかるギルベルトが写っていた。彼は友好的に笑い、鏡ごしにアーサーを見つめた。アーサーは何故かそのガラス玉のような瞳に寒気を覚えた。
「で、お前がアーサー・カークランド?」
「そうだけど……」
そう言ったとたん、顔を拭いていたタオルが宙に飛んだ。アーサーはなにが起こったのかまるで理解できず、急に強い衝撃に襲われバスルームの床に尻もちをついていた。
鼻と頬が鉄のかたまりにぶつかったようにひどく痛んだ。呆然として鼻をこすると、真っ赤な血液が手にべったりついた。
「やっぱなー。そーだと思ったぜー」
ギルベルトは彼を殴った片手をひらひらさせながら、アーサーを見下ろした。言葉だけは飄々としているが、その目に先ほどまでのなれなれしさはなく、ただ隠しきれない憤怒が燃えていた。
「お前を見たとき、ヤーな予感がしたんだよな。まあ? おれ様も悪魔じゃねーからよ、一度くらいは忠告してやるぜ」
彼は眉尻を下げた悪魔じみた笑みを浮かべて、アーサーの胸ぐらをつかんだ。
「つぎキクを泣かしたら、そのお綺麗な顔をガスオーブンにつっこんでウィンダミアの魚の餌にしてやる」
バスルームに蛇口から水が垂れる音が響いた。アーサーはギルベルトの手を振り払うと、タイを直しながら起き上った。その顔にはギルベルトを嘲笑する笑みが浮かんでいた。
「よくもまあ、そこまで懐いたもんだ」
「ああ?」
「気をつけろよ。アジアのホモ野郎がお前を引き取ったのだって、その特殊な性癖が原因じゃないとはいいきれないんだから」
その瞬間、ギルベルトのうすら笑いが凍りついた。一切の表情がはがれおち、能面のような顔が現れた。菊への侮辱は彼の怒りのげきてつを押し上げるには十分すぎた。アーサーはやり過ぎたのだ。鉄のような拳が目の前に迫り、アーサーはきつく目を閉じた。
そして、あたりに鈍い音が響き渡った。けれどそこにいた誰も、なにが起きたかは理解していなかった。一番混乱していたのはギルベルトで、信じられない顔で床に倒れる菊を見下ろしていた。
「なにをやってるのですかギルベルトくん。以前、暴力は最低の解決法だと言ったはずですよ」
ギルベルトはひどいショックを受けたようだった。感情を爆発させる寸前で唇をかむと、無言でバスルームから走り去った。
その背中を見送り、菊はため息をついた。アーサーは身体を震わせると、おそるおそる自分を庇った菊を見上げた。ギルベルトに殴られた頬はリンゴのように赤くなっており、時間がたてば腫れと変色でひどい顔になるのが予想できる。さらに歯で口内を切ったのか、唇からは赤い血が垂れていた。