のばらの子どもたちact 012

 その日の夕方、カークランド邸にめったに帰ってこない一人息子が帰宅した。メイドたちは幼い主人の帰館を訝しがりつつ歓迎した。彼とその母親の不仲は彼女たちの間でも評判になっていたからだ。その大半が天使のような少年への同情だった。

 彼は母親に用事があると言い、しばらく部屋には近寄らないでほしいと命令した。その顔は毅然とした決意がにじみ出ていた。

 メイドたちは早速その件について話しあった。あるものはついに坊っちゃんが家を出ることにしたんだろうと言い、またあるものはいやいや母親を追い出すに決まってると言い返した。しかし、夜の十一時を回っても少年は部屋から出てこなかった。

 ついに日付が変わっても出てこない彼らを心配して、アーサーが子どものときから仕えるメイド頭が皆を代表して様子を見に行った。彼女はノックをしても返事がなく無人のように静まりかえる部屋に言いようのない不安を覚えた。

 室内は一見するとなにも異常がなかった。ただ、天蓋付きベッドの前でアーサーがくずれ落ちていた。

 メイドは驚いて彼を抱き上げ、ベッドのなかに彼の母親と見知らぬ男が死んでいるのを発見した。枕元から床にかけて白い錠剤が大量に落ちている。彼女は悲鳴をあげ、その声は屋敷中に響き渡った。


 菊は夢のなかでランカスターにある家の庭を一人で歩いていた。庭は雪に閉ざされ、一歩進むごとに足跡が白いじゅうたんの上に残されていく。彼はちょうど野ばらの木が植えてある辺りで立ち止まった。

 木の下に三人の少年が眠っている。少年たちは皆やすらかな顔で目を閉じ、心臓の辺りから美しい薔薇を一本生やしていた。

 ギルベルトは雪のような銀色、フランシスは湖面のような碧、アーサーは蜜のような中黄の薔薇だった。菊は彼らのもとにひざまずくと、その心臓から一本ずつ薔薇を手折り、持っていた籐のかごに入れた。

 しかしアーサーの薔薇を摘んだとたん、とつぜん胸が張り裂けそうなほど痛み、菊は四つん這いになって悶え苦しんだ。何度かの発作のあと一番大きな波が来て、こみ上げてくるものを雪のうえに吐き出した。それは真っ赤な薔薇の花びらだった。

 菊は野ばらのもとで目を閉じていた。その胸からは血のように赤い薔薇が一本生えていた。彼の周りにはだれもおらず、ただ雪だけがしんしんと身体に積っていった。

 しばらくすると、遠くから雪を踏みしめる鈍い足音が聞えてくる。足音は菊の前で止まり、彼はじっと菊の顔を眺めていた。菊は起き上がってその顔を見たい衝動に駆られた。しかし身体は金縛りにかけられたように重く、動くことができなかった。

 そのとき、胸からプツンという音がして赤い薔薇はいとも簡単に摘まれてしまった。薔薇が摘まれたあとの胸は茎の形の穴が空き、そこからとめどもなく血があふれてくる。

 菊は熱い鉄をおしあてられたような痛みに吐気さえ覚えたが、身体は少しも動かないままだった。助けを求めるように離れていく背中を見つめる。

 その蜜のように美しいブロンドを――


 菊が荷物をまとめて医務室を出ると、正面の柱に倒錯的な魅力を放つ少年が寄りかかっていた。

「うち、やめるんだって?」
「……ボヌフォワくん」
「ごめん、やめさせられるんだっけ? センセーがあいつに何か吹き込んだせいで、親子のすれ違いが起きて自殺、ってことになっちゃったもんね。さすがにカークランド家で心中事件なんて外聞が悪いか」

 彼は紫のリボンを揺らして笑った。しかし、その目は一瞬たりとも菊から離さなかった。

「センセーいま、どんな気持ち? きみがアーサーに希望なんて見せなかったら、あいつは絶望なんてしなかったんだよ。きみは光を見せておいて、それを鼻さきで取り上げたんだ。結局、あいつの母親は最後まで息子のことなんて眼中になかったんだから」

