のばらの子どもたちact 009

 アーサーは、初めて見る菊の生々しい姿に無言で目をそらした。つけ加えるならば、庇われたことと嫌味をきかれたことがきまずかった。

「さて、まずお互いにとって幸運なことに私は小児性愛者ではありません。次に『アジアのホモ野郎』という言葉からは、人種差別と同性愛者への偏見が感じられます。二度とその不愉快きわまる表現を口にしないように」

 菊が冷たい目でアーサーを見下ろしていた。

「最後に、ギルベルトくんは私の友人の子どもです。訳あって一緒に住んでいますが、貴方の下世話な妄想のようなことは一切ありません!」
「……わかったよ」
「本当に?」
「わかったってば!」

 菊は素直なアーサーに目を丸くすると、ポケットからティッシュを取り出しその鼻を拭いた。

「ギルベルトくんがご迷惑をおかけました。すみません、痛かったですよね」
「別に、痛くない」
「そんなはずないでしょう。こんなに腫れているんですから。痛いときに痛いと言ったり、辛いときに辛いというのはちっとも恥ずかしいことじゃないんですよ」

 アーサーは驚いて菊を見つめた。いままで彼にそんなことを言った人間がいなかったのだ。周囲の大人たちはアーサーがショーケースから出て来た精巧な人形だとでも思っているかのように、彼の負の感情を知ろうとはしなかった。

 そして、当然アーサーの痛みにも気づかなかった。

「あと、貴方に報告があります。ボヌフォワさまのお宅にお電話したところ、貴方が望むならいますぐ迎えの車を出すとのことでしたが、どうなさいますか?」

 アーサーは己のなかで急速に育ってきた温かな気持ちを捨て、先週のことを思い出そうと努力した。すると、割れた花瓶やフランシスの呆れた顔が浮かび、月曜以来彼と必要最低限の会話しかしていないことも思いだした。

 フランシスはアーサーの機嫌を読みとるのがうまく、不機嫌のときはたいてい近づいてこない。手のひらを返したように困ったときだけ頼るというのも罰が悪く、アーサーは彼の家に帰りたくなくなった。かといって、自宅は死んでもごめんだ。

「フランシスの家に行く。けど、車はいらない」
「では、どうやって彼の家に行くのです? まさか歩いてなんていうんじゃないでしょうね。歩いているうちに夜が明けますよ」
「ちげーよ。金持ってるからバスに乗ってく」
「それくらいなら、私が車を出しますよ」
「一人で行きたいんだよ!」
「アーサーくん」 と菊があきれた顔で言った。アーサーの言葉を微塵も信じてない顔だった。アーサーもいつから自分はこんなに嘘が下手になったんだろうと首をひねった。

「残念ながら、私はそれが信じられません。貴方のことですから、どうせまた街中をほっつき歩くのでしょう。しかたない子ですねえ。今日はうちに泊まりなさい」
「はあ!? ここに!? 冗談じゃねえよ!」
「冗談ではありません」
「絶対いやだ!」
「では、他に案がありますか? 私を納得させるような方法を考えてくださるならいいですよ」

 アーサーは黙って、菊から目をそらした。

「決まりですね。ではギルベルトくん、お客さま用にバスタオルと着替えを持ってきてください」

 廊下で何かがぶつかったような鈍い音とぱたぱた駆けていく音が聞こえた。菊はそれに目を細めると、アーサーに向きなおった。

「さて、今日はうちの子ですから、うちのルールに従っていただきますよ。学校みたいに大目にみてあげたりしません」
「なんだよそれ! 汚えぞ!」
「大人は汚いものなのですよ、アーサーくん。ご存じありませんでした?」

 菊は口元を隠して笑うと、アーサーをバスタブに放りこんだ。


 タオルで頭を拭きながら、バスルームを出ると吹き抜けの一階からいいにおいが漂ってきた。階下で菊が狭いキッチンとリビングを行き来している。

 アーサーはギルベルトも彼を手伝っているのだろうか、と考えつつ階段をおりた。一階のテーブルには見たことがない料理がところせましと並べてある。どうみても二人用のテーブルは、どこかから持ってきた補助イスをつけ三人で座れるように工夫してあった。

 その簡易な食卓は実家のテーブルに比べればひどくみすぼらしいものだったが、アーサーは不思議とそのテーブルが気にいった。
 そのとき、スープを運んできた菊がアーサーに気づき笑顔を向けた。

「ギルベルトくんの服、サイズがあってよかったです。あれ、少し大きいですか?」
「でかくねえよ! むしろ、小さいくらいだ」
「そうですか。なら、よかったです。いまごはんを用意してますから、もう少し待っていてくださいね」
「……うん」

