フランシスは教室に向かうため、渡り廊下を歩いていた。可能性はほぼゼロに近かったが、アーサーがなんらかの理由で先にクラスに行ったことを考えたのだ。
彼はなぜこんなに焦っているのか不思議だった。それでもフランシスが手をこまねいているうちに、とんでもないことが起きた気がしてならなかった。
そのとき、渡り廊下の近くにある駐車場に見慣れない車が止まった。アーリーズの生徒が決してのらないようなオンボロのミニバンだ。そのドアが開き、まず黒髪に小柄な東洋人が出てきた。最近アーサーに目の敵にされていた本田菊だ。
彼は大きく伸びをすると、あとから車を出てきた子どもに話しかけた。フランシスはその子どもを見て、思わず目をこすった。菊に話しかけられて顔を赤くしているのは、彼を蛇蝎のごとく嫌っていたアーサー・カークランドだったのだ。
アーサーが皮肉っぽい顔で何か言うと、菊が口を隠してくすくす笑う。その姿はそれまでの不仲からは想像がつかないほど仲睦まじく見えた。
フランシスは混乱して、その場に立ち尽くした。この状況を理解できなかった。
アーサーは菊がきらいではなかったのか? 先週の金曜に彼は菊とひと悶着あったはずなのだ。彼はいつにないほど怒り狂っていた。常の余裕を失い、フランシスをはねつけるほどに。そのはずだったのに、いったい何が起こったっていうんだ?
呆然とするフランシスのほうへアーサーが歩いてくる。彼はフランシスを見て、尊大に笑った。
「よう、変態。なんだよ。その間抜け面は」
「いやねー。坊っちゃんたら、いつの間にセンセーと仲良くなってんの?」
「な、仲良くなんかねえし! 代わりに皿洗いしてやったのだって、手が荒れててかわいそうだなとか思ったわけじゃないからな! 勘違いするなよ!」
「待て待て。お前、だれに言ってんの?」
いぶかしげなフランシスを見て、アーサーは咳払いをして誤魔化した。しかし、その顔はだらしなくゆるんでいた。フランシスは彼のそんな顔を久しぶりに見た。そして、それがいつのことか思い出そうとしたとき、やわらかい声がその邪魔をした。
「おはようございます。アーサーくん、ボヌフォワくん。いい朝ですね」
「お、おはよう。キ……センセイ」
「おはよー、センセー」
菊は彼らに向かってほほ笑んで、逆の方向に進んでいった。フランシスはすぐ踵を返したが、隣りのアーサーがついてこないことを不思議に思いふり返った。
アーサーは遠ざかる彼の背中を名残り惜しげに見つめていた。菊は生徒とすれ違うたび、必ず名前を呼んであいさつをしていた。
「ねえ、センセーってうちに来てからひと月もたってなくない?」
「キクは人の顔を覚えるのが得意だからな」
アーサーが誇らしげな顔で答えた。それを見て、フランシスはみぞおちの辺りが冷たくなった。彼が以前こんな顔をしていたのは亡き父について話すときだったと思いだしたのだ。
その翌日も翌々日もアーサーはチャペルに来なかった。週が終わる金曜、ついにフランシスはしびれを切らしてアーサーにたずねた。
「お前さ、なんで行かないわけ?」
「どこにだよ」
「朝の日課。信心深いアーサー坊っちゃんはもうおしまい? 相変わらず早くから校舎に来るくせにチャペルにいないし、どこで何やってんの?」
「まず、おれが朝どこでなにやってようがお前には関係ない」
アーサーは「一見」いつも通り礼儀正しく食事をとっていた。フォークでチキンを切り分け、それをナイフで口に運んでいることと右の袖がグレービーソースに浸かり茶色とオレンジのまだら模様に変わっていること以外は。
彼の目はせわしなく食堂内を行ったり来たりし、だれかを探しているようだった。
「じゃ、チャペルに来ないのは?」
「……行く必要がなくなったから」 アーサーは上の空でこたえた。
そのとき、食堂の入り口に小柄な東洋人が表れ、彼はぱっと顔を明るくした。菊はアーサーたちを見つけるとトレードマークのやわらかい笑みを浮かべ、彼らのいるテーブルにやってきた。
「キッ……センセイ、一緒に食べてやってもいいぞ! べ、別にお前と飯が食いたいってわけじゃなからな! 勘違いすんなよ!」