 二人の間を風が通り抜けた。いまは授業中のはずだが、菊はそれを咎めたりしなかった。ただ、真っすぐ彼の瞳を見つめ続けた。

「おれはさ、いままで愛に生きてたんだ。ちょっとでもかわいい仕草をすると、みんなすぐおれを好きになっちゃうだろ。そういうところ、ばかだよなーって思うけど嫌いじゃなかった。そもそも嫌いなやつなんていままで一人もいなかったんだ。だから、センセーはおれの初めてなの」
「初めて?」
「そ。おれ、きみが大きらいだから。だってさあ、きみがひっかきまわしたせいで考えうるかぎり、最悪の結末じゃん。それにあんなにアーサーを依存させといて、自分は高跳び? ちょっと愛がなさすぎだよ。センセ」
「愛がない?」

 菊は火星人の言葉をきいたというふうに目を丸くした。そしてたしなめるように少年を見下ろした。

「そうですね。学園を去る前に貴方には言っておきたいことが山ほどあります。けれど、残念ながらそれらすべてに言及する時間はありませんので、私への失礼な発言については省きましょう。いまの言葉にだけ反論します。愛を知らないのは貴方のほうですフランシス・ボヌフォワ。私は私のやり方で彼を愛しています。つまり、貴方風の言葉に言いなおしますと、他人の事情に首つっこむな!」
「わお、言うね」

 フランシスは小さく笑って、キスする寸前の距離まで顔を近づけた。しかし彼の目は氷のように凍てついており、菊を心のそこから蔑んでいた。彼はそのままポケットを漁ると、出て来たメモ用紙を菊の胸ポケットに押し込んだ。

「おれの電話番号。失くさないで、ってか覚えて。これからきっと何度もかけることになるんだから」
「なぜそう言いきれるんですか?」
「おれはあいつと同じパブリックスクールに行くから。きみはアーサーのことが気になってしかたないだろ?」

 菊は驚いてフランシスを見つめた。彼は菊に嘲笑をぶつけると、伸びあがってその口の端に別れのキスをした。

「代わりにきみのいう『愛』を教えてよ。アーサーを骨抜きにしたように、幸いおれたちに時間はたっぷりあるんだから。バイバイ、ホンダちゃん。――そして、末永くヨロシク」

 彼は乱暴に菊を突き飛ばすと、大理石の廊下の奥に消えて行った。菊は唇を押さえてその背中を見送った。医務室の長い廊下で、長い間一人立ち尽くしていた。


 ミニバンが止まる校門にぼさぼさの金髪が見え、菊は一瞬息をとめた。きつく目を閉じ、荒くなる呼吸をゆっくりと通常に戻した。彼の姿を見ただけでフランシスと相対したときの虚勢がはがれおちそうだった。

 あの事件のあと、菊は何度か過呼吸の発作に襲われた。しかし、それを恥ずべきことだと思っていた。本当につらかったのは、菊ではないからだ。

 幻の中で、菊は何度もアーサーに助けを求められた。彼は希望に満ちた顔つきで母親の部屋に入っていく。今日は話しがあるんだぜ。ちゃんと聞けよな、なんて顔を赤らめつつ言う。しかし、返事は返って来ない。そこで彼は違和感に気づく。

 着替えや靴下がそこらに散らかしてあり、ベッドの近くの床には白くて丸いなにかが落ちている。彼はベッドに近づく。
 すると、天蓋付きのベッドから青白い棒が四本とび出ている。二本は母親の真っ赤なピンヒールをはいている。もう二本は……なんだろう? 見たことがない。

 彼は本能の警鐘に逆らって天蓋を開けてしまう。そして、両手で頭を押さえ数歩後ずさる。口のなかではずっと神と菊の名をくり返しによんでいる。けれど助けは来ず、彼はうずくまって目をつむる。このひどい現実から目をそらすように。
 
 菊は断崖から遠ざかろうとしていたアーサーをわざわざ連れ戻し、あまつさえそこから突き落としたのだ。菊はなにもかもフランシスの言うとおりだと思っていた。自分さえいなければ、アーサーは絶望しなかったのだ。

 菊は茶色の鞄を持ち直し、彼の前に立った。アーサーには一目見てわかるほどの変化はなかった。それでもよく見るとばら色の頬は色を失い、唇にはいくつかカサブタができていた。
 彼は菊を見ると、投げやりな笑みを浮かべた。菊は彼のそんな表情を見たくなかった。

「センセイ、薄情だよな。葬式にも来ないで」
「すみません」
「おれはずっと待ってたのに。ずっとそばにいるって言ったのに! うそつき!」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。アーサーくん」