 アーサーがこそばゆい気持ちでうなずいたとき、ギルベルトが皿を六枚持ってリビングに現れた。

「秘儀、おれ様流皿運びだぜー! これならあと四枚はかたいな!」
「ギルベルトくん! 危ない! 危ないです!」

 菊が飛んでいって皿を奪うと、ギルベルトは不満そうに口をつきだしアーサーのほうを見た。彼からは先ほどの怒気はもう感じられなかった。しかし目があったのはほんの数秒のことで、彼はすぐ不貞腐れた顔でそっぽを向いてしまった。

「さあ、今日はごちそうですね。アーサーくん、どうぞここに座ってください」

 菊はギルベルトの対面にある青いクッションの椅子をアーサーに勧めた。ギルベルトは当然のような顔で赤いクッションのほうに座っており、アーサーはいつもはここが菊の定位置なのだと悟った。

「気になさらないでください。子どものお尻を冷やすわけにはいきませんから」
「おい、ジジイ! そのセリフすげーセクハラくせえぞ!」
「ギルベルトくん!」

 アーサーの前では、大きなスープ皿が湯気を出して彼を待ちかまえていた。

 ごろごろ大きなじゃが芋やベーコン、キャベツなどが入っていて、ブイヨンの食欲をそそるにおいがたまらない。その横には不思議な形の揚げ物とプチトマトの皿。そして、ガラスの小皿にジュレのかかったサラダが盛られていた。

 アーサーは思わず唾をのんだ。これほど美味しそうな料理を見るのは久しぶりだ。

「美味しそうでしょう。我が家のシェフが腕によりをかけてつくってくれましたから。ねえ、ギルベルトくん」

 そう言って菊がうながすと、ギルベルトは渋々アーサーを見た。そして、苦虫をかみつぶしたような顔で「わるかった」と謝った。

 アーサーは救いを求めて菊のほうを見た。彼が自分に謝るなんて考えもしなかったのだ。しかし、菊はなにか促すように見つめるだけで、決してわかりやすい助言をくれなかった。
 仕方なくアーサーはたっぷり三十秒は固まったあと、ぶっきらぼうにうなずいた。

 いままでアーサーは同年代の子どもと対等な喧嘩をしたこともなければ(フランシスとの喧嘩はたいてい一方的な八つ当たりに終始する)仲直りの経験もなかったのだ。彼の頬はピンク色に染まっていた。

「いただきます」
「Guten Appetit!」

 テーブルに並べられた料理に感嘆のため息をこぼしていると、菊とギルベルトが同時に呪文のようなものを唱えた。菊は両手を合わせ、ギルベルトは元気のいい笑顔で。

「私の国では、食材や作ってくれた人に感謝をしてごはんを食べる習慣があるのです。そう言ったらギルベルトくんが面白がって。ドイツ語でニュアンスが近い言葉を一緒に言うようになったのですよ。けれど、宗教や習慣は国々によって異なりますし、アーサーくんに強要するつもりはないので安心してください」
「べ、別にそんな心配してねえよ」

 アーサーは菊の真似をして胸の前で手を合わせると「イタダキマス」とつぶやいた。

「おい、アーサー! なんでジジイのほうを言うんだよ! Guten Appetit!っていいやがれ!」
「悪いな。キャベツ臭い口と同じ言語をしゃべりたくなかったんだ」
「なんだと! おいこらテメーおもて出やがれ!」
「野蛮なクラウツはこれだから。ついに脳細胞まで筋肉になったか?」
「二人とも!」

 菊が青筋をたてて二人を遮った。

「食事中に喧嘩はやめてください。どうしても自分を押さえられないなら、外で好きなだけどうぞ」

 アーサーは彼がここまで怒るのをはじめて見た。前に懲罰室に閉じ込めたときだって、これほどではなかっただろう。呆気にとられるアーサーにギルベルトが小声で耳打ちした。

「ジジイに食べもののことで逆らうのはやめとけ。唯一の沸点だかんな」

 アーサーは本当にその通りだと思ったので、軽くうなずいた。


 菊は幸せそうに揚げ物を頬張っていた。子牛のフライのようなものをナイフで切り分け、口に運ぶ。そして味わうように目をとじ、頬に手を当てた。

「とっても美味しいです。ギルベルトくん。やはり貴方のシュニッツェルは世界一ですね」
「おい、ちょっと待て。これセンセイじゃなくてこの馬鹿っぽいのが作ってるのか?」
「ええ。彼は我が家自慢のシェフです」