「ええ、わかっていますよ。アーサーくん。せっかくのお誘いですが、教員用のテーブルがありますので私はそこで食べる決まりなのです。すみません」
「なんだよそんな顔すんな! おれはぜんっぜん気にしてねーよ! ばかあ!」
「ごめんなさい。ところで今朝お貸しすると言った本、放課後お持ちしますね」
菊がそう言ったとき、フランシスはすべてが理解できた。アーサーは朝早く学校出てチャペルの代わりに菊がいる医務室で過ごしているのだ。
父親の事故以来、菊と出会って彼は完全に立ち直ったようだった。少しでも時間が空けば医務室に入り浸り、カルガモのように菊のあとについてまわる。それを批判的に見るむきもあったが、大半の大人たちは人種の壁を超えた友情だとアーサーの「寛大さ」と菊の人間的魅力に感心していた。
ただ一人、この状況を不安に思っているのはフランシスだけだった。彼にはアーサーがチャペルに通わなくなったのがいいこととはとても思えなかった。祈りも懺悔も過ぎ去った過去、遠い思い出に押しやられ、代わりにホンダキクがその位置を占めていた。
――なにかが起こる。きっとよくない何かが。
けれどそれが何なのか、いまのフランシスにはわからなかった。
彼は金髪の少年と黒髪の青年が幸せそうに笑いあうのを見て、ポテトにナイフを突き立てた。
アーサーは医務室のベッドに寝転がり、週明けに試験があるラテン語の教科書を眺めていた。他のベッドに病人の姿はなく、菊が野ばらをうたいながら窓辺のポインセチアに水をやっている。
「ちがう。そこはラだって何度も言っただろ」 アーサーは教科書を見たまま言った。
「ダメですねえ。もう癖になってるんですよ」
「あきらめんなよ! 最近おれまで引きずられるんだぞ!」
「あいすみません」
菊は笑って、真剣な顔でラテン語と格闘するアーサーをふり返った。最近、彼は菊のいる医務室に入り浸っている。もちろん授業をサボることはなかったが、それまで放課後図書館で過ごしていたのを医務室に切り替えたのだ。
朝も菊が来るころにはすでに医務室の前で座って本を読んでおり、暖房がきかない石畳の廊下はどれだけ寒いだろうといつも心配していた。数回彼を気づかって注意をしたが、アーサーをすねさせるだけに終わっていた。
それに本当は菊も彼と話すのが楽しかったので、心からとがめることができなかったのだ。菊は自分になついてくる小さな男の子が、ギルベルトと同じくらい大好きになっていた。
たいていはアーサー一人だったが、ときどき不満そうな顔でフランシスも連れて来た。フランシスはいつも菊にもの言いたげな視線を向けていた。かといって水を向けても、なにも言わない。
ただ昔と同じ、アーサーには関わるなと釘をさされた。菊は何度も彼を問い詰めたい衝動に駆られた。しかし、結局そうはしなかった。
ここのところ、菊はずっと考えていた。アーサーが言った「たすけて」という言葉の真の意味について。
最初は単純にネグレクトの母親から救ってほしいという意味だと思っていた。彼は母を憎んでいる。自分を虐待する母のもとを去りたいと思ってなんの不思議もない。
そして、彼の父親についても考えた。彼の父に対する評価が、その言葉と絵と周囲の評価がまるでくい違っているのだ。万華鏡のようにくるくる変わる彼の評価が不思議だった。いったい、アーサーの父はどんな人物だったのだろう。
それらについて菊はようやく答えを見つけた。ただ、それを彼に話すべきかずっと迷っていた。けれど、菊は今日その件をアーサーに話すつもりだった。
「アーサーくん。少し、私の話につきあってくれませんか?」
アーサーは起き上がって、教科書をひざの上に置いた。
「なんだよ?」
「貴方に私の家族についてお話ししたいのです。長くなってしまいますが、よろしいですか?」
「別にいいぜ。そろそろラテン語以外の言語の存在が怪しくなってきたところだからな」
「ありがとうございます」
菊はほほ笑むと、カップに紅茶を注ぎアーサーに渡した。そして彼の斜め前にある小卓によりかかり、マグカップ片手に話しはじめた。