 菊は彼に向って深く頭を下げた。アーサーは知らないが、菊は彼が納棺に立ちあう姿を見ている。親族によって葬儀への参加を認められず、影からこっそり見守っていたのだ。アーサーは納棺に際して無表情だった。しかし、菊にはその深い悲しみや嘆きが理解できた。

 アーサーは父方の親戚に引き取られる予定らしい。彼らはアメリカ人で、アーサーに年の近い義弟もいるという。悲劇に見舞われた男の子をひどく憐れんで、是非とも家で引き取りたいとのことだった。

 木影からアーサーを見つめていると、金髪に青い目の少年が話しかけてきた。彼は無邪気な瞳で「きみも抜け出して来たの?」と菊にたずねた。そして、隣りに座って「あれ」と納棺に立ちあう人々を指さした。

「うちの親戚なんだ。それで、お義兄ちゃんができるかもしれないんだって。ホント意味がわからないよ」
「かもしれない……?」
「そうさ。きいてよ! ヒトゴロシが彼を引き取ろうとしてるんだ! 本当にひどい話だろ。しかもそのヒトゴロシ、アジア人なんだ!」

 菊はぎくりと肩を揺らした。

「信じられないよね! ヒトゴロシのうえにアジア人が白人の子どもを引き取るなんて信じられないってママも言ってるよ! あーっと、ゴメン」

 彼は菊をまじまじと見て謝った。しかし、菊は無言で首をふった。

「もし、ヒトゴロシが人殺しじゃなくて、男の子ととても仲良しだったらどう思いますか?」
「どうもこうも、そんなの関係ないんだぞ! うちに来るのが一番幸せなんだから! それにアジ……外国人の養子になってホントに幸せになるって思う? だって、彼の家にいって大きな誕生パーティーができるのかい? 招待したら彼の家に人は来るの? 素敵なプレゼントは? 友だちとのお泊まり会は? うちは家が大きいし、誕生日にはネームプレートをのせた大きなケーキが食べられるし、ロバのしっぽ取りゲームだってさせてもらえるんだぞ! それをぜーんぶガマンするなんて、おれはぜったいガマンできないよ!」

 菊はどうにか呼吸を落ち着かせ冷静な声を出そうとしたが、それは細く震えていた。

「けれど、彼はアーサーくんをちゃんと愛しているのですよ。きっとアーサーくんもそれは同じだと思います」
「じゃあ。そいつはおれのパパとママのことは愛せないの?」

 菊は衝撃を受けて黙りこんだ。うな垂れる菊を見て、少年は励ますように言った。

「パパは仕事でしょっちゅう家を空けるんだ。でもそのときママはいっつも離れていても愛してるわって言うよ。だからええと、本当に愛してるなら離れてても関係ないんだよ。たぶんね!」
「……そう、でしょうか。貴方はお兄さんができたらうれしいですか?」
「さあね! まだわかんない。でも、やなヤツだったらサイアクなんだぞ」
「だいじょうぶ。とても優しい人ですよ」
「ほんとかい? なら仲良くしてあげてもいいかな! ここだけの秘密だけど、一人でヒーローごっこするのはちょっと寂しかったんだぞ」

 彼が恥ずかしそうに笑ったとき、アルフレッド! と若い女性が木陰にやってきた。彼女は息子と一緒にいる菊に見て、ぎょっとしたように立ち止まった。そしてわざとらしく挨拶すると、アルフレッドの手を引っ掴み去っていった。

「ねえ、これあげる!」 去り際アルフレッドがこっそりピンクと青のシマシマの包装紙を手に落とした。
「泣いてる子はヒーローがなぐさめてあげるんだぞ! そのアメとっても美味しいから涙もひっこんじゃうよ」

 二人の親子がやがて三人の家族になり、彼らが手をつないで墓地から消えていく姿を菊はぼんやり眺めていた。

 ようやく彼らが見えなくなると、もらった飴を太陽に透かし見た。ここに来るとき、菊はある決意を固めていたのだが、それはすでに意味のないものだった。

 ポケットからロンドンの邸の売買契約書を出し、それをゆったりとした手つきで破っていく。白い紙ふぶきは菊の手をすり抜け遠くへ、どこか菊の知らない遠くへと散っていった。

 菊はそれをひとしきりながめ、急に笑いの発作に襲われたかと思えば、やがてもがき苦しむよう身体を九の字に折って大声で泣き始めた。