 アーサーはにわかに信じられず、フォークでさしたフライを見つめた。先ほどから手放しで絶品だと思っていた料理が彼の作だと知ると、とたんに文句をつけたくなってくる。

 しかし、そう思って食べてみてもフライに文句のつけどころは一切なかった。サクッとした衣に薄い肉は相性がよく、くどくない。あつあつのフライにレモンをかけて食べるとより一層美味だった。

「まあ、不味くはないな。うちでは料理を作らないから、もの珍しいのもあると思うけど」
「そうなのですか? では、おひとりのときはなにを?」
「んー、たいていはデリですませてる。わざわざレストランに入るのもめんどくさいし」
「なんですかそれは! おうちの方はなにもおっしゃらないのですか?」
「言わねーよ」

 たいていの人間はアーサーがこういうと申しわけなさそうな顔で黙るのだが、菊は全く違う反応を示した。

「では、私が言います。アーサーくん、いますぐ食生活を改めなさい。若いうちからデリバリーに頼りすぎるといけません。栄養も偏りますよ。ボヌフォワさまのことを気にしているなら、私が面倒を見ます」
「はあ!? なに言ってんだジジイ!」
「そ、そうだぞ。なに言ってるんだ」
「私は本気です。貴方の学校の校医として、これは由々しき事態です」

 菊がまじめくさった顔で言った。そこに、アーサーが馬鹿にしていた「東洋人」はどこにもいなかった。彼は東洋人ではなく、ただの「本田菊」だった。そしてアーサーは菊をきらいではないと思いはじめていた。

 三人の輪に加わると彼が長年感じていた疎外感が消える。まるで、自分も彼ら家族の一員だと思えた。小さなテーブルで取る食事は、豪奢な長テーブルで食べるデリより数倍美味しい。アーサーはギルベルトが言った冗談に吹き出した。


 なごやかな晩餐が終わり、アーサーは菊に呼ばれた。ギルベルトはちょうど風呂に入っており、リビングには二人しかいなかった。

 まあ、いつか呼ばれると思っていたので驚きはない。むしろ遅すぎると思ったくらいだ。本当は食事中に話題にされると思っていた。それで和やかな食卓がぶち壊しになるとも。しかし、菊はそんな無礼な真似はしなかった。

 アーサーは彼を配慮のある人間だと思った。そういえば、赤毛の少年を洗濯機につっこんだとき彼の名前を出さないことを利用したなと思いだす。

 あれが他の教師だったら、さっさと実名をあげて批判していただろう。大人は鈍感で子どものコミュニティを無意識に破壊するモンスターなのだ。しかし、菊はコミュニティに配慮する珍しい人間だった。もっとも、それを当時の自分は利用したわけだが。

「さて、貴方は隠されるほうが不愉快だと思いましたので、率直に言います。お母さまについておききしました」
「……で、同情してくれんのか?」
「いいえ。違います。貴方に必要なのは憐れみではなく、状況を変える手段でしょう。本当に『いま』を抜け出したいなら――法に頼りなさい。いえ、むしろ貴方は法によって保護される“べき”です。ネグレクトは立派な犯罪なのですから」
「は、犯罪って。大げさな」
「児童法で罪に問えますよ。もちろん、ソシアルサービスに通報も可能です。優秀な弁護士なら余罪もいくつかつけて、アーサーくんが成人するまで塀のなかに入れることだって可能でしょうね。貴方は大人を敵だと思っているかもしれませんが、違います。貴方のような子どもを守るために法があり、貴方を守りたいと思う大人だってちゃんといます」
「けど、そんな」

 アーサーは混乱した。彼は母親を本当に憎んでいたが、いざ彼女が塀のなかに閉じ込められる姿を想像すると息がつまった。二の句がつげないアーサーに、菊が苦い顔をする。

「すみません。いけませんね。アーサーくんが大人っぽいから、つい忘れてしまいました。そう、貴方はまだ十一歳なんですよね」
「センセイ?」
「でも、これだけは覚えていてください。貴方は決して一人ではありません。私がいます」

 菊の胸は温かかった。その腕は生まれたてのヒナを守るようにアーサーの背中にまわされ、触れ合った身体から心臓のやわらかい鼓動がきこえてきた。アーサーは目をつむり、かつてないほどあまやかな気持ちを味わった。

「辛いときや苦しいとき、子どもが助けを求めるのはちっとも恥ずかしいことではありません。アーサーくん、貴方は私にどうしてほしいですか?」

 アーサーはたまらず彼の胸にすがりついて囁いた。その声は、迷子の子どものように頼りない声だった。

「……たすけて」