「もう、だいぶ前の話しになりますね。私は十歳まで日本に住んでいたのです。あのときはまさか自分がイギリスに行くなんて思いもしていませんでした。
けれどその年の冬、両親が交通事故で亡くなり、私はロンドンに住む父の友人に引き取られることになったのです。彼は華僑で、母国では有名な会社の理事をしていました。とても、いい人でした。けれど多忙で、ほとんど家にはいませんでした。ちなみに私に野ばらをうたってくれたのは彼ですよ。耀さんといいます」
菊は紅茶で一口飲み、話しを続けた。
「私は、ロンドンの屋敷でいつも一人きりでした。家にいる間、ひどい目にあったことはありません。メイドも従僕も引き取られた私にじゅうぶんすぎるほど、礼儀正しく接してくれました。けれど、私は毎日寂しくてしかたありませんでした。
おそらく耀さんは私を愛して下さったのでしょうが、私は三日とおかず送られてくるプレゼントより彼自身にそばにいてほしかったのです。そして、私が大人になったとき耀さんは驚くべきことを発表しました。未婚で子どもがいない彼は跡継ぎに私を指名したのです。
もちろん、反対意見は星の数ほど出ました。それでも耀さんは断固としてゆずりませんでしたし、私もそれが恩返しになるなら、と了承しました。彼の家族は自分しかいないと思っていたからです。しかし、それは違いました」
「どんなふうに?」
「耀さんには他に親族がいたのです。それも私とひどく年の近い方々でした。彼がほとんど家にもどらなかったのは、多忙なこともありましたが親戚の子どもたちの面倒を見ていたからだったんです。
私は仕事をやめました。親族の方々をさしおいて、私が跡を継ぐなんておこがましいし、変だと思いました。……と、当時は考えたのですが、いま思うと少し違っていた気がします。
私はいい歳をこいて独占欲に駆られたのです。私は私を一番に考えてくれる家族が欲しかった。けれど耀さんが私以外の子を優先したのを知って、ショックを受けたのです」
アーサーはうつ向いてカップを見つめた。菊は彼に語りかけるようにしゃべった。
「でも、ギルベルトくんを引き取ったいまならわかります。目に見えるものが全てではないということが。いまは耀さんが私を愛してくれたことを心の底から信じています。
一番も二番もありません。愛に順序をつけるのが間違いなのですから。順序がつけられなくなったものこそ愛なのです。――だから、アーサーくん。お父さまは間違いなく貴方を愛していたと思いますよ」
アーサーは顔をあげて菊を見つめた。放課後の医務室は静かで、二人の呼吸の音さえ響きそうだった。菊はマグを小卓におき、引き出しから古びた画集を彼にさしだした。
「これをお返しします。長い間お借りして申しわけありませんでした」
「見たのか?」
「……ごめんなさい」 と菊は頷いた。
「私はそれを見てお父さまが貴方にひどいことをしているのかと思いました。そして」
「おれが殺したと思ったのか?」
「……そこまでは。しかし、違ったのですね。その画集はとても古いうえ、家でも確認しましたが子ども向けの解説なんて載っていなかった。貴方が画集に落書きしたのは、その筆跡からして何年も前のことです。
もしかすると六、七歳のときだったかもしれない。そんな年頃の子どもにサトゥルヌスの逸話が理解できるでしょうか? 貴方の優秀さにすっかり見落としていました。つまり、この絵は見たまま解釈するのが正しいのですね。怪物が子どもを食べている絵。つまり貴方を害するお母さまこそ」
「怪物さ」
アーサーはあぐらにひじをついて菊を見上げていた。その瞳は彼こそが怪物のように不穏に輝いていた。
「あいつの浮気のせいで父さんは酒びたりになって変なクスリにも手を出して、人生のどん底だった。あのパブだ。よく父さんが通ってたのは。それで、あそこからの帰り道、飲酒運転で事故を起こした。
でもおれは真実を知っている! あれは自殺だった! 父さんは、もう母さんのことで悩むのはうんざりだったんだ。ちっとも悲しくない! だって、生きてるより神さまの御許に行った方が父さんも幸せに決まってるから!
