のばらの子どもたちact 010

 菊が眼鏡をかけ、寝室で本を読んでいると突然乱暴なノックが響いた。返事をする前に荒々しくドアが開き、不機嫌そうなギルベルトが枕を持って立っていた。

「寝る!」

 彼は菊の返事もきかず、その左隣りにもぐりこんだ。しかしすぐ右隣でアーサーが眠っているのに気づくと、もの言いたげな顔で菊をにらんだ。菊はそんな彼にため息をつき、ベッドわきに本を置いてランプを消した。

 寝室が闇につつまれる。菊はだまって、となりのギルベルトを撫でた。

「なにか、ありましたか?」
「……痛かったかよ。殴って」
「いいえ、ちっとも。私は頑丈ですから」
「ウソつけ」

 ギルベルトは熱を持って腫れている菊の頬を指でさすった。

「……ごめんな」
「だいじょうぶですよ」

 しばらく、ギルベルトは無言で彼の頬の温かさを確かめていた。そして、思い切ってずっと気になっていたことを尋ねた。

「あいつ引き取んのか」
「そうできたら、どれくらいいいでしょうね。でも、アーサーくんにはちゃんと家族がいるのですよ。そして、優しい彼はその人を愛している」
「なんだそれ。ジジイ、こいつひいきしすぎじゃねー? どんなクソな環境だって真っ当に生きるガキはいるもんだぜ。アーサーがこんなひねくれたのは、アーサー自身のせいだろ」
「ギルベルトくんはなんというか、ぶれませんねえ」

 そう言いきれるのはギルベルトが強い子どもだからだ。彼はどんな環境でも自分のルールを曲げることはない。ルールに反した場合、大人相手でも容赦なく反論する。それは、ときに周囲との軋轢をもたらすが、同じくらい彼のカリスマに惹かれる人間も生んだ。

 しかし、皆彼のように強い子どもばかりではない。アーサーのように、いくら虐げられても名状しがたい愛着――親子の情に縛られる子どもが大半だ。彼らは自分を糧に居場所と親を守る。その代償とは彼ら自身の心だ。

 菊は、ギルベルトなら一人でも生きていけるだろうと思った。

「おれ様が迷わないと思うのか?」

 暗やみのなかで、ギルベルトの瞳が赤く光った。その声はいつもの彼よりずっと心細そうだった。

「キクとおれ様は、家族だろ」
「ええ。二人きりの家族ですよ」

 ギルベルトが目を輝かせて菊に抱きついた。菊はようやく気がついた。彼が強くいられるのは、菊がいるからなのだ。むろん、菊がいなくてもギルベルトは強く正しく生きていくだろうが、いまとまったく同じ彼ではない。

 菊は一年前、フリッツの邸の庭で世界中のだれもが敵だと思いこんでいる少年を思い出した。そしてギルベルトが一人でも生きていけると思ったことを恥じ、ヒナを愛情深く守る親鳥のように温かな体温を抱き寄せた。


 寝室の暗がりに、ふいに緑色のガラス玉が二つ瞬いた。その瞳はお互いを守るように眠る菊とギルベルトに向けられ、一瞬ゆがめられた。彼は半身を起すと両足を抱えベッドの背もたれにもたれかかった。

 アーサーはだれかと眠る温かさを初めて知った。物心ついたときから、彼はずっと大きなベッドで一人眠っていたのだ。

 しかし、菊の腕のなかにいたときのような穏やかな気持ちになることはできなかった。これほど近くにいるのに、アーサーは初めて彼らから疎外感を感じていた。

(さっきは、おれも家族って言ったくせに……)

 たとえ菊がアーサーの味方でも、菊は他人のものだ。アーサーは、ふつうの人は一番に家族を優先すると知っていた。だから、菊はアーサーよりギルベルトが好きなのだ。

 アーサーはだれかに「一番」愛されたことがなかった。むかし、アーサーを愛してくれていた父も結局彼を選んではくれなかった。アーサーは内心だれかに一番愛されることを期待していたが、同時にそんなことはムリだと諦めていた。

 菊とギルベルトの寝息が響く寝室でアーサーは毛布に顔をうずめ、肩をふるわせていた。


 アーサーが目を覚ますと、ベッドには自分しかいなかった。彼は昨夜の疎外感を思い出し、乱暴に毛布をはねのけた。洗面所で顔を洗い、リビングに下りる。けれど、そこにも二人はいなかった。ただ、直前までだれかがいた証拠にテーブルの上には湯気のたつ紅茶が残されている。