ただひとつ心配だったのは自殺した人は天国にいけないってことだ。だから、おれは父さんの代わりに祈った。自殺はとても忌まわしいことだけど、父さんはちっとも悪くない。本当に悪いのは、あの汚らわしい女ただ一人ですってな!」
菊はようやく理解していた。図書館で、彼は父親がもっと苦しめばよかったと言い、あたかもその死に自分が関係しているように訴えていた。しかし、それは半分事実で半分は願望だった。
アーサーの父親はおそらく本当に自殺だったのだろう。
それでも高貴な血筋のカークランド家に自殺なんてあってはならない醜聞だった。おそらくもみ消されたのだ。汚れをカーペットの下に隠すように完ぺきに。だから、菊を父親と同じ目に合わせるということも、要はそういうことなのだろう。
そして、アーサーが愛していた父親は彼にはひとかけらも関係ない理由で死んでいた。彼は母親と自分の間で揺れる父親に悲しみながら、その苦しみを歓迎していた。なぜならその苦しみこそアーサーを愛している証拠だったのだ。
けれど、最終的に勝ったのは母親への恋だった。
「でも、優しい貴方は彼女を憎めずにいる」
「ちがう!」
「ちがいません。ではなぜ、私が法を頼れといったとき躊躇したのですか? 彼女を案じたからでしょう」
菊は彼が母親を愛していることを疑っていなかった。とくにあのサトゥルヌスの絵が決定打だった。アーサーを風呂に放りこんだとき全身をチェックしたが、彼の身体に古傷はなかった。つまり、あの絵のような暴力にあっていないのだ。
もしかするとアーサーは子どもを喰う怪物をナイフで刺す一方、その猛烈な執着に惹かれてもいたのかもしれない。母親は彼に微塵も興味を持っていなかったから。
それに気づいたとたん、菊はようやく「たすけて」の意味を正確に受け取ることができた。
「前に貴方が言ったとおり、世の中にはいくら話しあっても理解しあえない人間がいます。酷なことを言いますが、貴方のお母さまはそういう方かもしれません」
「知ってるよ」
「でも、貴方は諦めたくないのですね」
「ちがう! おれはあの女が大きらいだ!……きらいなんだ! あんな女なんか」
「本当に?」
アーサーは菊から目をそらした。
「もし、アーサーくんが彼女と向き合うというなら、私は貴方を支えます。私は、ずっと貴方のそばにいますよ」
菊は内心、彼の母親がアーサーに振り向くことはないと感じていた。
きっと彼女は一生母ではなく、女として生きるのをやめないだろう。それでもアーサーが彼女を愛すなら、菊に止める権利はなかった。ただ、彼が傷ついたときその親にも勝る愛情を注いでやるつもりだった。それが、菊の答えだった。
「ほんとか?」
「はい」
緑色の澄んだ瞳からぼた雪のような涙がもりあがり、ぼろぼろとこぼれ落ちた。窓から射す儚い光は、アーサーを翼のない天使のように見せていた。
菊はゆっくり彼に近づき、シィーっと優しい声を出しながらその背中を撫でた。アーサーは菊にしがみついて、今度こそ大声で泣き叫んだ。