 それに、奇妙な形のカップが裏返されて置いてあった。空っぽのグラスや皿もあったので、これはアーサーの朝食の準備に違いなかった。

 昨日あれほど親しみを感じた家は火が消えたように静かで、見知らぬ顔を見せていた。アーサーは寒々しい自分の家を思い出し、救いを求めるように白い格子窓を開けた。

 そこから、菊の庭が一望できた。樫の木に吊るされたチューブにむらがる四十雀や庭の一角にある小さな池、そのなかでオレンジ色の魚がはねていた。

 ついにアーサーは、菊が野ばらに如雨露で水をやっているのを見つけた。彼は楽しげに肩を揺らし、なにか口ずさんでいるように見えた。アーサーは急いで勝手口のドアを開け、菊のもとに走って行った。

 菊が口ずさんでいたのも野ばらだった。なめらかな声で薔薇に水をやりながらうたっている。アーサーはその背に向かって呼びかけた。

「ちがう。そこはラだ」
「アーサーくん」

 菊は驚いたようにふり返り、恥ずかしそうにほほ笑んだ。

「ダメですね。人のをきいて覚えたので、音の間違いまで真似してしまいました」
「そいつ、うたヘタだな」
「さて、どうだったでしょう。でも好きなんですよね、野ばら。ギルベルトくんは別れのうただと言って、あまり好きではないのですが」
「ああ。そういえば初めて見たときもうたってたもんな」
「聞こえたんですか!?」
「窓を開けてたし、うちの車で一番うるさいのは秒針の音なんだ。それもクオーツに変えるまでだけどな。つまり」
「私の鼻歌は象の足音のようだったと」
「それほどひどくない。コビトカバの鳴き声くらいだ」

 菊は顔を赤くすると、如雨露を持って歩き出した。ピンクや水色のじゅうたんになった牡丹の花だんを通り過ぎ、池の前で立ち止まる。彼はポケットから魚が描かれた缶を取り出した。

「アーサーくん。エサ、あげてみます?」
「いいのか?」
「ええ。スプーン二さじほどでじゅうぶんですよ」

 菊から缶を受け取り、池にえさをふりまいた。とたん、オレンジ色の魚が池面を尾でたたき、アーサーは小さく悲鳴をあげた。

「クソッ、ぬれた! おい笑うな!」
「……すみません。あまりに予想通りな反応だったもので」
「大人げないぞ」
「申しわけないです」

 菊は穏やかに目を細めて、また庭を歩きはじめた。アーサーもその後ろについていった。彼は菊に言いたいことがあった。本当は昨夜言おうと思っていたのだが、つい言いそびれてしまったのだ。ギルベルトにはきかれたくない話なので、二人きりの今がチャンスだった。

 しかし、アーサーが話しかけようとすると菊が先に口を開いた。

「本当はトピアリーガーデンが作りたかったんですよ。ほら、木を刈り込んで作るあれです」
「それぐらい知ってる。じゃ、どうしてここにはトピアリーがないんだ?」
「自分で作るには難しいし、人を雇うお金もなかったからです。たぶん、自分でやっていても生きものにハサミを入れるのがこわくて失敗したでしょうね」
「忌み枝を落とさないと花がさかなくなるぞ」
「そうですね。木を一番に考えるなら、不要な枝は切りおとすしかない。わかってはいるのですが……」

 菊が苦しそうな顔をしたので、アーサーは慌ててつけ加えた。

「でもおれはこの庭がきらいじゃないぞ! 作ったやつが感じられるし、優しい気がするし、さっきの魚もムカついたけど面白かったしな! つまりだな、その」蚊の鳴くような声でつぶやく。「す、好きってことだ」
「それはそれは、光栄ですね」
「おれ、お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なんでしょう?」

 西洋櫻の木がざわりと揺れる。アーサーの鼓動は爆発寸前で、よく人間はこんな爆弾を抱えていられると思った。

「いままで、すごい失礼なことを言ったし、した。子どもだから許されていいことじゃなかった、と思う。もう二度とあんなこと言わない……だから、ごめん」
「ええ」
「それで、あとひとつ言いたいことがあるんだ。ごく簡単なことだ。お前に迷惑をかけることじゃない。ただ、お互いにとって不等な点があると思ったからだな……」
「不等? 不公平ってことですか?」
「そ、そのとおりだ」 アーサーは大きく息を吸い込んだ。
「お前はいつの間にかおれをアーサーって呼んでる。なのに、おれがただセンセイっていうのはとても不等だ。ゆ、許しがたい問題だ!」
「そうでしょうか? 私はいいと思いますよ」
「おれがいやなんだよ! あいつはお前をキクって呼び捨てるくせに、ずりいだろ!」

 西洋櫻のふもとに気まずい沈黙が落ちた。アーサーはこんなやけくそにいうつもりはなかった。そして自分がとても恥ずかしいことを言った気がして、いますぐ地面に埋まりたくなった。しかし、菊はやさしく彼を撫でた。

「はい。……と言えたらよかったのですが、うちは教師を名前で呼ぶ校風ではありませんからね。私がとがめられるだけならいいですが、そういうわけにはいかないでしょう」
「ダメか」
「いいえ。貴方が卒業したあとなら。好きなようにお呼びください」
「……つまり、おれは、またここに来てもいいってことなのか!?」
「当たり前でしょう。それとも卒業したら私のことなんて忘れてしまいますか?」
「わ、忘れるわけねえだろ! ばかあ!」

 アーサーが顔を真っ赤にすると、菊は珍しく声を出して笑った。彼があまりにうれしそうに笑うので、アーサーもいつのまにか一緒に笑いだしていた。二人の声が、のばらに隠された庭に明るく響き渡った。


 月曜日の早朝、フランシスは鼻歌を歌いながら、チャペルの扉を開けた。しかし、そこには彼の予想と違い、アーサーの姿はなかった。フランシスは不思議に思ったが、きっとすぐ来るだろうと定位置に座り、前の椅子に足をのっけた。

 薄暗いチャペルでステンドグラスだけが外の光を通している。その暗さを格調高いという人もいるだろうが、大半の人間がそう思うように彼もここを辛気臭く感じていた。もし、自分がチャペルの設計者ならまず鬱陶しい天井をはがすだろう。

 そして、古臭い椅子はぜんぶ運び出して焚き木にする。そっちのほうがよほど健康的だし、神の意にもかなうはずだ。

 とはいっても、フランシスは生徒たちが礼拝にくる数時間前にはいつもチャペルに到着していた。

 もちろん、宗教的敬虔さが陰気な雰囲気に打ち勝ったわけではない。早めに着くと必ずアーサーが神に祈りを捧げていて(もしくは懺悔を?)ベラスケスの宗教画みたいな光景が見ることができる。それはフランシスの美的感覚にかなうものだった。

 フランシスにとって、アーサーは友人ではない。二人の関係に近いのは同士、もしくは好敵手という言葉だ。フランシスは子どものころから自分の美貌を理解し、周囲を翻弄してきた。彼は周りの人々を愛してはいたが、どこか物足らなくも思っていた。

 率直にいうと、母親以外の全員をばかだと思っていた。そんなとき、アーサーと出会った。彼らは一瞬でお互いを同種だと認めた。以来、二人はお互いの存在を利用しあって学園で共存していた。

 フランシスは彼のなかに決して触れられないブラックボックスがあると知っている。けれど一度だって、そこに触れようとは思わなかった。アーサーの持つ不安定さはまさしくそこにあり、それゆえ彼を美しいと評価していたのだ。
 ただ、彼のブラックボックスが開いたら閉じてやろうというなけなしの良心は持ち合わせていた。

 しかし、運が悪いことにフランシスは先週末パリの親戚のもとに行ってアーサーに会えなかった。フランシスは我を失っていたアーサーを思い出し、彼が惨憺たる週末を送ったのを疑わなかった。

 母フランソワーズはなにも問題がないと言っていたが、聞いたところフランシスの家にアーサーはいなかったのだ。となると、彼曰くクソのたまり場という実家で週末を過ごしたのだろう。

 ひどく面倒だが、共存相手が暴走するとフランシスも迷惑を被る。ここらでガス抜きをしてやるか、と彼は考えていた。

 しかし、それから二十分が経過してもアーサーはチャペルに現れなかった。フランシスはしばらく足をぶらぶら揺らしていたが、勢いをつけて椅子からおりた。

 これほど、アーサーが遅れるのは初めてのことだった。フランシスの本能が警鐘をならしていた。彼のなかで違和感が積み重なり、いやな予感に変わっていた。